本を読む日々眠る日々──戦争(から読む)
戦争(から読む)
逆らう・書く
さる4月11日のこと、新学期の始まる前日だったが、ラッシュ時の山手線でその日古本屋で手に入れたこの往復書簡を読みながら私が聞いていたのは、新大久保から乗ってきた身なりの若々しい男女二人組の会話。その声──男はとくに背が高く、声は頭上に降ってくる──が言うのは、だいたい次のようなことだった。
──おれ、昨日、カミカゼ特攻隊の手記みたいなの読んでたんだけど、あ、カミカゼ特攻隊って知ってる? あの、アメリカの基地につっこんでって死ぬやつ。──知ってる(小さな声で)──あれ読んで、21歳くらいの若者が、書いてて、若いんだけど、読んでて、おれ、めっちゃうらやましいなーって思った。(少し間が開き、降車のアナウンスが流れる。人びとが身を捩る。)カミカゼの若い奴らのほうが、自分のやりたいことできてて。
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そこで山手線を降りて、会話を書き留めた覚えがある。数ヶ月ぶりになにか書こうと思ったら、下書きに残っていた。およそ1年前の文だ。このときわたしは大江健三郎の文章を読み直すという企ての最中で、ゆえにここで言及される書簡とは『大江健三郎往復書簡 暴力に逆らって書く』(朝日新聞社、2003年)のことだった。けれども、ついに書き継がれることはなかった。なんというか、消化しきれなかったのだ。男もわたしも、特攻隊の平均年齢と同じくらいだった。そうこうするうちにまた戦争が起こった。秋には文学フリマ東京が開催され、そこで頒布した『大江健三郎を読む日々』という同人誌に、この文章を掲載することはできなかった。戦争はいまも起こっている。
本書には、グラス、バルガス=リョサ、鄭義、チョムスキー、サイードなど世界の文人とのあいだにおこなわれた往復書簡がおさめられている。初出は朝日新聞の夕刊記事。学生であれば大学が「朝日新聞クロスサーチ」という朝日新聞社のデータベースを契約しているはずだから、「大江健三郎 往復書簡」と検索すればいますぐにでも読めると思う。記事は《未来に向けて 往復書簡》と題されていて、いま、わたしが彼からの手紙を受け取ったような感じも覚える(ちなみに、本書が出版されたのはわたしが生まれた年である)。昨年復刊された『大江健三郎同時代論集』(岩波書店、2023年)にも巻末には「未来へ向けて回想する──自己解釈」と題されたエッセイが付されていたし、彼の文章はずっと未来を志向しているな、と思う。
1935年、エルサレム生まれの文化理論家、エドワード・W. サイードとの往復書簡に、つぎのようにある。
2002年2月25日の手紙だ。現時点で「全面戦争」が起こっているということをのぞけば、現状とのあまりの類似に恐ろしさを覚える。当時35年間も続いていたイスラエルによる不法な軍事占領は、その後も22年間つづき、いまや不均衡な武力のもとでだれの目から見ても明白なジェノサイドがおこっている。つづけて、つぎのようにある。
大江はここで、サイードのいう「わたしたち」という言葉に希望をみる。そして、そうした姿勢が「教育によってしか恢復されない」といっている。いまわたしたちはここに、一度は「小説を断念した」彼がサイードの著作を読むことによって「立ち直ろうとした」理由を伺えるかもしれない。すなわち、「二十一世紀を人間らしい人間の生きる時空間」とする若者たちにむけて、大江は「後期の仕事」を書き継いだというわけだ。神秘主義的な隘路にではなく、未来へ向けて。その若者たちとはもちろん、「わたしたち」でもある。
先々月上梓された中井亜佐子『エドワード・サイード ある批評家の残響』(書肆侃侃房、2024)がこうした人称代名詞について興味深い指摘をしていた。本書は『はじまり』から『パレスチナとは何か』にいたるまでのサイードの初期著作を検討しながら、彼にとって批評がいかなる営為であったかを明らかにしている。「ある批評家の残響」というタイトルからは、「批評の批評」ではなく「批評家の批評」をするという決意があらわれている。
