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性被害の解離から始まる人生『犯免狂子』エッセイ7万字強



めごめご

下腹部にくずぐったいような違和感を覚え、目を開けると真っ暗闇のなか、私のパンツの中で指先が蠢いていた。その手は右側で眠っているはずの父の方から伸びいた。お母さんと勘違いしているのかな。でも、お母さんのそこには毛が生えているよな。そうかお父さんは寝ぼけているんだ。ならその手を振り払ればいい。寝返りを打つフリをして左側で寝ている母の方に横向きになった瞬間、パンツの後ろを握り締められた。

背筋が凍り、お母さんを起こしてはならない気がして、なるべく静かに、でもなるべく素早く両親のキングサイズのベッドからどうにか抜け出し、咄嗟に寝室の斜向かいにあるトイレに駆け込むとレバーを下ろし「ジャーーーゴボゴボゴボ」と静寂を破る流水の音量に焦りながら、弟たちと共有していた三段ベットの中段、私の普段の寝床に入り「水の音でみんなが起きてしまいませんように」と願いながら目を閉じた。

翌朝、寝起きに「お父さんにめごめごしてもらったんだって?よかったねぇ」と母に言われながらギュッと抱き寄せられた。

両親

母は化粧してる時よりスッピンの方が美しい生粋の美人。パチっとした目と通った鼻筋で、ショートカットが似合う。お母さん似だったらよかったのにと、一重で父似の私は密かに思っていた。

両親は東京にある英語教室で知り合ったらしい。父はその後、個人経営していた自動車修理会社を売却した資金で、世界を放浪するバックパッカーとなり、旅先から数年間に渡って母に手紙を書き続けたという。

紐育に辿り着いた父はお金を使い果たし、もはやホームレス状態だったが、都心にあった日本食レストランの皿洗いとして雇われ、次第にウェイター、バーテンダー、マネジャーと出世した後に、母にプロポーズ。

母は片親の父から結婚を反対されたため、駆け落ちをしたという噂だ。身の回りの物と父からの大量の手紙だけを持って。段ボール一個分の手紙は本当にクローゼットの中にあったが、生真面目な母が駆け落ちとは意外な逸話だ。

南国でふたりだけの結婚式を挙げた両親の記念写真では、青い海を背景に白いウェディングドレスとタキシード姿で真っ赤なハイビスカスの首飾りをしているが、新婚夫婦にしては表情が固い。でも怒っているようにみえる母の表情からはむしろ彼女らしさが滲み出ているようにも思えた。

「ヒマラヤ山脈を染める朝焼けに感動して将来、娘を持ったら『あさひ』と名付けようと決めた」「お腹の中にいた頃はヴィヴァルディの四季をレコードで流して聞かせようとしていた」「生まれた時は一刻も早く友達に報告したかったけど、深夜だったから焦ったかった」などと父がよく語っていた。

多くは語らない母は一方で、元々子どもには興味なかったが、私が生まれると「自分の子どもは可愛いものなんだ」と思ったという。

約2年後に弟が2人生まれたが、両親にとって第一子は特に思い入れあることは隠そうともしていなかった。

育った家

私が物心つく頃には既に郊外の住宅街に越していた。当時、都心近辺の治安が最悪で、父もホールドアップに遭ったというほど子育てにも危険な環境だったため引っ越したそうだ。

家の庭で幼い弟たちが両足で立っている写真がある。彼らが1~2歳くらいの頃だろうか。

2階建て4LDKで地下室もある一軒家。前後にある芝生の庭には背の高い楓が一本づつ自生していて、小鳥の囀りが聞こえ、リスが走り回り、夏には蛍も飛んでいた。

悪夢と声

両親の寝室で寝るのは体調がすぐれない時だけになり、必ず母親を間に挟んでベッドの端っこに入ったが、暗闇の中、瞼の裏に映像が映り、目を開けてしまう。

またあの悪夢かとウンザリしていると「悪夢ならなんでふたりの間で寝ないの?」と挑発的な声が聞こえてくる。

言葉に詰まっていると、声は容赦無く語りかけてくる。

「だって、前はふたりの間で誰が寝るか弟たちと取り合いになってたじゃん。日本語学校の幼稚園で教わったジャンケンで決めようと提案して、勝った時はあんなに喜んでいたのに。なんで?」

