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療養日記2

一月六日

 今日の一日で川上未映子『夏物語』を読み終えた。正確には聴き終えた。いまだ熱と鼻炎の症状がひどく、横になることしかできないのでAudibleを聴いていたのだった。
 昨年読んだ上田岳弘のなにかの短篇で、登場人物がカフカの『城』を聴いていた。文庫にして600ページほどのその長篇は朗読するのも大変だろうなと変に感動したのを覚えている。根気よく聴き続けるのも大変だろう。そういえば、「声と文学」を特集した文學界の2022年9月号に載っていた上田の「声」という短篇も、Audible化されていた。それは文字で読んだきりだ。この短篇は、口述筆記されたのだという。つまり、作家の声が口述筆記者によって活字化され、活字化されたものを朗読者が朗読した、ということだ。
 口述筆記というと、太宰の「駆込み訴え」やドストエフスキーの『罪と罰』、谷崎の晩年の作品から折口の『口訳万葉集』までいろいろと思い浮かぶ。興味深いのは、そのとき創造の場に2人立っているということだ。これらの文豪でさえ、文学作品を著す際、ロマン主義的な孤独にあるわけではない。女性のケア労働と、そのケア労働を周縁化することによって、作品が成り立っている。作者性のようなものが融解する場は、口承の時代に限らない。
 晩年、マリア・コダマの口述筆記により作品を著したボルヘスを意識したかに思われる金井美恵子の「声」という短篇には、『岸辺のない海』を書いたのは私だ、という〈読者〉の少女が現れる。『岸辺のない海』は紛れもなく金井の代表的長篇である。その少女は、何度も「作者」の「金井美恵子」のもとに電話を掛け、私の小説は盗作されたのだと主張する。発想以外に特になんの面白みもない短篇なのだが、要するに、金井はここで作者性と呼ばれうるものを解体している。読者が作者になり、作者が読者になってしまう瞬間。今となってはことさらに取り上げるものでもない気がするものの、〈声〉の発せられる場所だけが特権的中心ではない、と考える上ではどこか示唆的であるようにも思う。ならば、声の生まれる場所とはどこなのだろうか。

 『夏物語』を聴いているとき、吉野弘の「I was born」という詩を思い出していた。国語の教科書にも載っているらしいから、知っている人も多いだろう。その詩をまた、詩人の吉原幸子がラジオで朗読していた。最近、それを聴いた。暗くなった部屋で、目を閉じて、音だけに集中して、そうして聴こえてくる。

──友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは──。
吉野弘「I was  born」一部

 私はこの詩を、『夏物語』と同一視することはできない。しかし、受動的に詩を、小説を、声を聴いているあいだ、ずっと「生き死にの悲しみ」と呼べるようなものを感じ取っていたような気がするのだ。昨日、祖父が死んだ。まだこのことを消化しきれていないため文章にあらわすのは先になるが、そのせいで最近、生きること、について酷く敏感になってきているのを感じる。
 かつて、私は「母語てきなもの──創作ノート──」という愚にもつかぬ散文のなかでレヴィナスの出生論に言及したことがある。そこで私はこう言っていた。

レヴィナスは「生むこと」に対して興味深い論を展開している。いわく、エロス、死、そして「子ども」との関係において、主体が「存在すること(実存)」は一元的なものではなく、ある種二重化されている。たとえば、「〈私〉は、父性(※後の『存在するとは別の仕方で』においては「父性」が「母性」に置換される)において自分自身から解放される。かといって、一箇の〈私〉であることをやめるわけではない。〈私〉がその息子であるからである」(『全体性と無限』)。

 このユダヤ人男性哲学者の言葉を引いたのち、私は母国語との関係を母子関係になぞらえているが、今となっては明らかに間違っていた、と思う。同じユダヤ人にして女性の政治思想家であるハンナ・アーレントは「死」に焦点を当てたハイデガーと対照的に、絶えず他なるものが生まれ出る「出生」を寿いでいる(森川輝一『〈始まり〉のアーレント』など面白い)。しかし、この思考もある意味で「男性的」であると言えるかもしれない。レヴィナスもアーレントも、「他者性」を重視している。「他者性」に開かれることが最重要の目的で、それに伴う痛みはあまり問題化されない。
 レヴィナスの「生むこと」は、プラトンが『饗宴』に描いたような思想の「松明行列」である。自らの思想を、女性を必要とすることなく、「子孫」代々伝えていく。このことがホモソーシャルの社会であるギリシアで絶対視されていた不死性と深いつながりを持っているのはいうまでもない。
 アーレントに至っては、公的空間に参入し、正体 who をあらわにすることが自己目的的な政治的行為として特権視され、暗い私秘的領域が顧みられることはない。顧みられたとしても、それは背後にある女性や奴隷の匿名的労働を顧みるのではなく、男性哲学者のプラトン的「洞窟」のなかでの孤独な思索が顧みられるだけなのだ。

 生きることはどうしようもなくつらくて、絶え間ない疲労と倦怠感に満ちている、と主張することはできても、それを『夏物語』の感想とすることはできない。私は夏子の決断を、決断であるということから評価することも、あるいは評価する立場にも自分の問題として引き受ける立場にもなることもできないし、また「問題を前面化したことにこそ価値がある」と我が物顔に主張することもできない。私は『夏物語』の感想を先延ばしにしようと思う。それは、『夏物語』を終わらせないということになるのだろうか。思えば元日の朝日新聞朝刊の一面は、『戦争は女の顔をしていない』などで知られるアレクシエーヴィッチのインタビューだった。彼女は凡庸だが力強い言葉で、「私たちの誰もが、とても孤独です。」と言っていた。声の生まれる場所はひとつではない。今生きているのが孤独の時代なのだとすれば、自分自身の孤独と向き合いつつ、我有化するのでも「批判的行為体」を抑圧するのでもないかたちで、まずは声に、それを通じ声が声となる孤独な場所へと耳を澄ませ続けていたいと思う。これが言うまでもなく「作者」的な傲慢で尊大な妄言なのだとすれば、まずは、「読者」として『夏物語』についてだれかと語り合ってみたいと思う。

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