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本を読む日々眠る日々──戦争(から読む)

戦争(から読む)




逆らう・書く


 さる4月11日のこと、新学期の始まる前日だったが、ラッシュ時の山手線でその日古本屋で手に入れたこの往復書簡を読みながら私が聞いていたのは、新大久保から乗ってきた身なりの若々しい男女二人組の会話。その声──男はとくに背が高く、声は頭上に降ってくる──が言うのは、だいたい次のようなことだった。
──おれ、昨日、カミカゼ特攻隊の手記みたいなの読んでたんだけど、あ、カミカゼ特攻隊って知ってる? あの、アメリカの基地につっこんでって死ぬやつ。──知ってる(小さな声で)──あれ読んで、21歳くらいの若者が、書いてて、若いんだけど、読んでて、おれ、めっちゃうらやましいなーって思った。(少し間が開き、降車のアナウンスが流れる。人びとが身を捩る。)カミカゼの若い奴らのほうが、自分のやりたいことできてて。

 そこで山手線を降りて、会話を書き留めた覚えがある。数ヶ月ぶりになにか書こうと思ったら、下書きに残っていた。およそ1年前の文だ。このときわたしは大江健三郎の文章を読み直すという企ての最中で、ゆえにここで言及される書簡とは『大江健三郎往復書簡 暴力に逆らって書く』(朝日新聞社、2003年)のことだった。けれども、ついに書き継がれることはなかった。なんというか、消化しきれなかったのだ。男もわたしも、特攻隊の平均年齢と同じくらいだった。そうこうするうちにまた戦争が起こった。秋には文学フリマ東京が開催され、そこで頒布した『大江健三郎を読む日々』という同人誌に、この文章を掲載することはできなかった。戦争はいまも起こっている。
 本書には、グラス、バルガス=リョサ、鄭義、チョムスキー、サイードなど世界の文人とのあいだにおこなわれた往復書簡がおさめられている。初出は朝日新聞の夕刊記事。学生であれば大学が「朝日新聞クロスサーチ」という朝日新聞社のデータベースを契約しているはずだから、「大江健三郎 往復書簡」と検索すればいますぐにでも読めると思う。記事は《未来に向けて 往復書簡》と題されていて、いま、わたしが彼からの手紙を受け取ったような感じも覚える(ちなみに、本書が出版されたのはわたしが生まれた年である)。昨年復刊された『大江健三郎同時代論集』(岩波書店、2023年)にも巻末には「未来へ向けて回想する──自己解釈」と題されたエッセイが付されていたし、彼の文章はずっと未来を志向しているな、と思う。
 1935年、エルサレム生まれの文化理論家、エドワード・W. サイードとの往復書簡に、つぎのようにある。

 敬愛するエドワード、旅の間も、私が「戦争とプロパガンダ」と共にあったことを読みとってくださるでしょう。たとえば、次のように訳されている一節。
《アメリカ人の思考では、南アフリカの解放戦争とパレスチナとの類比や、ネイティヴ・アメリカンの恐ろしい運命とパレスチナとの類比は、断固としてありえない。これらの類比をつくり出すために、わたしたちはまず何よりも自分たちを人間として認識させる必要がある。》
 帰国して接したメディアは、あいかわらず「パレスチナ人のテロとイスラエルの軍事報復」を単純につなぐ報道を続けています。イスラム過激派ハマスが新たに開発したロケット発射台をイスラエル軍が押収した記事には、かれらがロケット攻撃をしかけて来れば、全面戦争になりかねない、というシャロン首相の「警告」がそえられていました。
 この人物が、レバノンとエルサレムにおけるパレスチナ人殺害に責任のある将軍であり、いまは 「核保有国」の首相であることに思いをいたすなら、パレスチナ人の自爆攻撃と──お手紙にもありますが、あなたはずっとそれに反対して来ました──イスラエルの報復とを同列におくことができるでしょうか?