「わたしたち」という人称が抱える全体化、物語化のおそれに対しだれよりも慎重であったサイードは、しかし未来をそのことばにこそ賭けたのだ。それにいちはやく気づいた一人が、のちにサイード由来の「晩年のスタイル」を実践することになる大江健三郎だった。(ちなみにサイードは70年代から80年代にかけてパレスチナ人の民族国家の樹立を支持していたが、90年代になるとオスロ合意に反対し、パレスチナとイスラエルの二民族一国家主義を掲げるようになった。以下の対談記事にも詳しい。中井亜佐子×河野真太郎「批評とは何か いまサイードを読むこと」(『週刊読書人』2024年3月8日号)。余談だが、中井がつぎのようにいっていておもしろかった。「レイトスタイルとは、晩年を意識しながら晩年になってむちゃくちゃをやる、ということ。今なら老害と言われますね(笑)」。)
朝日新聞ではいま小説家の古川日出男が文芸時評を担当していて、それをわたしは毎月たのしみにしているのだが、1月の「抽象の先に 静かに強く、現れる本質」(朝日新聞、2024年1月26日朝刊)の締めくくりに、このような文章があった。
言葉は安藤礼二『死者たちへの捧げもの』(青土社、2023年)へ向けられたもので、すなわち「批評家」とは安藤のことなのだが、その批評の対象の一人であった──そして相互に影響を与えあう読者の一人でもあった──大江もまた「行動しつつ思考する批評家」であったことはまちがいない。むろん、サイードもそうであろう。彼は生涯に二度、小説を書こうとしたことがあるのだという。中井亜佐子がいうように、それは危機におけるあらたな「スタイル」の模索としてあった。
安藤はサイードの晩年が「自身の外部である「世界」に対しては故郷を喪失した同胞であるパレスチナの人々とともに闘い、自身の内部である「私」としては緩慢な死をもたらす白血病と闘い続けていた」(p.76)ことを指摘している。大江がのちに倣うことになる「晩年のスタイル」とは、「世界」と「私」のカタストロフィーに抗い、そのただなかで、実践として身につけられる新たな生き方と表現のスタイルのことである。安藤は大江最後の小説、『晩年様式集』(講談社、2013年)に対しつぎのように述べている。
ここでは、フィクションによる現実の複数化が「世界」と「私」の専制に逆らうための武器であること、それがしばしば自分を、相手を傷つけてしまうことが言われている。「私」が女性化されたり、いくつもの「分身」として描かれたりすることこそ、本作が「現実の世界に抗う政治的な実践であると同時に、虚構の世界のもつあらゆる可能性を追求した文学的な実験、つまり「小説」として書き上げられなければなかった理由」である。それら「分身」たちの形象の根源にあったのが、『懐かしい年への手紙』などに登場するギー兄さんであることはまちがいない。「核時代の森の隠遁者」で「森の隠遁者」ギーは抗議の焼身自殺を遂げ、『懐かしい年』はギー兄さんの自殺とも事故ともとれるような「水死」によって物語が閉じられる。以前、大江の分身としてのギー兄さん、そして古義人の名前にふくまれる「義」とは、柳田國男の“ぎ”などではなく、「義認」の「義」であると書いたことがある(「大江健三郎の「義認」と死」、のちに加筆・修正を加え『大江健三郎を読む日々』に収録)。「義認」とは人間を罪の状態から義の状態へと移行させる神の行為のことだ。これを書いた時点では『晩年様式集』を読んでいなかったのだが、本作を、そして安藤の批評を読むとけっこう的を射ていた気もする。「懐かしい年からの返事は来ない」。安藤のいうように、「死者たちが寄り集る「懐かしい年」に安住することを許されない」し、「死者たちの生を、物語として反復することは許されない」。「死者たちの記憶を、これから生まれてくる者たちへの贈り物へと転換しなければならない」(p.80)。大江のテクストは、「いつまでも循環する時に生きるわれわれ」へ向けて書かれたものではない。いま、未来のわたしたちは、大江の生=テクストを読むことによって、その手紙を受け取っている。
サイードはいっていた。
「世界」と「私」と「テクスト」は隔たりをもちつつも、つづいている。サイードにとって、そして大江にとって、「行動しつつ思考する」ことは、それら隔たりを越え、言葉によって新たな可能性を描き継ぐことであったはずだ。サイードが「旅をする理論再考」(『故国喪失についての省察2』所収、大橋洋一ほか訳、みすず書房、2009年)において、理論をべつの時空間に置き直すことは抵抗や逸脱を招き、結果安易な制度化を避けられると主張していたのは、そのためかもしれない。彼らのそうした営為は未来のわたしたちの現実を複数化するようなヴィジョンをもたらす。そう信じている。
