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本を読む日々眠る日々──戦争(から読む)
戦争(から読む)
逆らう・書く
さる4月11日のこと、新学期の始まる前日だったが、ラッシュ時の山手線でその日古本屋で手に入れたこの往復書簡を読みながら私が聞いていたのは、新大久保から乗ってきた身なりの若々しい男女二人組の会話。その声──男はとくに背が高く、声は頭上に降ってくる──が言うのは、だいたい次のようなことだった。
──おれ、昨日、カミカゼ特攻隊の手記みたいなの読んでたんだけど、あ、カ
日記(9/5-6)、合宿とか
保坂和志の『プレーンソング』を読んでいたんだけど、ちょうど海水浴の場面が出てきた。偶然、というか。ああ、鉤括弧にくくられた四人の会話がつづいて、だれが話してるのかわからなくなる、やつだっけ。みたいな話を帰りの電車から降りたあとに話した。
『プレーンソング』はフィクションなんだけど、もっと僕たちに近いところにある出来事を描いてるような気がする。会話とかもそう。保坂は作中で映画を撮る青年に語らせて
本を聴く夏、読めぬ夏
日々の暮らしの、無用のよろめき──『彼女のいる背表紙』『戦争ノート』
愛読しているといってもいい古井由吉、金井美恵子、須賀敦子にしても、また最近ハマっているアントニオ・タブッキやクロード・シモンにしても、なんとはなしに読んだトーマス・ベルンハルトにしても、ゆく先々でその名前に行き当たるので、わたしが彼の足跡をたどっているというより、偶然の導きによって彼と再会しているとさえ思われるこの恩師──文
詩(ここちのよい睡眠)
呼気
夏の夜に寝覚めしたときに
ふと窓の外に痕跡もうしなって
吹きだまっていた
明かりを消し
樹木のざわめきが耳の奥で軽くなり
あえかな感触をさがす
なにかが脈打っている気がする
幼いわたしは眠りの内を白ませ
見つからないように
溶け入りたいとおもう
「本質的なものはつねに失われる」
そう書き写していた人
命を言葉に変えてしまった人
おしだまっている人
言葉は
イメージ
あるいは
先触れ
犬を読む日々飼わぬ日々
大江健三郎の「義認」と死──『懐かしい年への手紙』
大江健三郎が亡くなったのは私が二十歳を迎えて二週間が経ったころだった。これをきっかけにして私は彼の著作を読みはじめることになるのだが、なぜいままで温めていたのか考えてみると、どうやら「大江」をある種のイニシエーションとして考えていたらしいのだ。
あまり信じては貰えないものの、私が本当の意味で読書をはじめたのは大学に入ってからで、なおかつ一年
本を読む日々読まぬ日々
いないこと、いなかったこと──『月と篝火』
気がついたら春休みも一ヶ月ほど過ぎ去っていて、ほとんど小説を読めていないことに気がついた。二月は「笑い」の原稿にかかりきりだった。原稿に際してエーコとボルヘスは読んでいたが、それでも自由な読書とはいえなかった。レポート期間が一ヶ月のびたような感じだ。しかも、まだシナリオ、論考、小説が一本ずつ残っている。引き受けたことを後悔はしていない。ただ、精神的な
詩を/と読む1(平出隆)
「(詩はつねに先触れである)」という断言めいたつぶやきを目にしてからというものの、こうして生きているうちにも見えないだけで、書いた詩や読んだ詩がなにかを暗示しているのではないかという気がしてきた。これはアガンベンというイタリア人の『哲学とはなにか』なる本にあった一節だが、そこで彼は哲学を後奏曲、詩を前奏曲になぞらえている。わたしは頭の固い人間なので、こうした区別を目にするとすぐ「代補」などとい
もっとみる詩(土地・写真・忘却)
水写真
三匹の干からびたイヌの死骸が鉄条網に吊り下げられている
私は
薄目を開いて、
光なのか、霧なのか、白い
「右部分はかすれているんだ」
そうして、背後から友人の声が聞こえた
「ポンペイの悲劇詩人の家に行ったとき、イヌを象った床絵を見た
そこにはかすれた文字で“CAVE CANEM”とあった」
中央には腕だけが欠けた人骨がある
三日前に要介護認定を受けた母親のものだ、と
思った
ここに生
12/14 歩くことを歩く
最近寒くなってきてるから、と詩に書いてからというもの、めっきり冬めいてきたような気がする。詩を、「詩の世界」に閉じこもって描いてしまう私にとってそれは限りなく生の実感に近いものだった。年の瀬も押し詰まり、厚手のコートとマフラーとが欠かせない。今日は風が強かったから耳のあたりが凍りつくことになった。
教室や電車のなかはむしろ暑い。外を歩いているときこそ輪郭が縁どられるくらいの寒さを感じる。寒いく