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詩(ここちのよい睡眠)

眼窩1
眼窩2


呼気

夏の夜に寝覚めしたときに
ふと窓の外に痕跡もうしなって
吹きだまっていた
明かりを消し
樹木のざわめきが耳の奥で軽くなり
あえかな感触をさがす
なにかが脈打っている気がする
幼いわたしは眠りの内を白ませ
見つからないように
溶け入りたいとおもう

「本質的なものはつねに失われる」
そう書き写していた人
命を言葉に変えてしまった人
おしだまっている人
言葉は
イメージ
あるいは
先触れ
でしかない
というのに
溶けだしていったものに触れられない
わたしは

そこに居たというのに
あれも これも忘却として
目覚めた後も
ぼんやりと立ちつくしている
どこか遠い 夢の
投げかけようとした

のように気がつくと薄らいで
どうしても 沈黙する
また白い壁が見える
わたしは明かりを消す
あえかな感触をさがす
なにかが脈打っている
触れようとする と
息を吐きもどす



※「眼窩」は『繭』第7号に寄稿した詩で、「呼気」はその前に書いたものになる。この二作と、前に公開した「ひのいり」は、ちょうど肉親の喪失に対してなにを書くことができるのか、書かないことができるのか、それを考えながら書いていた。結果として、ほとんど書くことができなかったし、満足のいく出来ではなかったから公開を先延ばしにしていた(「眼窩」のほうは少し気に入っている)。わたしは、言葉にたよりきれていないから、言葉を影として、あるいは痕跡として扱うことに抵抗がなく、その結果、残像のようなイメージでもなにかを語りうるのだと、それが自分に対してさえなにも訴えてこないことに目を瞑ったままに、信じ切って、あるいは言葉が像でしかないのなら、肉体的なイメージを喚起すればよいのだという安直な考えのために、グロテスクな表現を弄したりしたが、それは「ほんとうのこと」に向きあうことですらなく、また記憶を再構成することですらもなく、ただ挫折を味わうだけだった。春休みは別の原稿に掛かりきりだったから、また詩を書き継いでいきたいと思い、ここに公開した。ちなみに「ひのいり」はおおかた好意的に捉えられていた選評で「意味がよくわからない、というか、意味はわからなくてもいいのだが、その場合、辛いのに変なのに、ノリノリで読んでしまうな、と思わせないとダメ」と言われていた。喚起するイメージのエネルギーに乏しいのだと思う。

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