とどまる・理解する
中井亜佐子『エドワード・サイード ある批評家の残響』が中心に論じていたのはサイードの「旅する理論」、つまりあるものをべつの附置におくこと(≒対位法的読解)であったが、先日、反対に「とどまる」ことを描いた小説が翻訳された。マルコ・バルツァーノ『この村にとどまる』(関口英子訳、新潮社、2024年)である。新潮クレスト・ブックスの一冊で、イタリア文学の訳書も珍しく、それで手に取ったが存外おもしろかった。
舞台は北イタリアの南チロルに位置するひとつの村、クロン。南チロルは第二次世界大戦下、ファシズムとナチズムの支配を立てつづけに受けた地域だ。トリエステと併せて「未回収のイタリア」(Italia irredenta)として世界史で学んだ覚えのある人も多いかもしれない。といっても「未回収」とはイタリアのナショナリズム由来のことばであって、そこでは主にドイツ語が話されている。だが、本作のはじまる前年にはムッソリーニのファシストが当地域を支配し、イタリア化が急速に推し進められる。これは、人々を強引に「わたしたち」にする暴力である。語り手のトリーナはドイツ語の教師を目指していたが、ドイツ語を禁止する政策のため教職を得られず、若くして非合法でドイツ語を教える教師となる。その活動はつねにファシストに脅かされ、彼女の長年の友人だった教師も流刑に処されてしまう。
古川日出男の前に朝日新聞の文芸時評を担当していた翻訳者、鴻巣友季子の「鴻巣友季子の文学潮流(第11回) 水と時間の流れを描く「ここにとどまる」物語」(好書好日、2024)は、こうした政策を「メモリサイド」(memoricide;記録・記憶の抹殺)といっている。言葉の覇権を握ることによって「人びとの思考と意思の疎通を阻害し、あらゆる記録を抹消し、文化文明の継承を絶とうとする」ことだ。岡真理『アラブ、祈りとしての文学』(青土社、2009年)が指摘しているように、これはガザでパレスチナ人に対し行われてきたことであり、また行われていることだ。
イタリア化のすすむさなかヒトラーが介入し、人々は「ライヒ」(ドイツ国)への移住を迫られる。語り手のトリーナ一家はこれによって引き裂かれる。娘のマリカが親に告げずに移住してしまったのだ。だから本書は、トリーナからマリカへの手紙の形式をとっている。やがて戦争が勃発し、SSの手が村に忍び寄る。ここにとどまる(Resto Qui)と決めたトリーナたちがアルプスへ逃れざるを得なかったときも、トリーナはまるでそれが一筋の救いであるかのように、書きつづける。しかし、手紙を受け取るのはマリカではなく読者の「わたしたち」である。記憶をのこすということは、けっして全体化できないものを全体化しかねない危険をおかしながら、なおも具体的な事実を痕跡としてとどめる、書きとどめることであるということを、小説の形式それ自体が例証している。現物の手紙は焼失するため、わたしたちが読むのはその焼け跡にすぎない。
本書のテーマは、タイトルにもなっている通り、とどまることだ。ゆえに三つの「移動せざるを得ない状況」がでてくる。それがちょうど章でも区切られている。一つは、ファシストによるドイツ語からイタリア語への強制的な移行。二つは、ナチからの逃亡。三つは、ダム建設による移住の強要である。戦争が終わると、棚上げされていたイタリアの化学企業によるダム建設計画が再開し、村人たちの抵抗むなしく村は水に沈む。本書の表紙は、文化財保護の名目で一つだけ残された、教会の尖塔がその水のなかからそびえている写真である。そのほかの住居や生活の痕跡はすべて水の下に沈んだ。鴻巣のいうように、これも一つのメモリサイドである。
長期にわたって難民・無国籍者として生活し、全体主義がもたらした地上の地獄を同時代人として経験した思想家、ハンナ・アーレントは、公共空間を物理的にもヴァーチャルにも「動く」自由の保証される空間として構想したいっぽうで、同時に「とどまる」ことについてだれよりも思考した人物だった。「諸権利をもつ権利(a right to have rights)」を失われた難民について、彼女はいっている。
