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私という人間がどう変わって、これからどうなっていくのか

こんばんは。キュイです。
前回記事でちょっと触れていた、私の根暗人生。
いや、自分で言うんかい、という感じですけど、まぁ、根暗でしたね。
というか、私は自分の思う行動に移せなかったタイプだったわけですね。
同級生に会ったときどうするのか、というテーマで書いたのに、気づけば私の根暗人生を振り返っていたんですけど、それを書きながら、今日はこっちのテーマにあえて持っていこうと思いました。
珍しく長い一文から始まる私という人間について、書かせて頂こうかな。

このnoteを始めたきっかけは、ここから始まるんでしょうか。
なんで始めたのか、と言われると浮かぶ答えは正直一つです。
「承認欲求」。
最近、これがすごいと感じます。
なんか、色んな部分で承認を求めている私がいます。
今までこんな感じではなかったのに。
自分という存在を、とにかく誰でもいいから知ってほしい。
SNS社会における自然現象なんでしょうかね。
30半ばにもなって、まさか承認欲求などというワードが私をこんなにも積極的にさせるとは、微塵も思いませんでした。
すごいねぇ、時代って。
でも、きっかけは本当に好きなものを好きなだけ、私のことを誰も知らない場所で吐き出したかっただけなんです。
最近、GReeeeNさんが好きになったけど、なかなかそれを共有する人がいない。
ときメモGS4ハマってるけど、これも近くに共有できる人がいない。
この辺りが、私の承認欲求の始まりだったのかもしれません。
ももクロちゃんに関しては、私はたくさんの仲間がいるんです。
SNSで交流もできる、そもそも家族がももクロちゃんを共有できますから。
でも、GReeeeNさんは家族と共有できないし、SNSもももクロちゃんアカウントなので共有しずらい。
ときメモGS4に至っては、ちょっと周りにハマってることを打ち明けるのは恥ずかしい。
noteに居場所を求めたのは、偶然この場を見つけたというのもあるけど、誰も知らない場所を求めていた、というのも理由です。
実は結構、私は家族になんでも話してしまうタイプで。
SNSに関しては、Twitterやフェイスブック、インスタにTikTokとメインのものは全て家族が知っているんです。
だから、隠れてコソコソとか、家族の悪口(笑)とか書きたくても、見られちゃってるから書けないんですよねぇ。
以前はブログもやってましたが、こっちも筒抜けですよ。
それ自体は全然問題ないんです。そういうものだと思ってましたし。
でも、やはり年齢を重ねて、子供もいて、となると、家族には言いたくないことも出てくるわけです。
身近なSNSだと全て筒抜けで、コッソリ毒抜きができない。
そこで私は、この居場所を偶然見つけました。
まだ初めて1か月くらいなんですけど、本当にnoteのことを知らなくて。
それこそTwitterでたまたま見つけて、飛んできてみたら、ここ良いかも、となったんですよね。
名前も、普段使っているものではないものにしました。
実は「キュイ」という名前、他で使おうと思ってたんですよ。
というのも、ときメモGS4の熱をどこかに共有したいあまり、ゲーム実況しようと思ってたんですね。
でも、普段の名前ではとても出せない。
そこで、新しいネームを考えたわけです。
結果的に、ゲーム実況を録るところまで進んでないんですけどね(笑)
いつもの私のやつですよ。まだそのタイミングじゃない、的なね。
まぁ、そこで使う予定だったこの名前を、私のことを誰も知らないSNS等で使って行こうと思ったんです。
だから、家族に共有していないSNSや投稿系は全て「キュイ」でやってます。
ただね、アイコンがね。結構一緒だったりするので、バレる可能性あったりね。
そこは、私の雑な部分が出ちゃってる感じですね。

身バレを身内にはしたくない、ということでコソコソやってるわけなんですけど。
だから、あまりnoteでは身内にバレる程ギリギリの情報は出さないようにしています。
なんで身内にバレたくないかというと、ここを私が毒抜きできるための居場所にしたい、というのが一番です。
後は、身内に「実はこう思ってたんだ・・・」とバレたくない。
でも、自分の考えや今までの私については、吐き出したい。
矛盾したような感じになっちゃいますが、まぁ、そこは緩くね。
自分と向き合うためにも必要なことです。
情緒保ってるのよ。というと大げさか。
でも、近い人には話せないことってありますよね?
ここは、私がそんなことを吐き出すための居場所です。
今回は、私を見つめ直す記事、ということでよろしくお願いいたします。