『大江健三郎往復書簡 暴力に逆らって書く』pp.277-8

 2002年2月25日の手紙だ。現時点で「全面戦争」が起こっているということをのぞけば、現状とのあまりの類似に恐ろしさを覚える。当時35年間も続いていたイスラエルによる不法な軍事占領は、その後も22年間つづき、いまや不均衡な武力のもとでだれの目から見ても明白なジェノサイドがおこっている。つづけて、つぎのようにある。

 あなたは、パレスチナ人とイスラエルの人びとを指して「わたしたち」と書かれています。《わたしたちに必要なのは、虐げられてきた精神を高揚させ、現在のあさましい状況の先を見させてくれるようなヴィジョンである。ほんとうに希求すべきものとして確固たる態度で人々に示されれば、そのようなヴィジョンはけっして破綻することはない。》

同書、p.279-80

 大江はここで、サイードのいう「わたしたち」という言葉に希望をみる。そして、そうした姿勢が「教育によってしか恢復されない」といっている。いまわたしたちはここに、一度は「小説を断念した」彼がサイードの著作を読むことによって「立ち直ろうとした」理由を伺えるかもしれない。すなわち、「二十一世紀を人間らしい人間の生きる時空間」とする若者たちにむけて、大江は「後期の仕事」を書き継いだというわけだ。神秘主義的な隘路にではなく、未来へ向けて。その若者たちとはもちろん、「わたしたち」でもある。
 先々月上梓された中井亜佐子『エドワード・サイード ある批評家の残響』(書肆侃侃房、2024)がこうした人称代名詞について興味深い指摘をしていた。本書は『はじまり』から『パレスチナとは何か』にいたるまでのサイードの初期著作を検討しながら、彼にとって批評がいかなる営為であったかを明らかにしている。「ある批評家の残響」というタイトルからは、「批評の批評」ではなく「批評家の批評」をするという決意があらわれている。

 サイードの他のパレスチナ関連の著作と比べたときの「パレスチナとは何か」の重要な特徴は、形式そのものにおいて「生成途上の共同体」を具現化しようとしている点である。写真とテクストの組み合わせというメディア・ミックスによる作者の複数化と作者性の攪乱も、そうした試みの一つだといえる。あるいはまた、サイードのパレスチナ人を表わす人称代名詞の使い方にも注目したい。「わたしたち」「あなたがた」「彼(女)ら」などと文脈に応じて使い分けられており、サイードは安易に自身とパレスチナ人全体とを同一視することはない。「わたしたち」パレスチナ人という主語が使われるのは主として、政治的な発言を行う集合的主体が必要とされるときである。

『エドワード・サイード ある批評家の残響』

「わたしたち」という人称が抱える全体化、物語化のおそれに対しだれよりも慎重であったサイードは、しかし未来をそのことばにこそ賭けたのだ。それにいちはやく気づいた一人が、のちにサイード由来の「晩年のスタイル」を実践することになる大江健三郎だった。(ちなみにサイードは70年代から80年代にかけてパレスチナ人の民族国家の樹立を支持していたが、90年代になるとオスロ合意に反対し、パレスチナとイスラエルの二民族一国家主義を掲げるようになった。以下の対談記事にも詳しい。中井亜佐子×河野真太郎「批評とは何か いまサイードを読むこと」(『週刊読書人』2024年3月8日号)。余談だが、中井がつぎのようにいっていておもしろかった。「レイトスタイルとは、晩年を意識しながら晩年になってむちゃくちゃをやる、ということ。今なら老害と言われますね(笑)」。)
 朝日新聞ではいま小説家の古川日出男が文芸時評を担当していて、それをわたしは毎月たのしみにしているのだが、1月の抽象の先に 静かに強く、現れる本質」(朝日新聞、2024年1月26日朝刊)の締めくくりに、このような文章があった。

いや、むしろ、こうした行動しつつ思考する批評家の営為は、その営為じたいが小説なのだ。

 言葉は安藤礼二『死者たちへの捧げもの』(青土社、2023年)へ向けられたもので、すなわち「批評家」とは安藤のことなのだが、その批評の対象の一人であった──そして相互に影響を与えあう読者の一人でもあった──大江もまた「行動しつつ思考する批評家」であったことはまちがいない。むろん、サイードもそうであろう。彼は生涯に二度、小説を書こうとしたことがあるのだという。中井亜佐子がいうように、それは危機におけるあらたな「スタイル」の模索としてあった。
 安藤はサイードの晩年が「自身の外部である「世界」に対しては故郷を喪失した同胞であるパレスチナの人々とともに闘い、自身の内部である「私」としては緩慢な死をもたらす白血病と闘い続けていた」(p.76)ことを指摘している。大江がのちに倣うことになる「晩年のスタイル」とは、「世界」と「私」のカタストロフィーに抗い、そのただなかで、実践として身につけられる新たな生き方と表現のスタイルのことである。安藤は大江最後の小説、『晩年様式集』(講談社、2013年)に対しつぎのように述べている。

