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本を読む日々読まぬ日々

いないこと、いなかったこと──『月と篝火』

 気がついたら春休みも一ヶ月ほど過ぎ去っていて、ほとんど小説を読めていないことに気がついた。二月は「笑い」の原稿にかかりきりだった。原稿に際してエーコとボルヘスは読んでいたが、それでも自由な読書とはいえなかった。レポート期間が一ヶ月のびたような感じだ。しかも、まだシナリオ、論考、小説が一本ずつ残っている。引き受けたことを後悔はしていない。ただ、精神的な圧迫感ゆえに小説を読めないのも癪なので、いくらあるかもわからない積読をくずしながら残りの休みを過ごしたいと思った。
 この冬は会ったこともない親族に会うことが多かった。そのたびに「黒い裾」や「葬儀の日」を思い出した。聞かされたのは、またも会ったことのない曽祖父の話だった。曽祖父は二十歳すぎで戦地に赴き、そのままなくなってしまったらしい。だから彼のことを誰も知らない。知らないのに彼らは話す。墓を開けて骨壷が入っているのを確認したときはじめて、私はその存在を実感した。だが黒い服を着た人々はみな、不在のほうに関心があるようだった。
『月と篝火』はジョイスの翻訳などで知られるイタリア人作家、パヴェーゼが自殺直前に著した小説である。私生児に生まれ、若くから農夫として生計を立て、兵役を機会に村を出た主人公は、アメリカへ渡り、資産を身につけて故郷に戻ってきた。故郷にはいまだ戦争の惨禍が色濃く残り、ファシズムとレジスタンスとの間の抗争が数多くの死を招いていたことを知る。主人公は、ほとんど誰もが自分のことを知らない故郷にかぎりない郷愁をおぼえるのだが、その描き方はあくまで淡々としている。主人公には名前もなく、記憶そのもの、あるいは視線そのものであるかのような印象も受ける。物語の終盤、主人公とその親友のヌート──彼は故郷に残り死を見届けてきた──は丘を登っていく。以下に記される「ふたりの姉」、イレーネはチフスにかかって死にかけ、シルヴィアは夜逃げした紳士の子を身ごもり、ひとりで処置しようとした結果死んだ。また「サンタ」はファッショ側のスパイをしていたために、ヌートの目の前で殺されている。ここに立ち込める不在は、ただ眼差され、思い出されることによってのみ不在でありえている。

 あの台地の上を、ぼくの先に立って歩きはじめた。ときどき、あたりを見まわして、道を探した。ぼくは思った、何もかも同じなのだ、同じ姿ですべてが立ち返ってくる──かつてふたりの姉をぼくが連れていったように、二輪馬車に乗せて、あの丘から丘を、サンタを連れて祭にゆくヌートの姿がぼくには見えた。葡萄畑の上にそびえる、凝灰岩の山肌に、最初の小さな洞窟が見えた。たいていは鍬などをしまっておく場所だが、水が湧けば暗がりにアジャンタムが茂っている。ぼくらは痩せた葡萄畑を通り抜けた。羊歯が茂って、いかにも山奥を思わせる荒あらしい茎に、小さな黄色い花ばなを一面につけていた──それを噛み砕いて血止めにすることを、ぼくはいつでも知っていた。 丘はさらにそびえていった。すでに、農場をいくつか通り過ぎ、いまでは完全に人里を離れていた。
『月と篝火』

右耳の喪失──『密やかな結晶』

 耳を動かせる人は千人に一人らしい。なら、片耳だけ動かせる人は何人に一人だろう。耳を動かす筋肉の発達は人間の進化の過程で切り捨てられていったと聞く。私は意識しようとせざると左耳を震わせられるのだが、右耳はどう頑張ってもできない。石のように硬直したままだ。この目に見えない非対称はよりいっそう左耳の振動をなぞめかせ、小さい頃はこれに熱中していたこともあった。左耳だけが独立した生物として、頭蓋側面に棲みついている。なにかのはずみで接着がゆるんでしまい、牡丹の落ちるようにこの身を離れてしまうのではないか。そして落ちた先でもなお震えている自分の左耳を、私はいつくしむようにながめるだろう。耳を、最初から動かせるものとして考えると私の右耳は退屈に思える。あるいは喪失そのものが打ち据えられていると言っていいだろう。いわば不在を真横に感じながら生きているのだ。もし人類の歴史をこのひとつの身体で体験できたとしたら、身体感覚の喪失は右耳から始まったのかもしれない。
 鳥、香水、フェリー、小説、左足など、あらゆるものが消えていく島で生きる小説家を描いたのが、小川洋子の『密やかな結晶』だ。すべてのものが消えていった先に、人間の声だけが残る。つまり、多くの人々が生き死に、忘れ去られてしまったもの、あるいは忘れ去っていくだろうものすべてが、ひとつの島の、ひとりの人生のなかに詰められているわけだ。忘れたものは思い出すことも難しくなり、覚えている人は、秘密警察に連行されてしまう。このディストピア的小説を読みながら、私は自分の左耳を動かしていた。もしいつか左耳が動かせなくなったら、耳が動かせることさえ忘れてしまうだろう。そうしてひとつずつ、なんの準備もする間もなく消えていくのが記憶だとしたら、右耳にかぎらず私はたえず不在とともにあるのかもしれない。