私という人間


私は、恐らく根暗の陰キャです。
今どきの言葉で言ってみました。
まさしく「陰キャ」。
正直言うと、陽キャには少しは憧れがありました。
というか、恐らく元々は陽キャに近かったはずです。
保育園、小学校時代の私は、自分で言うのもなんですけど、割とみんなと分け隔てなく仲良くできていました。
保育園は年長さんの時に今の地元に引っ越したんですが、引っ越しを見守ってくれるお友達が結構いたと思います。
小学校時代は、別記事に書いた初恋の彼は別として、結構モテてた(?!)し、友達ともワイワイ楽しくやってました。
まぁ、性格は恐らく訳の分からないちょっとヤバい子供だったと思います。
すいません、詳細は書けないんですけど、とりあえず、ちょっと変わり者でした。
内弁慶で、家では我儘、外面は良い。今もこれは変わらないかも。
でも、小学校卒業と同時に両親が離婚しました。
この離婚については、本当に理由がはっきりしなくて。
というか、もうハッキリさせるつもりはないんです。
どっちが悪いとか、今じゃ本当のことなんて分かりませんから。
ただ、一つ言えるのは、私はこの離婚はドッキリだと思ってました。
私が成人するころ、「実は離婚は嘘でした~!!」と両親から言われるんじゃないかと、勝手に思ってました。
まぁ、実際はそんなはずありませんでしたけどね。
思えば小学5年生くらいの頃でしょうか。
子供会の役員などで、近所の子供と家族ぐるみで仲良くなるわけです。
でも、それが離婚へのカウントダウンだったような気がしています。
そのせいで、恨む人間が増えました。
私が恨むことによって、恐らくその家族は勝手に崩壊していったと思います。
離婚後、中学生になりました。
私はここから、完全に人見知りになりました。
人の言動を気にして、周りを気にして、少し怯えていたと思います。
離婚しても名字が変わることはありませんでしたが、住む場所が変わりました。
もちろん、周りの友達は離婚したことも知りません。話してないし。
何かの流れで話したりはしたかもしれませんが。
でも、そのことで仲間外れとかそんなことはありませんでした。
私が自ら輪を外れていったんです。
中学1年。席の近い子と仲良くなりました。
でも、仲良くなった子の1人が、非常に正確の悪い子だったようでして。
私たちは3人でつるんでたんですが、ある先生のことを勝手にあだ名をつけてバカにしてたんですよ。
で、その1人が「●●まじやばくねぇ?」と先生のあだ名を言ったんです。
私は、そこまでその先生を悪く思っていませんでしたが、女子特有の同調意識によって「やばいねぇ」なんて話を合わせたんです。
そしたらその子が言うんですよ。
「うわ、自分のこと言っちゃってるわ」
・・・ん?自分のこと??
「え?どゆこと?」
私は思わず言いました。
その子は、ケラケラ笑っていました。
掃除時間のことです。
私はホウキを持ったまま、訳も分からず立ち尽くしていました。
私の・・・こと?
●●というあだ名は、気づけば私のあだ名になってたようです。
それから、下を向いていました。
その子やもう一人つるんでいた子と、近づくことができませんでした。
怖くて。不快で。意味が分からなくて。
近寄らない方がいいと思いました。
ただ、もう1人の子も同調意識で、その子に寄って行っただけというのは分かっていました。
でも、もうどうでもよかった。
私はこの子たちとは一緒にいれない。
そして、結果的には他の子と仲良くしていました。
そして中学2年。
この頃になると、私が仲良くしてた子たちが、なぜかどんどん不登校になっていきました。
何かした訳じゃなく、その子たちがなぜか自然と学校に来なくなったんです。
理由なんて全然分かりません。
学校に来なくても、私はお休みの日などに遊んだりしていました。
でも、学校では会えないので、他の子と仲良くしたりしていました。
学校の中では、不登校の子たちを悪く言う子もいました。
ここで、私は同調意識によって、その子たちを少し悪くいったこともあります。
女子ってこういうとこ面倒ですよね。
でも、学校生活を送るにあたって、私には最低限の友達が必要でした。
また、2年生の頃はちょっとしたトラブルに巻き込まれました。
3人でつるんでたんですけど、そのうちの2人がクラスの子の悪口や、変な想像相関図を書いた手紙をゴミ箱に捨てたようで、それを誰かが拾って見てしまったんです。
恐らく名前が書いてあったんでしょう。
給食の時間、私たち3人を見て、クラスの全員がヒソヒソと話をしていんたです。
ここで、私の悪い癖が発動しました。
ヒソヒソ話している人を見ると、私の悪口を言われていると思い込んでしまう癖です。
理由は分からないけど、私のことをみんなが悪く言ってる、と勝手に思い込んで、給食時間に思わず俯いていました。
そうすると、前に座る男子がヒソヒソ話してるんです。
「下向いてる。絶対そうだわ。」
私のことだ・・・!いや、これは確実に私のことを言ってたと思います。
でも、理由は全然分からないんです。
だって、給食の前までは、みんな普通だったんですから。
なのに、なんで急に・・・。
私は怖くなってしまいました。
午後の授業は3人で保健室に逃げ込みました。
そこで言いました。
「なんか、みんな私らの事見てなかった?」
他の2人は、どうやら理由を知っていたみたいで、手紙の件を話してくれました。
いや、何その手紙?私、知らんよ。