フィクションとは、現実の「世界」の専制に抗い、現実の「私」の専制に抗うために人間がもつことの許された「言葉」の武器なのだ。武器であるが故に、それは人々を深く傷つける場合もある。 なおかつその傷は何度も反復される。大江にとって最も痛ましく、それゆえ、最も反復されなければならないフィクションの傷──フィクションによって相手を傷つけることであり、同時にフィクションによって自分が傷つくことでもある──こそが、作者の「分身」たちの相次ぐ死、現実においても虚構においても反復される「おかしな二人組」を形づくっていた年長者にして先導者、「兄」たちの自殺とも事故ともとれる両義的な死であった。

「最後の小説──晩年の様式」『死者たちへの捧げもの』p.79

 ここでは、フィクションによる現実の複数化が「世界」と「私」の専制に逆らうための武器であること、それがしばしば自分を、相手を傷つけてしまうことが言われている。「私」が女性化されたり、いくつもの「分身」として描かれたりすることこそ、本作が「現実の世界に抗う政治的な実践であると同時に、虚構の世界のもつあらゆる可能性を追求した文学的な実験、つまり「小説」として書き上げられなければなかった理由」である。それら「分身」たちの形象の根源にあったのが、『懐かしい年への手紙』などに登場するギー兄さんであることはまちがいない。「核時代の森の隠遁者」で「森の隠遁者」ギーは抗議の焼身自殺を遂げ、『懐かしい年』はギー兄さんの自殺とも事故ともとれるような「水死」によって物語が閉じられる。以前、大江の分身としてのギー兄さん、そして古義人の名前にふくまれる「義」とは、柳田國男の“ぎ”などではなく、「義認」の「義」であると書いたことがある(「大江健三郎の「義認」と死」、のちに加筆・修正を加え『大江健三郎を読む日々』に収録)。「義認」とは人間を罪の状態から義の状態へと移行させる神の行為のことだ。これを書いた時点では『晩年様式集』を読んでいなかったのだが、本作を、そして安藤の批評を読むとけっこう的を射ていた気もする。「懐かしい年からの返事は来ない」。安藤のいうように、「死者たちが寄り集る「懐かしい年」に安住することを許されない」し、「死者たちの生を、物語として反復することは許されない」。「死者たちの記憶を、これから生まれてくる者たちへの贈り物へと転換しなければならない」(p.80)。大江のテクストは、「いつまでも循環する時に生きるわれわれ」へ向けて書かれたものではない。いま、未来のわたしたちは、大江の生=テクストを読むことによって、その手紙を受け取っている。
 サイードはいっていた。

 テクストは世界のなかにあり、ある程度まではできごとなのであって、テクスト自身がそうなることを否認したとしても、それは社会や人間の生の一部である。そしてもちろん、テクストは歴史の時間の一部でもあって、歴史のなかに位置づけられ、そのなかで解釈されるのである。

「世俗批評」『世界・テキスト・批評家』山形和美訳、法政大学出版局、1995年、p.6

「世界」と「私」と「テクスト」は隔たりをもちつつも、つづいている。サイードにとって、そして大江にとって、「行動しつつ思考する」ことは、それら隔たりを越え、言葉によって新たな可能性を描き継ぐことであったはずだ。サイードが「旅をする理論再考」(『故国喪失についての省察2』所収、大橋洋一ほか訳、みすず書房、2009年)において、理論をべつの時空間に置き直すことは抵抗や逸脱を招き、結果安易な制度化を避けられると主張していたのは、そのためかもしれない。彼らのそうした営為は未来のわたしたちの現実を複数化するようなヴィジョンをもたらす。そう信じている。