しつこいし、うるさい。奇妙な声をかき消そうと、私はひつじを一匹づつ数えてみたりした。

そうこうしていると、両親の寝息に気づく……。また自分だけがまだ起きている。

役立たずなぬいぐるみ

ペルシャ猫のぬいぐるみ。自分の身長ほどあるそれは、おばあちゃんから送られてきた。

本物みたいに毛並みも立派で、腹の部分に単3電池を入れてスイッチをオンにするとニャ〜オニャ〜オと鳴く。

現地校の保育園の初日に抱えて行った。

血迷ってスイッチを入れたら案の定、鳴き声が教室中に響き、焦ってオフにした。盾のつもりだったそれ自体を隠したくなった。

電池入れの代わりに、どんなものでも隠せる深いポケットがあれば良かったのに。

もったいないという罪悪感はあったけど、以来それで遊ぶことはなかった。

嘘の芽

保育園か幼稚園くらいの頃、放課後に帰宅すると、真っ白い作りかけのケーキにラップがふんわり掛けられていた状態で、ダイニングテーブルの端に置かれていた。

思わず人差し指を突っ込んでホイップクリームを舐めたのも束の間、すぐに穴を見つけた母から険しい顔で問いただされ、とっさに「ううん」と言った。

パーン!と頬を思いっきり引っ叩かれ「嘘つきに育てた覚えはありません!嘘は泥棒の始まり!」と怒鳴られ、2階のウォークインクローゼットに連れられ、真っ暗の中に閉じ込められた。

初めてビンタをされこと以上に、母の反応にショックを受けた。

泣き喚きながら、ドアを少しだけ開けたけど、1階に戻っていった母の存在が怖くて出る勇気はない。でも暗闇も怖いので、電気のスイッチを手探りでつけた。

雑多なクローゼット内を見渡すと、棚の上に置かれた布の下から覗いていた画像が目に止まった。布を捲ると、裸に近い女性が苦しそうな表情でこちらを見上げている。同じような写真で埋め尽くされた雑誌が山積みになっていて、そのようなものを初めて見たにも関わらず、お父さんのだと悟った。

その瞬間、悲しい気持ちと涙がスーッと引いた。

私がやったことや言ったことが悪いことなら、お父さんがやったことや言ったことは?

あの時、お母さんは「よかった」って言ってたけど、お父さんが言ったことは「嘘」じゃないの?