そうなんです。その手紙、完全に私はノータッチで、その2人がやり取りしていたものだったんです。
ようするに、私は勝手に自分のことを言われてると勘違いして、巻き込まれてしまったんです。
バカですよね・・・。
結果的にその翌日、学校に行けませんでした。
というか、私も巻き込まれて行けなかったんですよね。
午後かな?先生と話し合いになって。
クラスの誰かがどうやら先生にチクったようで、呼び出された気がします。
まずは、なぜこうなったのかを聞かれ、2人は正直に話します。
さて、あなたは?
そうなったとき、私も正直に言いました。
私は何も知らず、勝手に悪口を言われたと思って下を向いてただけだ、と。
先生、ポカンですよね。
いや、なら正直にそう言えば良かったんじゃね?みたいな。
私も思いましたよ。あとから思えば、私知らないんですけど、って言えば良かったのに。
でも、あの頃の私は、とにかく怯えてましたから。言えるわけがない。
結果的に、先生が私たちに謝罪の時間を与えてくれました。
さぁ、私はどうするのか。
2人は、手紙について正直に話し、頭を下げました。
私。
私も正直に言っちゃった。この手紙のことは知らなかった。でも、それを止めることができずにごめんなさい、と。
それでとりあえず話は終わり、次の授業は移動教室でした。
動けない私たちに、温かい言葉をかけてくれた友達がいました。
涙が出そうで、次の授業、結局出れなかったな。
まぁ、これで一応解決はしたんです。
そして中学3年生。
気づけば、その2人は学校に来なくなってました。
私はというと、友達に恵まれたためか、普通に学校に行っていました。
後からの笑い話で、「あの時、あんただけ知らなかったとか言うからズコッてなったわ」と友達から言われました。
そんな風に話せるくらい、私は元に戻れていました。
でも、やっぱり人見知りは消えなくて。
最後の中学校生活も、陰キャで終了です。
そして、高校時代。
もう、本当にひどいもので。
部活がなかったら、私は高校なんて辞めてたでしょう。
保健室通いして、早退して。部活仲間にも迷惑かけて。家族にも。
それも1年生の間だけでしたけど、きっと私、メンタル強いんでしょうね。
その中で1年過ごしましたよ。
2年生からはクラス替えで、仲の良い子と同じクラスになれましたので、まぁそれなりに楽しく過ごしました。
陰キャは変わらないし、地味で根暗でしたけどね。
部活がなかったら、本当につまらなかったし、通う意味もなかったかもしれません。
今でも部活の友達だけが友達ですからね。
本当感謝しかない。
そんな状態で、私は就職。しかも遠方に。
岐阜から箱根って。
泣きましたよ。配属を聞いたとき。
いや、おかしくね?って。
しかも、まだ車の免許取れてない、という謎の言い訳までして。
甘いねぇ、あの頃の私。そんなんで融通きかないよぉ。
まぁ、結果的に箱根に着いてすぐの歓迎会で一気に「ここで良かった!」と心変わりしましたけどね。
正直3か月で辞めると思ってました。
3か月経ってから辞めれば、少なくても退職金は出たので。
同期の子も、何人か辞めました。
でも、私、ビビりですから。
辞めるって言い出せなかったんです。あぁ、弱い・・・。
そんなこんなダラダラ続けてたら、私の部署のトップが休業してしまいまして。
その当時、2番手の先輩が妊娠中で辞める予定で、残るは私しかいなくて・・・。
入社2年目か3年目で、突然臨時のトップをやらされることになったんです。
ひよっこに何させるの!と思いましたが、がむしゃらに頑張りましたね。
自分で言うのもなんですけど、私結構仕事できる人だったので(笑)
結果的には上の人が入ってくれたんですが、相性が悪くて・・・。
タイミング良く部署移動になったので良かったんですけどね。
そこで私は天職に出会うわけです。
それは、「事務」。
元々商業高校に通っていて、事務は好きな方でして。
でも、この部署移動で、私は事務のお仕事がめちゃくちゃ好きになったんです。
小人数だったので、担当は「人事総務」でしたが、経理もやってたんです。
基本的にはサービス業なので、お客様のために働く、というのがメインなんですが、事務職は違います。
スタッフのために働く、という点が、私にはすごくやりがいを感じさせてくれました。
元々、人の役に立つ仕事がしたいとは思ってたんですが、こんな形で役に立てるなんて、とすごく嬉しくて。
3年くらいやったところで、元の部署に責任者として戻されるんですけど、やはり事務が良かったです。
最終的には退職となりましたが。
これはね。内緒ですけどね。
本当は責任者が辛くて、精神的にもしんどくて辞めたかったんですけど、タイミングよく実家の稼業を継ぐ、という話が舞い込んできましてね。
当時の彼氏もそれを了承してくれましたから、そっちを理由にスムーズに辞めれちゃったのです~。
というか、本当に私、上の立場とか向いてなくて。
部下の指導とか苦手で、絶対相性悪くて辞めてっちゃうんですよね。
だから、私が辞めて良かったと思います。
まぁ、私の後任も結果的に続々と辞めていったようですが・・・。
でも、この頃折り合いの悪かった後輩とは、今割と近いところに住んでるので、たま~に会ったりしてます。
この退職までの間、私は本当に陰キャでしたね。
職場でも結局、地味な人、という印象だったと思います。
ただ仕事だけできる人、都合の良い人って感じだったかもしれません。