とどまる・理解する


 中井亜佐子『エドワード・サイード ある批評家の残響』が中心に論じていたのはサイードの「旅する理論」、つまりあるものをべつの附置におくこと(≒対位法的読解)であったが、先日、反対に「とどまる」ことを描いた小説が翻訳された。マルコ・バルツァーノ『この村にとどまる』(関口英子訳、新潮社、2024年)である。新潮クレスト・ブックスの一冊で、イタリア文学の訳書も珍しく、それで手に取ったが存外おもしろかった。
 舞台は北イタリアの南チロルに位置するひとつの村、クロン。南チロルは第二次世界大戦下、ファシズムとナチズムの支配を立てつづけに受けた地域だ。トリエステと併せて「未回収のイタリア」(Italia irredenta)として世界史で学んだ覚えのある人も多いかもしれない。といっても「未回収」とはイタリアのナショナリズム由来のことばであって、そこでは主にドイツ語が話されている。だが、本作のはじまる前年にはムッソリーニのファシストが当地域を支配し、イタリア化が急速に推し進められる。これは、人々を強引に「わたしたち」にする暴力である。語り手のトリーナはドイツ語の教師を目指していたが、ドイツ語を禁止する政策のため教職を得られず、若くして非合法でドイツ語を教える教師となる。その活動はつねにファシストに脅かされ、彼女の長年の友人だった教師も流刑に処されてしまう。
 古川日出男の前に朝日新聞の文芸時評を担当していた翻訳者、鴻巣友季子の鴻巣友季子の文学潮流(第11回) 水と時間の流れを描く「ここにとどまる」物語」(好書好日、2024)は、こうした政策を「メモリサイド」(memoricide;記録・記憶の抹殺)といっている。言葉の覇権を握ることによって「人びとの思考と意思の疎通を阻害し、あらゆる記録を抹消し、文化文明の継承を絶とうとする」ことだ。岡真理『アラブ、祈りとしての文学』(青土社、2009年)が指摘しているように、これはガザでパレスチナ人に対し行われてきたことであり、また行われていることだ。
 イタリア化のすすむさなかヒトラーが介入し、人々は「ライヒ」(ドイツ国)への移住を迫られる。語り手のトリーナ一家はこれによって引き裂かれる。娘のマリカが親に告げずに移住してしまったのだ。だから本書は、トリーナからマリカへの手紙の形式をとっている。やがて戦争が勃発し、SSの手が村に忍び寄る。ここにとどまる(Resto Qui)と決めたトリーナたちがアルプスへ逃れざるを得なかったときも、トリーナはまるでそれが一筋の救いであるかのように、書きつづける。しかし、手紙を受け取るのはマリカではなく読者の「わたしたち」である。記憶をのこすということは、けっして全体化できないものを全体化しかねない危険をおかしながら、なおも具体的な事実を痕跡としてとどめる、書きとどめることであるということを、小説の形式それ自体が例証している。現物の手紙は焼失するため、わたしたちが読むのはその焼け跡にすぎない。
 本書のテーマは、タイトルにもなっている通り、とどまることだ。ゆえに三つの「移動せざるを得ない状況」がでてくる。それがちょうど章でも区切られている。一つは、ファシストによるドイツ語からイタリア語への強制的な移行。二つは、ナチからの逃亡。三つは、ダム建設による移住の強要である。戦争が終わると、棚上げされていたイタリアの化学企業によるダム建設計画が再開し、村人たちの抵抗むなしく村は水に沈む。本書の表紙は、文化財保護の名目で一つだけ残された、教会の尖塔がその水のなかからそびえている写真である。そのほかの住居や生活の痕跡はすべて水の下に沈んだ。鴻巣のいうように、これも一つのメモリサイドである。 
 長期にわたって難民・無国籍者として生活し、全体主義がもたらした地上の地獄を同時代人として経験した思想家、ハンナ・アーレントは、公共空間を物理的にもヴァーチャルにも「動く」自由の保証される空間として構想したいっぽうで、同時に「とどまる」ことについてだれよりも思考した人物だった。「諸権利をもつ権利(a right to have rights)」を失われた難民について、彼女はいっている。

追放された人びとは、たいてい根をおき去りにし、いわばひき剥がされ、つまり根なしということの正確な意味で根を失っている。根をもち出すことに成功した人びとにとって、 これらはいまや根をおろしていた土壌がなく、もはや生産力がなく、いわば無駄足を運んだということだ。故郷にとどまるのを許された人びとにあっては、根をおろしていた地盤と土壌が足元で洗い流され、彼らの根はうまくいっても白日のもとに曝され、二重に衰弱している。滋養を与える土壌を奪われた萎縮によって、そして見えることの明るみそのものによって、つまり保護を与える暗がりの欠如によって、いわば秘密の破壊によって。

