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『かちかち山』とカニバリズム


人生は物語。
どうも横山黎です。

今回は「卒業論文『芥川龍之介研究 『桃太郎』を中心に』の第7章『『かちかち山』との比較』の原稿を共有する」というテーマで話していこうと思います。


第二章(一)はこちらから↓↓↓

第二章(二)はこちらから↓↓↓


📚『かちかち山』との比較

 芥川は昔話の「かちかち山」を題材に同名の作品(これ以降芥川『かちかち山』とする)を書いた。1919年頃に書かれた作品で、後で触れる『教訓談』の草稿である。

 「かちかち山」のあらすじを記す。おじいさんの耕す畑にいたずらをする狸がいた。おじいさんは罠を仕掛けた狸を捕まえ狸汁にしようとするが、畑仕事に向かっているさなか、狸はおばあさんを騙して婆汁にする。狸はおばあさんに化け、畑仕事から帰ってきて婆汁を飲んだおじいさんを嘲笑い山に帰った。おばあさんの死を悼んだおじいさんに、兎が狸に復讐することを誓う。兎は狸の背負っている柴に火を付け、やけどを負わせた。最終的に泥の舟に乗せられた狸は、海に溺れて死んだ。兎はおばあさんの敵を討ったのである。

 芥川『かちかち山』では、物語の大筋に変化は見られないものの、狸に殺されたおばさんをおじいさんが悲しんでいるところから始まる。昔話のように、狸が畑にいたずらをしていたこと、どのようにおばあさんを騙したのか、それまでの経緯が描かれていないのだ。また、兎と狸の攻防も描かれていないことも相違点の一つといえる。「最後の争ひをつづけて」おり、「狸が乗ってゐる」と思われる「黒い舟」が「徐に沈んで行く」とあるので、兎がおばあさんの仇討ちを果たしたことが分かる。それを受け老人は、「涙にぬれた眼をかがやかせて、海の上の兎を扶けるやうに、高く両の手をさしあげ」、復讐を果たしたことに歓喜した。

 しかし、昔話のように柴に火を付ける場面も、生々しい狸への復讐を描くこともない。幻想的な文章でつづられた作品には全体的に悲壮感が漂う。それは元来の、善が悪を制する痛快な勧善懲悪の物語に漂う雰囲気とは明らかに異なる。

 芥川『かちかち山』の本文を丁寧に読んでいきつつ、芥川『桃太郎』、また、必要に応じて芥川『猿蟹合戦』と比較することで、芥川の昔話を再話した物語のなかで一貫して描かれている「善悪」について理解を深めて行きたい。そして、芥川『桃太郎』のさらなる理解につなげていきたい。ここでも、芥川『桃太郎』と芥川『かちかち山』における共通点を先に上げておく。

①  「日本昔話を再話した物語である」
②  「物語の舞台がそれが書かれた当時である」
③  「他の童話や昔話にまで話を広げている」
④  「善悪について言及している」
⑤  「人間の持つ獣性について言及している」


 まず①についてである。芥川『桃太郎』や芥川『猿蟹合戦』がそうであったように、芥川『かちかち山』も日本昔話を再話した物語であるが、先述の通り、物語の大筋に変化は見られず、他二作品とは違い、登場人物の善悪が反転しているわけでもない点が相違点ではある。


 次に、②の共通点「物語の舞台がそれが書かれた当時である」についてだが、それを説明するために、「童話時代」という特徴的な言葉から始まる四つの段落の全文を次に示す。

(一)童話時代のうす明りの中に、一人の老人と一頭の兎とは、舌切雀のかすかな羽音を聞きながら、しづかに老人の妻の死をなげいてゐる。とほくに懶い響を立ててゐるのは、鬼ヶ島へ通ふ夢の海の、永久にくづれる事のない波であらう。

(二)童話時代のうす明りの中に、一人の老人と一頭の兎とは、花のない桜の木の下に、互に互をなぐさめながら、力なく別れをつげた。老人は、蹲つたまま泣いてゐる。兎は何度も後をふりむきながら、舟の方へ歩いてゆく。その空には、舌切雀のかすかな羽音がして、あけ方の半透明な光も、何時か少しづつひろがつて来た。

(三)童話時代のうす明りの中に、一頭の兎と一頭の狸とは、それぞれ白い舟と黒い舟とに乗つて、静に夢の海へ漕いで出た。永久にくづれる事のない波は、善悪の舟をめぐつて、懶い子守唄をうたつてゐる。

