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12/14 歩くことを歩く

 最近寒くなってきてるから、と詩に書いてからというもの、めっきり冬めいてきたような気がする。詩を、「詩の世界」に閉じこもって描いてしまう私にとってそれは限りなく生の実感に近いものだった。年の瀬も押し詰まり、厚手のコートとマフラーとが欠かせない。今日は風が強かったから耳のあたりが凍りつくことになった。
 教室や電車のなかはむしろ暑い。外を歩いているときこそ輪郭が縁どられるくらいの寒さを感じる。寒いくらいの方が思考も冴えてきて、実際今日の帰り道、「歩くこと」についてくだくだ考えていたはずなのだけど、布団に入ってぬくぬくしながらスマホをぽちぽちしている今になってはなんのことだかほとんどわすれてしまった。
 最近はほんとうに文字を読むことも書くこともできなくなって、それというのも姿勢が悪いからだと思う。授業の一時間半をじっと座っているのも耐えがたい苦痛になるし、自宅ならなおさらだ。気づいたらベッドに寝っ転がって、ぼーっと動かない文字を見つめていたり、Twitterをながめていたりする。
 詩は書けているじゃないかと言われそうだが、たぶんそれは息の長い文章が書けないからに違いない。なぜ多くの詩が改行するのかはよくわからない。ただ私は多くの青年が一つの小説も書き切れず死んでゆくように、あるいは断章的な思索-詩作へと逃げて凡百に埋没してゆくようにただ、改行するだけだ(これが金井美恵子の受け売りという時点で救えない)。つまりは言葉が流れていかない。独立したものとして出てきてしまうから、それをつなぎ合わせるようにして文章を紡いでも、なんの脈絡もなくなってしまう。姿勢が悪いからだ。歩いて、今いる地点から離れることができない。

 それで歩いているとき、「歩くように読み/書きをしたい」と考えていたのだった。歩くようなリズムで読んでいければ、息が詰まることも、息が切れることもない。レポートや発表など目的や情報に縛られた読書に追い詰められすぎて、読書それ自体のたのしみに目が向かなくなっていた。あるいは、歩くように書ければ……。私には書くペースというものがまるでなく、日々は絶えず沈黙に支配されている。詩人の言語は沈黙からやってきて、沈黙へ帰っていくのだという、モーリス・ブランショの言葉は慰めにはなるのかもしれないが、私の場合その沈黙がほとんど破られることがないというのが問題だ。
 しかし、この考え方もまた受け売りでしかない。私はショーペンハウアー『読書について』を読んだことがないが、ハイデガーやジンメルの研究で知られる北川東子のエッセイで、彼が引かれていた記憶がある。「人は、歩くように読まなければならない」という教えはある種の強迫観念になって、私を追い詰めてきた。歩いているときでさえも。それはなにより私が歩くように読む/書くことができないからであって、日に日に姿勢は悪くなっていく。

 ただ、首が前に突き出て、目が極限まで紙面に近づいた状態こそ「読書好き」に相応しいなどといった皮肉も他方では可能かもしれない。たいていの場合、私には読書が耐えがたい苦痛となるので、世の「読書好き」──自己紹介で「趣味は読書」と言いながら、「好きな小説」を問われたときに小学生のころ読んだ推理小説や空想小説を挙げるような面々(文学部によく見かける)──を羨んでいるのだが、彼らより暗い部屋にこもり、彼らより背骨がねじ曲がり、彼らより生涯年収が低くなるだろうこの身体を顧みるたびに、むなしさを抑えきれなくなってくる。
 現象学に基礎付けられた受容美学の研究で知られるローマン・インガルデンはフッサールに依拠して、この身体のことを空間の「零点」として定位していた。前田愛は以下のように説明している。

 私の身体は生活世界における定位の中心 (Zentrum der Orientierung) としてここに位置づけられているが、げんに読みすすめている文学テクストに心をうばわれて行くにしたがって、この現実の身体的な定位の中心はしだいに消失し、テクストのなかにある仮構された定位の中心にとってかわられる(そのいずれもまさに「零点」であるがゆえに措定的な意識の対象に上ることはない)。テクスト内の定位の中心は、恒常的な語り手、ないしは複数の登場人物であって、テクストに表現されている事物やそれを含む空間は、この語り手あるいは登場人物を中心に定位された空間として現出する。私はかれらのなかに入りこむことでテクストの「内空間」を生きはじめるのだ。
『都市空間のなかの文学』p.16

 これを踏まえれば、読むことは「歩く」などといった身体的所作やそれに伴う疲労とは無縁だと主張できることさえできるかもしれない。“ほんとうに”テクストに没入しているならば、そこに直線的な時間性など消失し、また身体的な感覚は限りなく零度に近づいていく。ドイツの感情移入美学に基づいてたとえば木下杢太郎が小説に「ムード」を書き込んだように、テクストの「内空間」への移入は読書のたのしみのひとつといっていいかもしれない。そして余談だが、「読書好き」は「感情移入ができたかどうか」を評価基準とするのをよく見かける。

 たしかに、創造行為の深層に非人称的な「沈黙」があるとは言えそうだ。ブランショだけでなく、最近読んだものだとアガンベンも『火と物語』のなかで言っていた。けれど、パピルスの「白紙」に創造行為の源泉を認めたアリストテレスはまた、歩きながら哲学をしていたとも言われる。彼の弟子たちが逍遥学派と呼ばれたというのは周知の事実だ。『ウォークス 歩くことの精神史』は、歩きながら『人間不平等起源論』を書いたルソー、ラッセルの部屋を虎のように歩き回ったウィトゲンシュタイン、「遊歩者」に目を向けたベンヤミンなどをも例にとっている。
 私が思いつくものといえば尾崎翠「歩行」や、歩く所作が執拗に描写されるパヴェーゼの作品、金井美恵子『柔らかい土をふんで、』の印象的な冒頭部や、もっと近いものだと『雷鳴』同人誌に掲載された鵜川ばろさんの「雷をめぐる滑走」、mujitsuさんの短篇、「散歩する小説」などもそうかもしれない。カントの散歩も思い出したが、これはルソー『エミール』によって習慣が中断されている。

 片足を上げて、一瞬のあいだ不安定になり、そして足を地面につける。この動作の執拗な繰り返しが、どうしようもなく言葉や思索の源泉になっていること、さらに絶えず目に飛び込んでくる事物が与える刺激など、こうした動きのイメージからは、アガンベンが言う創造行為に潜む抵抗性などをも感じ取れる(『創造とアナーキー』)。
  「書を捨てよ、町へ出よう」というよりは、町を歩き、たとえば耳のあたりに寒さを感じること、それだけが、とりもなおさず書を読み/書き/歩きすることでもあるような、「テクスト的現実」を「現実的テクスト」へと変容させていくような営み。あるいは「零点」のなかに、テクスト内空間への移行ではない一定の運動性を取り戻すこと。それが可能だとは思っていないが、いま布団のなかでこの文章を書いている限りは、歩くようなリズムを取り戻せてきたような気がする。

※レッサーパンダは長い尻尾でバランスを取りながら歩くらしい。

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