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蟹が死刑になる「猿蟹合戦」


人生は物語。
どうも横山黎です。

今回は「卒業論文『芥川龍之介研究 『桃太郎』を中心に』の第6章『〈猿蟹合戦〉との比較』の原稿を共有する」というテーマで話していこうと思います。


※前回の原稿はこちら↓↓↓


📚(二)『猿蟹合戦』との比較

 まずは『猿蟹合戦』(以下、芥川『猿蟹合戦』とする)について論じていく。芥川『猿蟹合戦』は1923年に雑誌「婦人公論」に掲載された作品であり、その名から分かるように日本昔話「猿蟹合戦」を題材にしたものである。

 「猿蟹合戦」は、ずる賢い猿が柿の種と交換に蟹のおにぎりをだまし取り、蟹が植えた柿の種が成長して実がなるとそれもだまし取ってしまうが、蟹は栗、蜂、臼の力を借り、敵討ちをするという物語であり、日本五大昔話のひとつにも数えられている。

 芥川『猿蟹合戦』では「猿蟹合戦」の後日譚の形を採用しており、敵討ちを果たした蟹とその一行が監獄に投ぜられた運命について語っていく。

 蟹と猿との契約を証明するものはなく、青柿を投げつけた猿に悪意があったかどうか、その証拠も不十分であるために、結局蟹は死刑の宣告を下された。

 蟹の不遇はそれに止まらない。死刑を下されたことに同情する声は新聞雑誌に寄せられず、それどころか「己の無知と軽率とから猿に利益を占められたのを忌々しがっただけではないか?」と非難される始末である。大学教授は「復讐は善と称し難い」と説き、とある宗教の館長は「蟹は仏慈悲を知らなかったらしい、たとい青柿を投げつけられたとしても、仏慈悲を知っていさえすれば、猿の所行を憎む代りに、反ってそれを憐んだであろう」と言った。このように蟹を憐れむ声が皆無に等しい事実が淡々と語られる。終盤には、蟹の家族にも話が及び、妻は売笑婦になり、長男は株やの番頭か何かをしており、次男は小説家になった。三男は愚物だったため、蟹より他のものにはなれず、横這いで歩いていたところ、握り飯を拾ったが、そこへ一匹の猿が現れた。言うまでもないが、「猿蟹合戦」の物語が再び始まったのである。

 そして最後の段落では、「猿と戦ったが最後、蟹は必ず天下のために殺される」という蟹の運命について指摘し、「君たちもたいてい蟹なんですよ」と読者に当てつけることで物語を結んでいる。

 芥川『桃太郎』との共通点は大きく分けて四つある。

①    「日本昔話を再話した物語である」
②    「物語の舞台がそれが書かれた当時である」
③    「元の物語と再話した物語とで登場人物の善悪が反転している」
④    「獣性について言及している」

 まず、①についてであるが、これは特筆するべきことはない。芥川『桃太郎』は「桃太郎」を再話したものであり、芥川『猿蟹合戦』は「猿蟹合戦」を再話したものである。

 強いていえば、「桃太郎」も「猿蟹合戦」も日本五大昔話に数えられ、当時から日本人にとってもなじみのある物語であることだ。再話には、元となる物語がよく知られているからこそ成立している場合と、知られていなくても成立している場合がある。芥川の作品の中でいえば、前者が芥川『桃太郎』芥川『猿蟹合戦』であり、後者が『羅生門』『藪の中』『杜子春』などが挙げられる。『羅生門』などは今昔物語に収録されている作品を下地にした物語であり、原典比較をすると芥川の意図を推察することができる。

 比較することで再話した意味を見出すことができる点に違いはないが、元となる物語がよく知られている再話作品は作品鑑賞時点で読者に衝撃を与えることができるのだ。「桃太郎」も「猿蟹合戦」も読者はよく知っている昔話であるから、それを再話した芥川『桃太郎』や芥川『猿蟹合戦』を読んだときに元の昔話との相違点が明確に浮かび上がる。侵略者としての桃太郎や死刑を求刑される蟹が描かれることに驚きを隠せない読者がほとんどであろう。日本五大昔話に数えられるような誰もが知る物語を再話し、遊戯的に衝撃を狙ったことは想像に難くない。