(四)童話時代の明け方に、――獣性の獣性を亡ぼす争ひに、歓喜する人間を象徴しようとするのであらう、日輪は、さうして、その下にさく象嵌のやうな桜の花は。

芥川龍之介『かちかち山』

 物語に直接関係ないが、「童話時代」という言葉が多用されていることが分かる。この作品が書かれた当時、「童話時代」という言葉を使うことでどのような効果が望めるのだろうか。

 「童話時代」という言葉は、芥川『かちかち山』が世に出た前年の1918年、鈴木三重吉の手によって創刊された「赤い鳥」を想起させる。子どもの純粋な心を育むための作品を掲載した児童雑誌のことだ。芥川はその理念に賛同し、『蜘蛛の糸』や『杜子春』といった作品を寄せている。芥川の意図を汲み取ることはできないが、当時の芥川の心中に「童話」や「児童文学」といった子どもに向けた作品に対する興味が大きかったことは想像に難くない。実際、同時期に、芥川『かちかち山』を筆頭に、昔話を再話した作品を創作しているのだから。

 『赤い鳥』が創刊されて子ども向けの作品をつくろうとする当時の風潮を「童話時代」と表現したとするならば、芥川『かちかち山』もその物語の舞台を当時と見ることはできる。後で詳述するが、芥川『かちかち山』を草稿とする『教訓談』の中には、1921年から翌年にかけて起こったロシア飢饉に触れていることからも、芥川の意識が当時の時代に在ったといえるだろう。


 続いて、➂の共通点「他の童話や昔話にまで話を広げている」について論じていく。まず先に引用した(一)の段落に注目すると、その後の展開には全く関わりがないが、「桃太郎」に登場する「鬼ヶ島」という単語が見つけられる。「かちかち山」の再話で「桃太郎」に触れることにどのような意図があったのだろうか。芥川『かちかち山』は芥川『桃太郎』や芥川『猿蟹合戦』よりも前に書かれた作品であり、芥川の昔話の再話の原点ともいえる。当時、後に「桃太郎」や「猿蟹合戦」の再話を想定していたのかは分からないが、芥川『かちかち山』であらゆる昔話や童話を素材に物語を展開していこうとしていると読み取れるのではないか。その証拠に、「桃太郎」だけでなく別の昔話を想起させる単語や表現が数々登場しているのだ。

 (一)と(二)には「舌切雀」が登場している。(一)でも(二)でも羽音に言及しているので、「舌切雀」と表現する必要はどこにもなく、もはや雀である必要もない。しかし、あえて「舌切雀」と表現しているということは、他の昔話や童話に触れる意図があったと考えられるのだ。

 (二)の段落には、「花のない桜の木」という表現がある。ここからは昔話の「花咲か爺さん」を思わせる。物語終盤、「花のない桜の木」が再登場し、「貝殻のやうな花がさいた」とあることからも「花咲爺さん」を意識したといえるのではないか。

 また、先の四つの段落には含まれていないが、「黒い舟の上には、さつきから、一頭の狸が、ぢつと波の音を聞ゐている。これは竜宮の燈火の油をぬすむつもりであらうか。」という文章がある。「竜宮の燈火」という表現から、昔話の「浦島太郎」を連想できる。これに関しても、「狸が、ぢっと波の音を聞ゐている」様子に、語り手が「竜宮の燈火の油をぬすむつもりであらうか」という推測をしているわけだが、これ以降の展開で浦島太郎が関わってくることはなく、「竜宮の燈火」が登場することもないので、「竜宮の燈火」という言葉を使う必要性は全くない。

 整理すると、芥川『かちかち山』は「かちかち山」の再話でありながら、その物語に全く関わりがないにも関わらず、「桃太郎」「舌切雀」「花咲爺さん」「浦島太郎」といった日本を代表する昔話に言及している。ここからは、「かちかち山」を題材にしているが、「桃太郎」などの昔話にまで話を広げて物語っていこうとする意図が読み取れる。それは短い物語でありながら「童話時代」から始まる段落が四つもあることからもいえるだろう。昔話や童話全体に向き合う姿勢があったのではないか。芥川『桃太郎』でも、他の童話や昔話に言及している部分がいくつか見られる。第二節、第三節の文章を引用しよう。