子供が私を強くした


退職後、結婚、出産とトントン拍子に進みまして。
子供を産んだわけなんですけど。
私にはいわゆる「ママ友」はいませんでした。
そりゃ、8年ぶりに地元に帰ってきて、ママ友なんていませんよぉ。
当時は、今みたいに交流があまりできない、なんてことはなくて、バリバリ支援センターとかにママが集まるような感じでした。
でも、私はインドアでして。
しかも、子供がよく寝るタイプで、私自身も寝たいし、予定変えたくないタイプでして。
支援センターなんて言ったら、子供の昼寝のリズムが崩れるからいやだ!!という感じだったんですよ。
なんなら、ランチとかも嫌だという感じです。
子供に悪い事したなぁ、という気もしますが・・・。
やっぱり、幼馴染的な子がいた方が良かった気もしますので。
でも、丁度4か月になったころ、近所の支援センターに行ってみようと思い立ったんです。
妹もついてきてくれるというので、迎えに車を走らせたところ、事故るというね。
しかも、やられた側。
後少しスピードが出たり止まったりしていたら、私か子供かどちらかがヤバかったような事故です。
車の右側を、止まれを無視して何も見ないで普通に進んできた車にドカンとやられまして。
幸い、運転席と後ろの席の丁度真ん中の柱?的なところに突っ込まれたので、奇跡的に母子ともに怪我はありませんでした。
まぁ、母は眼鏡が吹っ飛ぶ程の衝撃だったので、腰はやられてますけどね。
チャイルドシートもきちんと装着していたおかげで、子供も無事でした。
たった4か月、しかもなったその日に事故って・・・。
もう悲惨でした。
それ以来、支援センターにはトラウマがあります・・・関係ないのにね。
結局その事故のせいで、支援センターに行けなかったので、ママ友云々ではなくなっちゃったんですね。
その後は、今の会社に事務として週何回か、子供を連れてお手伝いに行ってました。
元々事務員がいましたので、お手伝いです。
まぁ、この事務員が詐欺師のような感じの人でね。
結果的に、その翌年、辞めていったので、子供を保育園に入れて私が正式に事務員になったんですけどね。
この話はね、結構長くなりますのでスルーしますよ。
子供を保育園に入れることで、私のママ友生活はスタートするわけです。
もちろん、最初は話せません。
人見知りですし、すでに仲の良いママたちもいて、輪に入りにくい雰囲気もありましたからね・・・。
それに、保育園って、働くママなわけです。
特に未満児クラスは、下に子供が生まれれば退園になりますし、他の園に転園する場合もありますので、割とママ友関係がドライだったりするんです。
最初からママ友作りませんスタイルの方とかね。
ここで私は考えました。
私が孤立すると、この子も孤立するのでは・・・と。
特に、子供同士のトラブルなどがあった場合、孤立していると完全に危ないと思いました。
なので、人見知りで怖いけど、なんとか他のママに声を掛けてみたり、さりげなく会話に加わってみたりしました。
そしたらね、みんな人見知りっぽい感じだったんですよ。
全員ではないですよ?活発なみんなに話しかけるタイプの方もいますから。
でも、話してみると割とニコやかで、お話してくれるんです。
これが、私の人見知り克服のきっかけでした。