 次に②についてである。本文に注目すると、どちらの物語もそれが書かれた当時が舞台であることが分かる。

 前の節でも触れたが、芥川『桃太郎』では、桃太郎の伴をする雉のことを「地震学などにも通じた」と紹介している。この特徴が以降の物語に関わってくることはないため、排除しても問題のない要素ではあるが、あえて「地震学などにも通じた雉」を登場させることで、直前に起こった関東大震災を彷彿とさせ、単純に昔話を再話しているのではなく当時を描いていることを秘かに暗示したと考えられる。同様に、芥川『猿蟹合戦』でも昔話ではなく、現実を舞台にしているといえる箇所がある。分かりやすい例は、蟹の仇討ちについて批評するくだりに見られる。

 それから社会主義の某首領は蟹は柿とか握り飯とか云う私有財産を難有がっていたから、臼や蜂や卵なども反動的思想を持っていたのであろう、事によると尻押しをしたのは国粋会かも知れないと云った。

芥川龍之介『猿蟹合戦』

 国粋会とは、1919年に設立された日本最初緒右翼団体である。当時の社会主義の台頭に対抗するようにつくられた。佐藤が「大正9年2月の八幡製鉄所争議の際に『虚空視界の抜刀隊が労働幹部を襲撃』して鎮圧し、社会主義などの外来思想の一掃を企てた国粋会からの回し者として蟹を危険視した」と述べているように、社会主義の某首領とは対峙する国粋主義の立場として蟹を疑い、批判しているのである。

 物語後半には、クロポトキンの相互扶助論について触れている点、そもそも裁判や新聞といった単語が当然のごとく使われている点から、昔話「猿蟹合戦」の物語の舞台を当時の時代に置換する意図が見える。

 したがって、読者は昔話の時代と芥川によって再話された物語の時代のふたつの時代を認識することになり、それぞれの時代における価値観の比較をすることになる。そこで読者は自ずと「元の物語と再話した物語とで登場人物の善悪が反転していること」に気付くのだ。


 ➂の共通点に注目して芥川『猿蟹合戦』を比較することによって、芥川『桃太郎』の深い作品理解につながるのではないか。

 「桃太郎」では桃太郎が善、鬼が悪として描かれ、善の存在である桃太郎が悪の存在である鬼を退治する勧善懲悪の物語が展開される。

 「猿蟹合戦」では蟹が善、猿が悪として描かれ、善の存在である蟹が悪の存在である猿に復讐する勧善懲悪の物語が展開される。両者ともに善悪の区別が明確であり、分かりやすい構造の物語である。

 しかし、芥川は再話の際にどちらの作品においても、対立する登場人物たちの善悪を反転させた。芥川『桃太郎』では桃太郎が悪、鬼が善として描かれ、芥川『猿蟹合戦』では蟹が悪、猿が善として描かれたのだ。

 注目したいのは、物語の種類も変わっているということである。善の鬼が悪の桃太郎を倒す物語でも、善の猿が悪の蟹を裁判で勝つわけでもない。勧善懲悪の物語が展開されるわけではないのだ。前述したように芥川『桃太郎』では善の存在である鬼も最後には復讐を企て椰子の実に爆弾を詰めているし、さらに第六節では桃太郎が誕生した桃の木に焦点が当たり、「未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。」と判然としない終わり方をしている。一方の『猿蟹合戦』では、次のように物語を結ぶ。

 とにかく猿と戦ったが最後、蟹は必ず天下のために殺されることだけは事実である。語を天下の読者に寄す。君たちもたいてい蟹なんですよ。

芥川龍之介『猿蟹合戦』

 「愚物」と呼ばれた三男の蟹が握り飯を拾い、再び猿と出くわし、昔話の猿蟹合戦、加えて後日談である芥川『猿蟹合戦』の物語が繰り返されることを示唆している。そして、何度繰り返されようと「必ず天下のために殺される」定めを背負ったのが蟹であり、読者こそがその蟹であることを指摘している。元の勧善懲悪というテーマからは程遠く、善悪それぞれの存在の背負う運命がいかなるものか、メタ的に、風刺的に、そして遊戯的に表現しているのだ。

 芥川『猿蟹合戦』と比較して浮かび上がった共通点から、芥川『桃太郎』で表現しているのは、戦争の残忍性や復讐の連鎖が止まらない遣る瀬無さだけではなく、登場人物の善悪を反転させることによって浮かび上がる善悪の本質であり、勧善懲悪ではなく善悪が共存する当時の世界をどう受け止め、生きていくのかを尋ねる読者への問いではないか。


 最後の⑤の共通点「獣性に言及している」についてだが、これは第三節で行う芥川『かちかち山』との比較で詳しく取り扱う。芥川『猿蟹合戦』の最後の一文「君たちもたいてい蟹なんですよ。」をどう読み取るべきかも次節で論じていこう。



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