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「だから」と「なのに」の違いって何?

――同じ接続を意味する言葉ではありますが、みなさんが多用するのはどちらでしょうか? また、接続詞として正しいのはどちらでしょう? そこに違いはあるのでしょうか?


人生は物語。
どうも横山黎です。

大学生作家として本を書いたり、本を届けたり、本を届けるためにイベントを開催したりしています。

最近は音声配信も始めました。毎週金曜日22:00から僕のお気に入りの本を紹介するライブ「FAVORITE!!」を開催しています。興味を持たれた方は是非遊びに来てください。



今回は「教科書に載るということ」というテーマで話していこうと思います。



📚「だから」と「なので」

大学4年間を通して、面白いと思える授業なんて数少なかったけれど、今受けている数少ない授業のうちのひとつは僕が主体的になれる面白い授業で、今回はその授業で知った話について記事にしようと思います。

「だから」と「なのに」の違いについてです。

作文も小論文も、あるいはこのnoteでもそうですが、自分の主張を展開していくときに必要なのが、効果的な接続詞を使う技術です。中学生のときに一通りやりましたね。順接、逆説、添加、例示……それらを正しく使うことで読みやすい文章を書くことができます。

さて、本題に入ります。

みなさんは「だから」と「なので」のどちらを使いますか?

同じ接続を意味する言葉ではありますが、みなさんが多用するのはどちらでしょうか? また、接続詞として正しいのはどちらでしょう? そこに違いはあるのでしょうか?

結論からいうと、実はこのふたつ、どちらも誤りなんです。


📚「なので」は誤り?

きっと多くの人は、「なので」は砕けた表現だから「だから」を使うべきだと思われたかもしれません。現役の教員いわく、国語の授業の作文指導でも、「なので」を使わないように指導するそうです。学校教育では「なので」を「だから」に直す文化があるのです。

僕自身、高校時代にビブリオバトル(自分のおすすめの本を5分間で紹介するイベント)の原稿をつくっていたとき、「なので」は砕けた表現だから使わない方がいいと思うと、指導してくれていた教師に言われたことがあります。作文だけに限らず、発表原稿においても「なので」の使用を控えなければいけなかったのです。

しかし、はたしてそうでしょうか。

「なので」は本当に誤りなのでしょうか。

逆に、なぜ「だから」は許されるのでしょうか。


少し視点を変えてみます。接続詞という観点ではなく、文章をつなぐ言葉として見てみましょう。つまり、文と文をつなぐ言葉ではなく、一文のなかの言葉として考えるということです。例を挙げます。

①あなたの横顔があまりに綺麗なので、花火は背景になった。
②家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった。

ふと思いついた用例がちょっとロマンチックになってしまったんですが、それは置いといて、上のふたつの文それぞれの「なので」「だから」に注目して考えていきます。

①の「なので」の「な」は、直前の形容動詞「綺麗だ」の「だ」が活用したもの。そこに接続助詞の「ので」がくっついたものです。②の「だから」は、断定の助動詞「だ」と接続助詞の「から」がくっついたものですね。

何が言いたいかというと、「なので」も「だから」も直前に単語が来ないと成立しないってことです。

①の方は言うまでもありませんね。「なので」の「な」は「綺麗だ」の一部ですから、「なので」単体で存在できないのです。②の「だから」も、「だ」は断定の助動詞ですから、今回の「家族」のように、直前に名詞が来ないといけません(正確にいうと接続助詞の「の」の後でもいける)。

直前に単語が来ないと成立しないってことは、接続詞として文章の頭に来ることができないってことです。つまり、文法的に突き詰めていくと、実は「だから」も「なので」も接続詞としては成立しないのです。

しかし、今では、「なので」は表現としてふさわしくなく、「だから」は正しいように扱われています。この違いはどうして生まれてしまったのでしょう。


📚「だから」と「なので」の歴史

実は戦前の教科書では、「だから」も「なので」も登場しません。文法的に誤りなのですから当然ではありますが、似たような表現は登場していました。「それだから」「それなので」という表現です。「それ」という指示語が直前に入っているので、「だから」も「なので」も機能するのです。「それだから」「それなので」が接続詞として使われていたというわけです。