ハンナ・アーレント『思索日記』、ウルズラ・ルッツ/インゲボルク・ノルトマン編、青木隆嘉訳、法政大学出版局、2006年

「ユダヤ人問題の終わりはパレスチナ問題のはじまりである」という一文を含む『全体主義の起原』第二部が「帝国主義」と題されていることを思い起こしてもいいだろう(『[新版]全体主義の起原2――帝国主義』大島通義、大島かおり訳、みすず書房、2017年)。ユダヤ人に「諸権利をもつ権利」を与えたシオニズムはそこに住んでいた人びとの「領土」すなわち「根」を奪うことにほかならず、ゆえに多くのアラブ難民を生み出した(同様の指摘はサイードの以下の著作にもある。『パレスチナ問題』杉田英明訳、みすず書房、2004年)。とどまったパレスチナ人は、基本的な権利すらもたない。虐殺が起こっている。
 2018年から2021年にかけて「アーレントを読む」というタイトルで月刊『みすず』に連載された原稿をまとめたものが、矢野久美子『アーレントから読む』(みすず書房、2024年)である。タイトルに変更が加えられていることからもわかるように、アーレントのプリズムを通して現代をまなざし、「なぜいまアーレントを読み直すのか」という問いにきわめて自覚的な書物といえる。「根」をもつことについて、つぎのようにいっている。

 私たちは、この「足場」、あるいは本章の冒頭でマンハイムとアーレントの共通の論点として提示した「根」をめぐる問題に、しっかり目をとめておかなくてはならない。アーレントによれば、「諸権利をもつ権利」とは「人間がその行為と意見に基づいて人から判断されるという関係の成り立つシステムの中で生きる権利」である。それをもたないということは、人間によってつくりあげられ考えだされた「世界への参画」から締め出されるということである。 そうした人間の制度の外部で、職業も国籍も意見も行為の成果ももたない「抽象的な人間」、個々の人格を表現する手段を奪われた人間が増え続けるということは、言葉と行為が意味をもたない地帯が世界に増え続けるということだろう。

『アーレントから読む』p.40

「二十一世紀を人間らしい人間の生きる時空間」とする若者たちにむけて書かれた大江の言葉も思い起こされる。「諸権利をもつ権利」を奪われた「抽象的人間」は、アーレントのいう「生きた屍」やアガンベンのいう「剥き出しの生」に近づく。そこには「動物」の隠喩がもちいられる。じっさい、イスラエルのガラント国防相は「我々は人間動物と戦っているのだ」と発言した。(この点については保井啓志「「我々は人間動物と戦っているのだ」をどのように理解すればよいのか」(『現代思想2024年2月号 特集=パレスチナから問う』所収、青土社)を参照されたい。以下の時評はこのことをアガンベンのいう人間と動物との境界をたえず分割する「人間学機械」と結びつけて論じている。橋爪大輝「「ガザ」の声を聴き取る 不正義を明白なものとして浮かび上がらせるために」(『週刊読書人』2024年3月8日号)。また、難民問題についてのアーレントとアガンベンへの批判的言及としては、ジュディス・バトラー×ガヤトリ・C. スピヴァク『国家を歌うのは誰か? グローバル・ステイトにおける言語・政治・帰属』(岩波書店、2008年)が参考になる。)
 アーレントにとって世界とは、複数的な人びとのあいだにあるものだ。だから、「世界への参画」から締め出されたものは「抽象的な人間」、個々の人格を表現する手段を奪われた人間となってしまう。公的領域への参画を特権視する議論には慎重を期さねばならないとしても、そのような人びとはしだいに忘却されていってしまうとアーレントがいっていたことを思い出したい。彼女が全体主義下の収容所に見いだした「忘却の穴」は、ダムに沈んだ村のことでもある。いま、そのような場所を──ウクライナに、ガザに──生み出さないためには、アーレントのいうような「理解」が必要だ。

理解とは、法外なものを否定したり、前代未聞のことを先例から推論したり、あるいは実の衝撃や経験のショックがもはや感じられないような類比や一般法則によって説明したりすることを意味しない。理解が意味するのはむしろ、われわれの世紀がわれわれに課した重荷を、注意深く吟味し、負うことである――その存在を否定したり、その重さに従順に屈したりすることではない。すなわち、理解とは、現実に――それがどのようなものであれ――予断をくだすことなく注意深く向き合い、それに負けないことなのだ。