本に棲まう兎──『岸辺のない海』

 古本には、前の所有者の痕跡が残っている。だから、古書を読むことはだれかの読書の痕跡を追うことにもなる。学術書だったら要点に線が引いてあって理解の助けになることもあるし(たまに読んだ箇所すべてに線を引かれている本にも遭遇するが)、それが途切れていたら、ここでリタイアしたのかなあと思うこともある。前の読者との根気比べだ。小説だったら気に入った箇所に栞を挟んだりドッグイヤー(ページの端を折ること)を作ったりしているのをよく見かけるし、その場所が一致することも多々ある。それ以外にも、本の状態、たとえば極度に焼けていたらどこに置かれていたか思いを馳せることもあるし、タバコや墨の匂いが染み込んでいたら所有者の読書環境を考えることもある。逆に、50年以上まえの本でもパラフィン紙が巻いてあったり箱が綺麗だったりして、大切に保管されていたことに驚くこともある(私は高価な本でないかぎりパラフィンも箱も捨ててしまう)。さらに蔵書印、謹呈の札、読了メモとサイン、貼り重ねられた古書店の値札、擦り切れて読めないレシート、丁寧に折られた帯、広告、美術展や映画のチケットなど……痕跡を見つけるたびに、「読者」というおぼろげな存在に肉が与えられていくような気がする。
 金井美恵子の代表的長篇である『岸辺のない海』について言えることはたくさんある。そしてもし私が、言えることを言おうとしたならば──「書くことの始まり」の話になるかもしれないし、ブランショの「文学空間」やフーコーの「外の思考」、列挙、さらには蓮實と映画の話にもなるかもしれない──それはおおかた金井自身によって「すでに言われている」。そういう側面を持った小説なのだ。だから同時代評が少なかったのだろうし、私もつまるところ「読むことの快楽」の一語でこの小説を片付けたくなる。
 しかし、私がいま手に持っている『岸辺のない海』という小説は、現実にかたちを持って存在し、また、見知らぬだれかによって読まれた形跡が残っている物理的なメディアだった。いくら金井的エクリチュールの襞、読むことの「快楽」を主張したところで、それがインクの滲みに過ぎないことは変わりないが、線を引いた形跡、ページを折った形跡を認めたとなれば、読書はたちまち共同性を感得する行為に変わる。そういえば金井はドッグイヤーを作りながら読むらしいから、前の所有者は金井を倣ったのだろうか。無数のページが小さな直角二等辺三角形のかたちに折られており、その量は本の端がわずかに膨らむほどだった。
 そして、物語の中盤あたりと終盤に、講談社文芸文庫の栞と草思社文庫の栞が挟み込まれている。前者にはご存知の通り海の荒々しい波が描かれており、後者には草むらにたたずむ一匹の兎が描かれている。私は驚いてしまった。『岸辺のない海』が河出文庫だからではない。現実が金井の物語の一部になったかと思われたからだ。それほどに「金井的」だった。『岸辺のない海』は文字通り岸辺がない一面の海を、終わりなき航海と掛け、作中のモチーフとして何度も反復している。さらにこの作品は金井の代表的短篇「兎」と同時期に書かれたものであり、作中にも兎が登場する場面がある。まさにその場面に、兎の栞が挟まれていたのだ。金井の言うように、書くことは終わらない、あるいは永遠にはじまらないのかもしれない。テクストが完全に現実を呑み込んでしまわないかぎりは。