しかし、言葉というものは生き物のようなもので、人が使う度にゆっくりと姿かたちを変えていくものです。「それだから」「それなのに」を使っているうちに、「それ」が削ぎ落ちてしまったのです。

古文の授業で聞いたことがあるかもしれません。わざわざ言わなくてもいいことは言わない美学があったので、というより、それが言葉の性質なので、省略できるものは省略しがちなんです。だから、古文ではよく主語が抜けているんですよね。

同じように、毎度毎度「それ」って言うのめんどくさくね?となり、いつからか「だから」「なのに」を使うようになったのです。ら抜き言葉のようなもので、日常的に使っていくうちに、言葉の余分な部分が篩にかけられたというわけです。


しかし、謎はまだ残っています。現在、「だから」が市民権を得ているのはなぜなのでしょう。

実はそこには、「教科書」が関わっているんです。

簡単なことです。教科書で「だから」が使われるようになったから、「だから」が市民権を得て、「なので」は迫害されたのです。昭和60年頃の教科書から「だから」が使われ始め、今日にいたるまで優遇されてきたわけですから納得できますね。

「だから」と「なので」にはこんな歴史があったのです。

ただ、ら抜き言葉が少しずつ認められてきたように、きっとそう遠くない将来、「なので」も正しい表現として定着するのではないかと考えられます。言葉は流れるように変化していくものですから、その流れに逆らうようなことは好ましくありませんからね。


📚教科書に載るということ

この話を授業で聞いて、僕は唸りました。やっぱり言葉って面白いし、どんなものでもその歴史って奥が深い。そして、それと同時に「教科書に載るということ」について思いを馳せました。

僕らが子どもの頃、特に何も考えずに授業で使っていた教科書ですが、あそこには隠れたメッセージが込められているんですよね。教科書をつくる人が何を語るか、どんな言葉で表現するのか、それによって子どもたちのなかに潜在的な偏見を生み出しているんです。

何を語るにしろ、どんな言葉を使うにしろ、それは避けられないから仕方のないことではありますが、教科書に載っていることは物事の一側面でしかないことを改めて認識しました。


大学4年生の僕は卒業論文に取り組んでいます。そのテーマは「桃太郎」です。大学2年生の頃、時代によって変容していく「桃太郎」の物語に興味を持ち、いろいろ調べていたところ、卒論の題材に掲げるほど好奇心が肥大していました。

今僕らが知っている「桃太郎」といえば、桃から生まれた桃太郎が猿と犬と雉を連れて、鬼ヶ島へ鬼を退治しに行く話ですが、実はそれはひとつの物語でしかなくて、歴史上無数の物語が存在しているんです。

もともと桃太郎は桃から生まれるわけではありませんでした。桃を食べた老夫婦が若返って子作りをして桃太郎を生むという始まり方でした。江戸時代までは、むしろこっちの方が主流だったくらいです。

しかし、明治時代になって欧米に負けない強い国づくりをしなきゃいけなくなって、政府は教育に力を入れることにしました。自国への愛国心や自尊心、忠誠心を育てるために、「桃太郎」を教材として教科書に載せたのです。桃太郎の勇姿を、日本国に見立てたわけです。

それ以降、子どもたちは「桃太郎」といえば、教科書に載っている「桃から生まれた桃太郎の話」という等式が成り立ってしまった。「桃太郎」が教科書に載らなくなった今でも、その物語が語り継がれるほど、当時の国民に定着したということでしょう。

現代でも「桃から生まれた桃太郎」が市民権を得ているのは、明治時代に教科書に載ったことが大きく影響しているというわけです。


「だから」と「なので」や「桃太郎」の話からいえることは、教科書に載るということを侮ってはいけなくて、教科書に載るだけで後世を生きる人の見方、考え方を変えてしまう可能性を秘めているってこと。

「教科書」というより「多くの人に読まれる本」といった方が正確かもしれませんね。人も時代も変えていく力が秘められているのです。そんな本を作れたなら作家冥利に尽きることはないと思ったし、より多くの人の人生に良い影響を与えることができたなら本望だなと思いました。そんな日が到来することを夢見て、今日も執筆に向き合います。最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

20231006 横山黎



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