「ユダヤ人問題の終わりはパレスチナ問題のはじまりである」という一文を含む『全体主義の起原』第二部が「帝国主義」と題されていることを思い起こしてもいいだろう(『[新版]全体主義の起原2――帝国主義』大島通義、大島かおり訳、みすず書房、2017年)。ユダヤ人に「諸権利をもつ権利」を与えたシオニズムはそこに住んでいた人びとの「領土」すなわち「根」を奪うことにほかならず、ゆえに多くのアラブ難民を生み出した(同様の指摘はサイードの以下の著作にもある。『パレスチナ問題』杉田英明訳、みすず書房、2004年)。とどまったパレスチナ人は、基本的な権利すらもたない。虐殺が起こっている。
2018年から2021年にかけて「アーレントを読む」というタイトルで月刊『みすず』に連載された原稿をまとめたものが、矢野久美子『アーレントから読む』(みすず書房、2024年)である。タイトルに変更が加えられていることからもわかるように、アーレントのプリズムを通して現代をまなざし、「なぜいまアーレントを読み直すのか」という問いにきわめて自覚的な書物といえる。「根」をもつことについて、つぎのようにいっている。
「二十一世紀を人間らしい人間の生きる時空間」とする若者たちにむけて書かれた大江の言葉も思い起こされる。「諸権利をもつ権利」を奪われた「抽象的人間」は、アーレントのいう「生きた屍」やアガンベンのいう「剥き出しの生」に近づく。そこには「動物」の隠喩がもちいられる。じっさい、イスラエルのガラント国防相は「我々は人間動物と戦っているのだ」と発言した。(この点については保井啓志「「我々は人間動物と戦っているのだ」をどのように理解すればよいのか」(『現代思想2024年2月号 特集=パレスチナから問う』所収、青土社)を参照されたい。以下の時評はこのことをアガンベンのいう人間と動物との境界をたえず分割する「人間学機械」と結びつけて論じている。橋爪大輝「「ガザ」の声を聴き取る 不正義を明白なものとして浮かび上がらせるために」(『週刊読書人』2024年3月8日号)。また、難民問題についてのアーレントとアガンベンへの批判的言及としては、ジュディス・バトラー×ガヤトリ・C. スピヴァク『国家を歌うのは誰か? グローバル・ステイトにおける言語・政治・帰属』(岩波書店、2008年)が参考になる。)
アーレントにとって世界とは、複数的な人びとのあいだにあるものだ。だから、「世界への参画」から締め出されたものは「抽象的な人間」、個々の人格を表現する手段を奪われた人間となってしまう。公的領域への参画を特権視する議論には慎重を期さねばならないとしても、そのような人びとはしだいに忘却されていってしまうとアーレントがいっていたことを思い出したい。彼女が全体主義下の収容所に見いだした「忘却の穴」は、ダムに沈んだ村のことでもある。いま、そのような場所を──ウクライナに、ガザに──生み出さないためには、アーレントのいうような「理解」が必要だ。
日常・街・心のなかの、いまだ何処にも存在しない場所
柴崎友香『わたしがいなかった街で』(新潮文庫、2014年)を読んだ。著者の最新作、『続きと始まり』の書評を書いた友人に影響されてのことだ。
わたしもそうだ。(しかし、「わたしもそうだ」ということ、引用することの困難こそが「隔たり」である)。どうしようもなく現実的な近さを感じるたびに、隔たりを感じる。すべてはスクリーンのなかで起こっていることだ。そう錯覚する。だがそうして隔たりを感じるたびに、かえって「わたし」のいる場所の時間・空間的な裏面に戦争があること、あったことを気づかされる。『わたしがいなかった街で』にはそうした感覚が描かれている。
本作の主人公、平尾砂羽は三十六歳の契約社員。引っ越してきたばかりの世田谷区のマンションでひとり、ユーゴスラヴィアの内戦や第二次世界大戦、ベトナム戦争などを映したリアルなドキュメンタリーをみつづけている。とくにこれといったことの起こらない〈わたし〉の日常が描かれつづける。しかしそれは、つねに友人や親戚、職場の同僚との会話や、ふと目にした写真、映像、あるいは文章のすき間にひそむ「わたしがいなかった街」の日常とともに、である。