目のなかに水をためる方法──『オンディーヌ』

 フランスの戯曲作家ジロドゥの『オンディーヌ』を読もうと思った直接の理由は、今作っているゲームのシナリオに使おうと思ったからだが、より間接的なものとして、机の下で眠らせておくのにどこか負い目を感じていた、というのがある。本に対して負い目というのも変な話だけれど、白水社版のジロドゥ全集を手に入れてからおよそ6年、学習机の足下のいちばん奥まったところに、アポロン社の古いタゴール全集とともに仕舞われていた。中学校の廃棄図書で譲り受けたときにその戯曲を数篇選んで読んだ記憶はあるのだが、どれだかは忘れてしまった。
 フケーの『水の精』のアダプテーションである本作は、人間と水の精とのあいだの異類婚姻譚を描く。舞台はドイツの森林地帯。老漁夫の養子として育てられていたオンディーヌに、騎士ハンスは一目惚れしてしまう。だが、水界の王はハンスの貞節に疑問をいだき、ひとたび彼が不貞を犯せば死してしまう呪いをかけた。その後、オンディーヌを連れ社交界に戻ったハンスは、読み書きも踊りも作法も知らないオンディーヌのやんちゃな振る舞いを見て、しだいに後悔しはじめる。そこで、水界の王はハンスの貞節を試そうと彼の前の婚約者ベルタと再会させた。オンディーヌと比べると騎士の妻として申し分ない彼女に、ハンスの心は揺らぎはじめる。それに気づいたオンディーヌは、はじめて人間らしい「嘘」をつく。ベルトラムという男と通じ、ハンスの心を引こうとしたのだ。だが、それは遅かった。ハンスがオンディーヌの貞節に気づいた頃には、彼はもう死ぬ運命にあったのだ。物語の終幕、二人の逢瀬は叶うが、すぐにハンスは息絶え、オンディーヌの記憶も水界の王によって消されてしまう。
 以上このようなあらすじだが、ギリシャ神話やイゾルデの伝説などへのほのめかしが多く、読んでいて面白かった。オンディーヌと王妃との会話に、印象的なシーンがある。

王妃 どうして、あたしのところへ迷い込んで来たの、こんな人生なんかが、どうしてお前の気に入ったのかしら?
オンディーヌ 湖の縁から、透かして見ていたら、素敵だったんです。
王妃 いまでもそう、水を離れてからも?
オンディーヌ 目の中に、水をためる方法は、いくらでもあるんです。
王妃 ああ、わかるわ、お前、ハンスが死ぬものと思っておいでだね。そうすれば、涙がたまるから、この世がもう一度素敵に見える。あの女たちが、お前のハンスをとるものだとお思いだね、そうすれば、やはり、この世が素晴しくみえる。
『オンディーヌ』第二幕第一一場

ふやける言葉たち──『冷めない紅茶』

 小川洋子の初期作品を読むとその表現の金井美恵子との類似にすこし驚いてしまうが、ひとつだけ明確に異なる点がある。小川洋子はちっとも映像的じゃないのだ。スクリーンを手でなぞるような金井的エクリチュールの快楽、とでも言うべきものはすっかり脱色されて、水中でものを見るようなふやけきったイメージが立ち現れる。「ダイヴィング・プール」では健康的な肉体がどうしようもなくグロテスクになる瞬間が描かれ、「冷めない紅茶」では水中にゆらめく影のような死者が描かれる。要するに彼女は現実の事物を表現によって異化しているのではなく、単に“あちら側”のものと“こちら側”のものが交錯する瞬間を描いているだけで、その過程で言葉の輪郭もふやけてしまうのではないか。