その上猿は腹が張ると、たちまち不服を唱となえ出した。どうも黍団子の半分くらいでは、鬼が島征伐の伴をするのも考え物だといい出したのである。すると犬は吠えたけりながら、いきなり猿を噛み殺そうとした。もし雉がとめなかったとすれば、猿は蟹の仇打ちを待たず、この時もう死んでいたかも知れない。

芥川龍之介『桃太郎』

瘤取りの話に出て来る鬼は一晩中踊りを踊っている。一寸法師の話に出てくる鬼も一身の危険を顧みず、物詣の姫君に見とれていたらしい。なるほど大江山の酒顛童子や羅生門の茨木童子は稀代の悪人のように思われている。しかし茨木童子などは我々の銀座を愛するように朱雀大路を愛する余り、時々そっと羅生門へ姿を露したのではないであろうか? 酒顛童子も大江山の岩屋に酒ばかり飲んでいたのは確かである。

芥川龍之介『桃太郎』

 芥川『桃太郎』の第五節には、「何でも猿の殺されたのは人違いだったらしいという噂である」という一文がある。鬼退治の後、人間の島に戻った桃太郎一行だったが、鬼による復讐が始まり、雉は噛み殺され、猿は人違いで殺された。ここで猿は死んでいるのである。そうであるのにもかかわらず、先に示したように、蟹に仇打ちされるまで生きていたと語っている。猿は蟹に仇打ちをされて死んだとする第二節と、鬼の手によって人違いで殺されて死んだとする第五節は明らかに矛盾するのだが、ここにあえて意味をもたらすならば、それぞれの文章自体には意味がないということである。

 先の節でも触れたように、関東大震災後の朝鮮人や中国人が虐殺された事件を想起させるためだけの文章であり、猿と蟹のくだりにおいても、「猿蟹合戦」を想起させるためだけの文章だったのではないか。つまり、第二節の猿と蟹にくだりは、他の童話や昔話と結び付けるためだけの文章といえるのだ。二つ目に記した第三節でも、「瘤取り爺さん」や「一寸法師」、他の鬼の話に触れている。

 以上のことから、改めて、芥川『桃太郎』の深い読みを実現するために、芥川『猿蟹合戦』、芥川『かちかち山』と比較することの意義を再認識することができた。そして、他の童話や昔話、あるいは芥川の他の再話作品と結び付けて読み直すことによって、芥川『桃太郎』の深い読みにつながると再認識することができた。


 それでは、④の共通点「善悪について言及している」についてみていこう。芥川『桃太郎』と芥川『猿蟹合戦』の共通点としても挙げたことを加味すると、今回比較している三つの再話作品に共通して扱われているテーマは「善悪」といえる。

 先に紹介した(三)の段落に注目すると、「善悪の舟」という表現がみられる。兎の乗った白い舟を「善」とし、狸の乗った黒い舟を「悪」と呼んでいるのだ。ただ、芥川『かちかち山』は、他二作品のように、元の話に出てくる登場人物たちの善悪が反転しているわけではない。元の話をおおよそその通りに芥川独特の筆致で綴られているため、他二作品のような衝撃をもたらすことはないが、最後の段落である(四)は読者に不思議な印象を残す。それは「獣性」という言葉に由来するのではないか。

 「獣性」という言葉は、先に示した(四)の段落に、「獣性の獣性を亡ぼす争ひ」という表現が見られる。兎による狸への復讐をそう表現している。また、芥川『かちかち山』を草稿とする『教訓談』の中にも「獣性」という言葉が見られるため、『教訓談』の内容も踏まえつつ、最後に、⑤の共通点「獣性に言及していること」について論じていく。


 『教訓談』は、1922年(大正11年)に書かれた短い物語であり、本文中でも指摘しているように「かちかち山」を題材としている。1919年に「かちかち山」を再話して芥川『かちかち山』という作品を書いたわけだが、4年後、同じ題材を再び再話した作品を書いたことになる。昔話「かちかち山」では、狸に騙されたおばあさんが婆汁にされ、それをおじいさんが飲む。その場面を引き合いに、カニバリズム(人間が人間の肉を食べる習俗)に触れている。

 あなたはこんな話を聞いたことがありますか? 人間が人間の肉を食つた話を。いえ、ロシヤの飢饉の話ではありません。日本の話、――ずつと昔の日本の話です。食つたのは爺さんですし、食はれたのは婆さんです。