母への絶対的な信頼が崩れ始めた。

お姉ちゃんでしょ

引っ越す前のご近所さんだった日本人家族には4歳と6歳年上のおねえちゃんが2人いて、優しくて美人で憧れの存在だった。

我が家に遊びに来てくれたある日、私と2歳下の弟が戯れていた際、私は弟の頭を壁にゴンとぶつけた。

「やめなさい!お姉ちゃんでしょ!」

4歳上のおねえちゃんの険しい顔。

ショックだった。おねえちゃんの前だから調子に乗って、自分にもっと注目してもらいたかったいただけなのに。

お姉ちゃんたちが帰った後、私は弟たちに初めて命令を下した。

「これからは『お姉ちゃん』って呼んで」と言い、それまでなんとも思っていなかった呼び捨てを禁じた。

大人の話

例のおねいちゃん達から無条件に可愛がられる無邪気な弟たちに混ざって遊ぶことができなくなっていた私は、

お母さんたちの会話を近くで立ったまま耳を傾けていた。

話題は男性アイドルから恋愛話に移っていったが、母は黙って座っているだけ。

私は会話に参加したくてウズウズしているというのに。

小学1年生の私は、同級生の男子ルークに片想い中で、タイムリーなネタも持ち合わせていた。

痺れを切らして「あ」と言った瞬間

「大人の話ッ!」

ピシャリと言い放った鬼の目に、背筋が凍った。

ゆっくりと後ずさりしたものの、他人の広い家で居場所を失い、その後の記憶がない。

初恋と屈辱


月曜日から土曜日は基本的に、自宅と学校の往復。

学校が終わる頃に母が迎えにきていて、一緒に歩いて帰宅。

私は母の家事や炊事などの手伝いをしてた記憶が朧げにある。

変わり映えのない日々だからか思い出が少ない。

そんなある日の帰り道、私はついに思い切った行動に出た。

母の目を盗み、迷子になったテイで、近所に住むルークの家に向かった。

ドキドキしながら、頭の中で何度もリハーサルした道を迷いなく進むと、家の前に彼がいた。

笑顔で私の名前を呼び“Pass me the ball”と言った。

私が持っていたボールを投げると、彼はそれをバウンスパス。

そういうパスもあるのかと閃いた瞬間、雷が落ちた。

振り向くと鬼相の母。

涙だけは流すものかと歯を食いしばった。

✴︎

「ルークが教科書、借りにきたって〜」

後日、母の呑気な声に対する苛立ちと、好きな人の前で怒鳴られた屈辱から、私は彼にそっけない態度をとった。

そんな自分が嫌いで嫌いで仕方なかった。

✴︎

ブーーーン

彼がよく近所を乗り回していた電動スクーターの音。

我が家の近くを通り過ぎるのが聞こえるたびに、胸がギュッと苦しくなる。

こんなにも近くにいるのに、一緒に遊べない。

私が意地っ張りだから悪いのかな。

でもお母さんが快く遊びに行かせてくれるなんて想像できなかった。

時計と九九

成績は悪くなかったというか、全体的に良い方だった。

宿題は授業中に終わらせたし「勉強」をした覚えがあんまりない。

「時計」と「九九」を除いては。

ッパァーン!

「なんでこんなこともわからないの?!」

いきなり頬を引っ叩かれた。

なんで分からないかなんて、分かるわけない。

「答えは?!」

理解できていない算数の正解を、顔を叩かれながら尋問されることで導けたら世話がない。

でも、それが私の母の教え方。

なんで怒られてるんだろう。

算数ができないことって、そんなに罪なんだろうか。

子どもの顔を、大人の大きな手で思いっきりぶっ叩くことは正解なのだろうか。

理解できないことばかり。

……ヒック……ヒック……

涙と鼻水を啜りすぎて、呼吸と体が勝手に痙攣。

こんなに惨めな音も体も止められない自分を恨んだ。

バン!