勇気を出して話して良かった


これまでの私という人間を見ていくと、とにかく地味で静かな一人が好きな人、という感じがします。
一人はもちろん大好きですよ。一人で映画とかカラオケとか行くの好きだし。自由ですからね。
でも、そんな私でも、勇気を出して声をかけたり、何かに立候補することで、自分、そんなに陰キャじゃないって思えたんです。
上の子、実は結構人気があって、お友達にもたくさん声を掛けてもらえます。
そのおかげか、先生たちも気さくに話しかけてくれて、私もリラックスしてお話ができるようになりました。
そして、下の子も生まれ、私も仕事をしていたので6か月から一時保育、0歳児から保育園に預けることに。
そしたらですね。4月入園、1人だったんですよ。
担任の先生も、上の子で一度担当してくださった方だったので、とても安心で。
それでなんのミラクルなのか、下の子、年長さんからめちゃくちゃ可愛がられまして。
むしろ、保育園全体ですごく可愛がってくれたんです。
いや、アイドルか、と。
だから、子供を連れて行くだけで、めちゃくちゃ囲まれるんですよ。
子供相手にも人見知りな私。してる場合じゃないというね。
途中で他の子も入園してきましたが、結構下の子はずっと可愛がってもらえて。
なんなら、1歳児になった今もまだみんなが声を掛けてくれるんです。
おかげで、年長さんのクラスのママからも声を掛けてもらえて、私もそれに応えます。
なので、人見知りとか言ってられなくなったんですよ。
それに、子供の行事やイベントなどで、色んな方と関わることも多くて。
ふと気づけば、私、ものすごい喋ってるんです。
今までは、一度打ち解けて、次会うときはよそよそしくなってしまう私だったのに、今は普通に対応できるというか。
そりゃ、「やっほ~」みたいなテンションは無理ですけど。
敬語でお話、というか、ちょっと緩めの敬語で話す感じで。
実際、上の子に関しては長くて5年、短くても3年の付き合いですからね。
自然とお話ができるようになっていたようで。
自分自身にも驚いています。
それに、私は子供のために保護者会に立候補までしました。
結果、保護者会の役員になったのですが、きっと昔の私を知ってる人なら、まさか立候補なんて!と驚かれると思います。
そういうのやるタイプに見えないと思うので。
そのせいなのか、割と話しかけてくれるママさんもいるし、もしかしたら私の雰囲気が柔らかくなったのかもしれません。
ツンケンしてる人って話しかけにくいですしね。
人見知りなりに、送迎のときの挨拶はにこやかに、など気を遣ってきたことが実を結んだのかもしれません。
子供がいなければ、私はこんな風にはなれませんでした。
きっと、陰キャが続いていて、地味なひっそりとした一人よがりな生活をしていたと思います。
自分で本当に驚いています。
私、変わったな。変われたな。
良かったな、と思います。
でも、今までの私に、後悔はありません。
辛い苦しい時もありました。「死」という文字がふざけて頭をよぎったこともあります。
でも、その時の私がなければ、今の世界には繋がっていませんでした。
あの時、箱根に行かなかったら、地元にもし残っていたら、自分自身が変わることはありませんでした。
結婚もしてなかったかもしれません。地元には私の元の姿を知る人しかいませんから。
私のことを誰も知らない土地に行くことで、私自身の殻を少し破れたのかもしれません。
そして、運よく地元に帰ってきて、またこの地に根を張ることができて、子供が生まれて。
私はまた一つ成長することができました。
そして、子供と一緒に、まだまだ成長していくんだろうな、と思います。
今も、人と話し慣れていないせいで、たまに失敗したと思うこともあります。
失敗しつつ、次気をつけようとポジティブに考えることができるようになったのは、私を強くしてくれた子供たちのおかげです。
変われる。私自身は変われるんだ。
今までの私を受け入れて、生かしていきつつ、新しい私になる。
これからも、毎日を楽しめる私でありたいです。

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