ここではないどこかの日常。まだ上映されているはずのアキ・カウリスマキ『枯れ葉』も、それを描いていた。舞台はヘルシンキ。スーパーを不当に解雇されたアンサとアルコール中毒のホラッパがひかれ合う。二人はスマホや携帯電話をもっておらず、カラオケバーとかもでてくるし、いったい時代設定がいつなのかわからない。それでも、アンサの部屋に置かれたラジオからはロシアのウクライナ侵略をつたえるニュースが流れつづけている。ホラッパをその部屋に招いたときでさえ、アンサはラジオから流れる戦争の情況に対していらだちを隠せない。
「世界」と「テクスト」と「わたし」が隔たりをもちつつもつづいているという感覚(しかし、よく考えてみればこれは当たり前のことだ)は、『わたしがいなかった街で』の〈わたし〉が戦時中に書かれた海野十三の日記を読んでいる場面からも伺える。〈わたし〉は世田谷の街を歩く。そこはかつて空襲がおこった街だ。〈わたし〉は読み、語り手は引用するが、それを解釈するわけではない。ただそれがあったことを、ふたたび目の前に反復しているだけだ。それは読むという行為そのものでもある。
本作で言及されるカート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』(早川書房、1978年)もすぐれた戦争小説だ。著者によれば「反戦小説」でもある。主人公のビリーは時間と空間の壁をつきぬけて瞬時に過去、現在、未来を行き来する能力をもっている。「わたしがいた街」のすべてが一挙に感覚されるわけだ。すべての苦しみが、ドレスデンの捕虜収容所で受けた爆撃の体験に収斂する。ある種、作家の表現の起源として。
ところで、先に言及した安藤礼二『死者たちへの捧げもの』の終章は村上春樹『街とその不確かな壁』(新潮社、2023年)論にもなっている。彼は大江と春樹の文学のあいだにある不思議な符合について述べたのち、春樹が本作で自身の表現の起源に立ち返ったのだと主張する。少し長くなるが、引用しよう。
安藤はいっている。作家には、表現の起源、想像力の起源が存在する。大江にとっての四国の谷間、あるいは中上にとっての紀州の路地のように。しかし、現代の「根」を失った文学、たとえば村上春樹は、それを「心」のなかの、いまだ何処にも存在しない場所へともとめる(ヴォネガット『タイタンの妖女』の冒頭も思い出される)。書かれたものはすでに現実だ。〈世界の終り〉を書いてしまった春樹は、その責任を負いつづけようとしている。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の結末を引き受けつつ、本作で壁の外へと脱出した影──大江にとっての「分身」でもある──のその後の物語を描いているのは、そのためだ。
哲学的には問題含みではあるが、「死への先駆」を論じたハイデガーに対しアーレントが「出生」を特権視したのは、そこに〈世界の始り〉があるからだ。わたしたちがみているこの複数的な世界は、それ一つで存在するものではなく、まったくわたしとは違うだれかとの隔たりに(in between)あるものだ。いま、わたしがいなかった街で、わたしではないだれかが、わたしではないだれかによって一方的に殺されている。そこには子どももいる。それが「わたしたち」の世界だ。『スローターハウス5』の語り手のように、「そういうものだ」と片付けることはたやすい。それでも、「フィクションとは、現実の「世界」の専制に抗い、現実の「私」の専制に抗うために人間がもつことの許された「言葉」の武器なのだ」ということは、また一つの暴力かもしれない。しかし、パレスチナの人びとを非人間化し、その「根」を奪うあまたの言説(それはいまだ、欧米圏で支配的である)をまえに、言葉は現実と未来を複数化しうるのだと信じつづけたいと思った。最後に、この文章は『大江健三郎を読む日々』のフリーペーパーとして頒布した『晩年様式集』についてのすばらしいエッセイ、mujitsu「(世界とわたしの)カタストロフィー」、伊藤大遥「大江健三郎論を書く資格のないものとして──クンデラ、カナファーニー、『晩年様式集』」の両者に啓発されて書かれたものであることを、申し添えておきたい。
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