芥川龍之介『教訓談』

 狸に騙されたとはいえ、夫が妻の肉を食べた事実に違いはなく、「我々もうつかしてゐると、人間の肉を食ひかねません。我々の内にある獣の為に」と続けている。しかし、昔話「かちかち山」で兎が狸を亡したように、「獣は獣の為に亡され、其処に人間は栄え」るものだといい、最後には、「あなたの耳は狸の耳なのでせう。」と読者に問いかけて話を結んでいる。

 『教訓談』の中で、獣たちの争いの後に人間は栄えるといいつつ、人間の内には獣がいるといっている。先に紹介した芥川『かちかち山』では「獣性の獣性を亡ぼす争ひ」という表現をしている。どちらも兎や狸のことを指しているため、「獣」と「獣性」は同義であるといって差支えはないだろう。

 さて、これに関して、芥川『桃太郎』でも「獣」に言及している箇所がある。第三節の鬼の母のセリフを引用する。

「お前たちも悪戯をすると、人間の島へやってしまうよ。人間の島へやられた鬼はあの昔の酒顛童子のように、きっと殺されてしまうのだからね。え、人間というものかい? 人間というものは角の生はえない、生白い顔や手足をした、何ともいわれず気味の悪いものだよ。おまけにまた人間の女と来た日には、その生白い顔や手足へ一面に鉛の粉をなすっているのだよ。それだけならばまだ好いいのだがね。男でも女でも同じように、うそはいうし、欲は深いし、焼餅は焼くし、己惚は強いし、仲間同志殺し合うし、火はつけるし、泥棒はするし、手のつけようのない毛だものなのだよ……」

芥川龍之介『桃太郎』

 ここでは鬼の母が、人間のことを「毛だもの」と表現している。「毛だもの」は「獣」と書くこともできるため、芥川『桃太郎』でも「獣」「獣性」について言及しているといえるのだ。

 芥川『猿蟹合戦』も例外ではない。芥川『かちかち山』の最後の一文「あなたの耳は狸の耳なのでせう。」は、芥川『猿蟹合戦』の「君たちもたいてい蟹なんですよ」と酷似している。「狸」を「獣」と言い換えられるならば、「蟹」も「獣」と言い換えられるのではないか。読者こそが「獣」であると突きつける一文といえるのではないか。

 宮廻は「この系譜の作品の根底には「童話時代」(「教訓談」)を超越して、現実世界を覚めた目で直視する芥川のねらいがある」と指摘し、「ここに共通するモチーフは、人間のもつ獣性の暴露」ともいっている。つまり、犬、猿、雉、蟹、狸、兎といった生物学的な獣に、獣性を持つ人間を重ね合わせ、我々人間も自らの獣性のために滅ぼしたり、滅ぼされたりすることがあることを指摘しているのではないか。そう考えると、芥川『猿蟹合戦』で蟹の長男が同類の肉を食べるために仲間を引きずり込んだとされる描写も、「人間が人間を食べる(亡ぼす)」ことの比喩であると納得することができる。同時に、カニバリズムに触れた『教訓談』とのつながりを見出すことも可能である。

 芥川『桃太郎』では人間が「毛だもの(獣)」とされ、人間である桃太郎が侵略者として描かれるため、「獣」は「悪」の存在であり、「獣性」は「悪意」と置き換えることができる。芥川『猿蟹合戦』や芥川『かちかち山』でも、「蟹」=「獣」=「悪」、「狸」=「獣」=「悪」が成り立つが、忘れてはいけないのは、「善」の存在である「猿」も「兎」も、あるいは「鬼」も同じように「獣」であることである。芥川『かちかち山』や『教訓談』でいっているように、「獣」が「獣」を亡ぼしているのである。

 「善」の存在も「悪」の存在も、同じように「獣」であり、「善」の存在とされた「獣」も、条件次第では「悪」の存在になり得るわけである。芥川『桃太郎』の平和を愛する鬼が、桃太郎による鬼が島征伐を機に、復讐に目覚めるように。

 したがって、芥川の昔話を再話した三作品の深い読みを実現するために注目すべきなのは、「善」の存在とも「悪」の存在ともなり得る「獣」ではなく、「善」の存在である「獣」が「悪」の存在である「獣」を亡ぼすように掻き立てる存在ではないか。兎に狸の復讐をさせる老人、猿に仇討ちをした蟹に死刑を下した天下、犬猿雉を巻き込み鬼が島征伐を号令した桃太郎にこそ注目すべきであり、そういった存在を、芥川は「天才」と呼んでいるのではないか。



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