方法としての異界──『ねじまき鳥クロニクル』

 こうした異界的モチーフといえば村上春樹を思い出さずにはいられない。春樹における異界を論じた加藤典洋は『冷めない紅茶』の解説も書いているわけだし、そうした縁もあるのだろうか。Audibleの無料体験期間が終わり、最近は『ねじまき鳥クロニクル』の「下」を聴いていた。「上」と「中」はずいぶん前に読んでいたのだが、なぜか「下」だけ残していた。そういえば『羊をめぐる冒険』も「上」しか読んでいない。『風の歌』や『ピンボール』はもう何度も読み返しているというのに。Audibleと春樹の相性は最高で、それというのも文章の情報量が少ないからだ。布団に入ってうとうとしながら聴きのがしてしまっても、話の筋がわからなくなることはない。オイディプス的なプロットに沿った『ねじまき鳥クロニクル』ならなおさらだ。確実に、物語はある結末へと収束している。余談だが、石沢麻依の『貝に続く場所にて』はその均整の取れた文体のために、かえって辛抱強く聴き続けるには集中を要した。散歩など「ながら作業」に適するのは春樹くらい天才的に気の抜けた文体なのだろう。
『ねじまき鳥クロニクル』の最後には賛否両論あるらしいが、それもわからなくもない。異界での行動が現実とある種地続きになっているわけだから、かなり無理もある。あるいはそうならざるをえなかったとも言えよう。だが、それよりも注目したいのは、現実や異界のほかに歴史というもうひとつの軸が存在していることだ。オイディプスが探し求めた生誕の秘密は、ここで満州やシベリア抑留の記憶となっている。ごく平凡な現実の裏に歴史的事実が息づいていること、それが明らかになるのはいまや異界を通してだけなのだ。春樹をリスペクトした上田岳弘の『キュー』も二次大戦を扱っているらしいから、これも近いうちに読んでみたい。

現像しない写真──『パパイヤ・ママイヤ』 

 昔、中学一年生か二年生くらいのころ、私はスマホをもっていなくて、いわゆるガラケーで写真を取っていたのだが、そのときの写真をいま見返すことはできない。私は部活でよく山に登っていた。穂高岳やら冬の蓼科山やら、奥多摩の山稜やら、その自然をカメラに収めるのが楽しかった。穂高は3000mを越すから新鮮で、運良く雲が晴れ遠くの青い山々や、ICチップみたいな都市が目に入ると、いそいそとポケットからガラケーを出し、円形の枠に囲まれた中央のボタンを押した。それはたしか母親のお下がりだった。50cmほどの雪に覆われた蓼科山は氷点下の気温だし、吹雪いて視界も悪いしで最悪の状況だったが、それでも真っ白な視界を必死に写真に収めようとしていたと思う。写真を撮るということが、それを見返すためにではなく目の前の景色となにかしらのつながりを得るために行われていた最後の体験だった。だから、写真は失われてよかったのかもしれない。
 乗代雄介の『パパイヤ・ママイヤ』は写真小説だ。彼ははてなブログじゃない方のブログ(つまりnote)で自然描写をした文章を上げているくらいだから、めちゃくちゃ風景描写がうまい。思えば彼が踏まえているであろう川端文学も、厳密な風景の写生からはじまったものだった。この小説はパパが嫌いな「パパイヤ」とママが嫌いな「ママイヤ」という家庭環境に問題を抱える二人の女子高生のひと夏を描いている。二人は毎週干潟で会い、スマホを捨て、やがて自分が海へ投げ捨てたウィスキーのボトル(とそのなかに入っている絵)を探しに出かけるのだが、「ママイヤ」はトイカメラを使ってその様子を写真に残している。失ったものを取り戻す、という筋だけみると単純なものの、場面に登場人物がほぼ二人しかいないから会話のテンポが小気味よく、「エモさ」に回収されない語りの爽やかさがあった。
 現代の小説ではよく、写真や映画、劇などのギミックをもちいて作品にメタ構造をとらせるものが多い。それは描写の効率化にもなるから、短中篇小説に顕著だ(「旅のない」や「ドライブ・マイ・カー」)。おそらくそこで重要なのは、それがギミックでしかなく、主題として前景化してこないということだ。ギミックはプルースト(彼は写真にいち早く注目した)、ジョイスの小説家や、漱石の画工のように、「私」と切り離せないものではない。あるいは作品の完成とともに物語が終了してしまうたぐいのものでもない。むしろ、対象を写し取るという小説の行為を重層化させるためにもちいられているように思える。つまり、写真は現像しなくても良い、あるいは失われてしまっても良い。それを撮る行為が重要になっているのではないか。

創作への無関心──『ブラフマンの埋葬』

 小川洋子の『ブラフマンの埋葬』は、〈創作者の家〉という架空の場所を舞台にしている。〈創作者の家〉は、夏のあいだあらゆる種類の創作活動に励む芸術家に仕事場を提供する避暑地のような施設で、主人公はそこの管理人。ここで制作された作品は名のある賞を得ることもしばしばあるそう。面白いのは、芸術家が満足いく日々を過ごせるように、主人公が彼らと一歩引いた関係をとっているということだ。芸術家に、その作品に、ある種無関心を貫いて接するこの態度は、創作者自身にとっても必要かもしれない。

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