「初版まえがき」『[新版]全体主義の起原1──反ユダヤ主義』大久保和郎訳、みすず書房、2017年、ⅺ


日常・街・心のなかの、いまだ何処にも存在しない場所


 柴崎友香『わたしがいなかった街で』(新潮文庫、2014年)を読んだ。著者の最新作、『続きと始まり』の書評を書いた友人に影響されてのことだ。

 柴崎友香の小説の登場人物のように、災害や戦争が始まった日の夜遅くまで、テレビから目を離せずに見続けた経験が筆者にもある。眠ってしまえば、いまもできごとが起こり続けているその時間から隔たってしまうから。しかし、つねに画面越しの景色は、時間も空間も決定的に隔たっていること、自分はそこにいる誰かではないのだということを刻みつけ続ける。
 隔たりと地続きとは物事の表裏だ。出自も年齢も異なる人々、身近であるはずの家族、そして自分自身の記憶との触れ合いのなかで、不確かな感覚に輪郭が与えられ、思わぬ繋がりを見出しもする。「距離」は、「隔離」をすぐさま意味しない。それは他者とともに生きるための想像力の源でもある。

伊藤大遥「柴崎友香著『続きと始まり』」『週刊読書人』2月23日号

 わたしもそうだ。(しかし、「わたしもそうだ」ということ、引用することの困難こそが「隔たり」である)。どうしようもなく現実的な近さを感じるたびに、隔たりを感じる。すべてはスクリーンのなかで起こっていることだ。そう錯覚する。だがそうして隔たりを感じるたびに、かえって「わたし」のいる場所の時間・空間的な裏面に戦争があること、あったことを気づかされる。『わたしがいなかった街で』にはそうした感覚が描かれている。

 日常という言葉に当てはまるものがどこかにあったとして、それは穏やかとか退屈とか昨日と同じような生活とかいうところにあるものではなくて、破壊された街の瓦礫の中で道端で倒れたまま放置されている死体を横目に歩いて行ったあの親子、ナパーム弾が降ってくる下で見上げる飛行機、ジャングルで負傷兵を運ぶ担架を持った兵士が足を滑らせて崩れ落ちる瞬間、そういうものを目撃したときに、その向こうに一瞬だけ見えそうになる世界なんじゃないかと思う。

『わたしがいなかった街で』p.220

 本作の主人公、平尾砂羽は三十六歳の契約社員。引っ越してきたばかりの世田谷区のマンションでひとり、ユーゴスラヴィアの内戦や第二次世界大戦、ベトナム戦争などを映したリアルなドキュメンタリーをみつづけている。とくにこれといったことの起こらない〈わたし〉の日常が描かれつづける。しかしそれは、つねに友人や親戚、職場の同僚との会話や、ふと目にした写真、映像、あるいは文章のすき間にひそむ「わたしがいなかった街」の日常とともに、である。
 ここではないどこかの日常。まだ上映されているはずのアキ・カウリスマキ『枯れ葉』も、それを描いていた。舞台はヘルシンキ。スーパーを不当に解雇されたアンサとアルコール中毒のホラッパがひかれ合う。二人はスマホや携帯電話をもっておらず、カラオケバーとかもでてくるし、いったい時代設定がいつなのかわからない。それでも、アンサの部屋に置かれたラジオからはロシアのウクライナ侵略をつたえるニュースが流れつづけている。ホラッパをその部屋に招いたときでさえ、アンサはラジオから流れる戦争の情況に対していらだちを隠せない。
「世界」と「テクスト」と「わたし」が隔たりをもちつつもつづいているという感覚(しかし、よく考えてみればこれは当たり前のことだ)は、『わたしがいなかった街で』の〈わたし〉が戦時中に書かれた海野十三の日記を読んでいる場面からも伺える。〈わたし〉は世田谷の街を歩く。そこはかつて空襲がおこった街だ。〈わたし〉は読み、語り手は引用するが、それを解釈するわけではない。ただそれがあったことを、ふたたび目の前に反復しているだけだ。それは読むという行為そのものでもある。
 本作で言及されるカート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』(早川書房、1978年)もすぐれた戦争小説だ。著者によれば「反戦小説」でもある。主人公のビリーは時間と空間の壁をつきぬけて瞬時に過去、現在、未来を行き来する能力をもっている。「わたしがいた街」のすべてが一挙に感覚されるわけだ。すべての苦しみが、ドレスデンの捕虜収容所で受けた爆撃の体験に収斂する。ある種、作家の表現の起源として。
 ところで、先に言及した安藤礼二『死者たちへの捧げもの』の終章は村上春樹『街とその不確かな壁』(新潮社、2023年)論にもなっている。彼は大江と春樹の文学のあいだにある不思議な符合について述べたのち、春樹が本作で自身の表現の起源に立ち返ったのだと主張する。少し長くなるが、引用しよう。

「街」が書かれたのは作家としてデビューした直後、その翌年のことであった。起源とは、時間的かつ空間的に固定されたものではなく、そこに立ち還る度ごとに新たな表現の時間と空間が生み落とされ、生み直されるものでもあるだろう。そういった意味で、起源の場所とは発生の場所であり、反復こそが差異を生み出す祝祭に似た儀式が執り行われる場所でもあったはずだ。生命の故郷であり、想像力の故郷である。しかし村上春樹には、大江健三郎における四国の谷間の村、中上健次における紀州の「路地」のような、表現の種子を無尽蔵に秘めたような特権的な故郷は存在しなかった。そのような故郷を、ただ想像力のみによって、いまここに創り上げなければならなかった。
 特権的な故郷をもたない者は、一体どこに故郷を求めれば良いのか。「心」のなか、その深みにおいて、である。「街」から『街』へ、それが村上春樹の導き出したきわめて一貫した結論である。「心」の深みには、永遠にして無限の世界へと至る通路がひらかれている。しかし、その世界は、そこにおいて時間が消滅し、空間が消滅してしまう、まさに〈世界の終り〉としか形容できない場所でもあった。〈世界の終り〉では、個別の肉体と個別の名前をもった人間は、影から切り離されることによって、個別の肉体と個別の名前を失い、いわば純粋な想念としてのみ生きる存在となってしまう。高い壁に囲まれた、他者からは閉ざされた領域を生きる存在となってしまう。果たしてそのような場所に生の幸福、表現の幸福は存在するのであろうか。〈世界の終り〉を〈世界の始り〉 に転換することはできるのであろうか。

『死者たちへの捧げもの』pp.272-3

 安藤はいっている。作家には、表現の起源、想像力の起源が存在する。大江にとっての四国の谷間、あるいは中上にとっての紀州の路地のように。しかし、現代の「根」を失った文学、たとえば村上春樹は、それを「心」のなかの、いまだ何処にも存在しない場所へともとめる(ヴォネガット『タイタンの妖女』の冒頭も思い出される)。書かれたものはすでに現実だ。〈世界の終り〉を書いてしまった春樹は、その責任を負いつづけようとしている。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の結末を引き受けつつ、本作で壁の外へと脱出した影──大江にとっての「分身」でもある──のその後の物語を描いているのは、そのためだ。
 哲学的には問題含みではあるが、「死への先駆」を論じたハイデガーに対しアーレントが「出生」を特権視したのは、そこに〈世界の始り〉があるからだ。わたしたちがみているこの複数的な世界は、それ一つで存在するものではなく、まったくわたしとは違うだれかとの隔たりに(in between)あるものだ。いま、わたしがいなかった街で、わたしではないだれかが、わたしではないだれかによって一方的に殺されている。そこには子どももいる。それが「わたしたち」の世界だ。『スローターハウス5』の語り手のように、「そういうものだ」と片付けることはたやすい。それでも、「フィクションとは、現実の「世界」の専制に抗い、現実の「私」の専制に抗うために人間がもつことの許された「言葉」の武器なのだ」ということは、また一つの暴力かもしれない。しかし、パレスチナの人びとを非人間化し、その「根」を奪うあまたの言説(それはいまだ、欧米圏で支配的である)をまえに、言葉は現実と未来を複数化しうるのだと信じつづけたいと思った。最後に、この文章は『大江健三郎を読む日々』のフリーペーパーとして頒布した『晩年様式集』についてのすばらしいエッセイ、mujitsu「(世界とわたしの)カタストロフィー」、伊藤大遥「大江健三郎論を書く資格のないものとして──クンデラ、カナファーニー、『晩年様式集』」の両者に啓発されて書かれたものであることを、申し添えておきたい。


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