テーブルを叩きながら、何かに取り憑かれたような目で、容赦なく怒鳴り続ける母。

あぁ、私、この人に嫌われてるんだ。

そう思ったら、なんだか気持ちがスーッと軽くなった。

10才児の志望動機

平日通ってた現地校に友達と呼べる人はいなかった。

土曜の日本語学校には2年生から女友達が1人できたけど、遊べたのはせいぜい週に一回、放課後の数時間だけ。

弟たちは2軒隣の男子同級生の家を行き来して、毎日ゲーム。

普段は静かで冴えない男子がゲームの時だけキャーキャー騒いでいる。

私は家事の合間、男子を通り過ぎる度に心の中で呪っていたが、なんの効果もなかった。

早く大人になりたい。

大人になれば、話を聞いてもらえるし、やりたいことができる。

まずは絵本をほとんど捨ててもらった。

胸の辺りがチクッとしたけど、子どもっぽい物はこの際、邪魔。

大人と子供の違い......。

年齢は時間の問題だとしても、待ちきれなかった。

「お父さんの店で、働かせてください!」

父の足元で土下座をし、額を床につけた。

心がざわついたけど時代劇で見た侍を必死に真似した甲斐はあった。

10歳の誕生日の朝だった。

唯一学校のない日曜は毎週、朝から夜18時くらいまで働けることになった。

身長が足りない分は、レジの真下に台を置いたりして。

初日の仕事終わり、父から5ドル札を渡された。

お小遣い制度なんてなかったので有り難かったし、大人に一歩近づいた気がしたことが何よりも嬉しかった。

願いが叶っているはずなのに、日本語学校の友達が買い物にきた時はサッと身を隠した。

ローラーブレードのまま入店し、何かを買っていく後ろ姿が眩しかった。

ローラーブレードのままで怒られないんだ。

一人で買い物に行かせてもらえるんだ。

同級生なのに、別の世界に住んでいる人みたい……。

夕方になると客が引いて暇疲れしたけど、家にいるよりマシだ。

小4 友達や裏切り

春、日本語学校で小学4年生に上がった時、同じクラスの朋美ちゃんが話しかけてきて、放課後一緒に家で遊ぼうと誘われ、毎週土曜はどちらかの家で遊ぶようになっていた。何を思って私に積極的に遊ぼうと言ってきたのかは分からなかったが、私たちはすぐ親友になった。

朋美ちゃんの家は、私の父の店の近くにあった。その地域は元々ユダヤ人などが多く住む富裕層エリアで、日本の大企業から派遣された駐在員も多く住んでいる。朋美ちゃんの父親も一流企業で働いていて一時的に東京から来てるらしかった。父はこのような駐在員らを対象にコンビニサイズの日本食料品店を構えていたのだ。

朋美ちゃんの部屋に初めて入った時、箪笥の上に集められたぬいぐるみの多さに驚いた。かなりの頻度でねだり、許可が得られないとこの数にはならないはずだ。

朋美ちゃんは2つ年上の姉と色違いの服や小物も持っていることが多かった。本物のお姉ちゃんがいるなんて羨まし過ぎた。

遊びとしては、お絵描きをしたり、ビーズで人形を作ったり、お菓子を作ってみたり、交換日記をしたり、ほぼ家の中でできることを一緒に色々やった。些細なことも笑いが絶えず楽しかった。

私は笑わせるのが好きだった。
朋美ちゃんはぶりっ子なところがあり「朋美わかーんなーい」が口癖だった。


これは使えると思い、家に帰って真似してみたら「わかんないじゃありません!」と母に怒られた。

朋美ちゃんとは気が合うが、育ち方に根本的な違いがあることを思い知ることが多かった。

朋美ちゃんはお小遣いとして毎月20ドルもらっているとかで、私が父の友人からもらったことのある、ある年のお年玉と同額だ。

私には貯金が少しでもあったけどお金を自由に使わせてもらえず、無いに等しかった。貯金額をこまめにノートに付けると母に褒められたが、何かを買いたいと思ったら母の不満を受けてストレスなので、物が欲しいと思わないようにした。

朋美ちゃんの誕生日プレゼントには、自分の頭の中では「宝物」というテイで集めたガラクタを箱に入れ、包装紙を箱に貼ったものを渡した。

「お姉ちゃんがそれを見てスゴいねと言っていた」と朋美ちゃんは言った。私は褒められたんだと思って嬉しかった。

自分の誕生日になると朋美ちゃんから何故かアザラシのぬいぐるみをプレゼントにもらい、小さいカードには「HAPPY BIRTHDAY」と「朋美はかったよ」という言葉も添えられていた。その意味が分かった気がした瞬間、そんなことを書ける朋美になんとなく嫌なものを感じ、ぬいぐるみも好きになれなかった。

秋になって現地校でも小学4年生になると、フレドリック先生になり、記憶に残るほど学校が楽しいと思えた時期だった。女性の先生たちに多い大袈裟な明るさがなく、ドライなユーモアを時々いう落ち着いた雰囲気が好印象だった。くしゃみの時、皆みたいに「ゴッド・ブレス・ユー」ではなく「グズンタイ」とドイツ語を使う意味でも個性的だった。

私はいつからか、クラスの演劇に主演に抜擢されるほど成績が優秀で、金髪ストレートが腰まであるウクライナ系の女子リンジーを笑わせようとしていた。

彼女が「スタンドアップ(立ち上がれ)」「シットダウン(座れ)」「シットアップ(背筋を伸ばして座れ)」などと交互に言うと、私が飼い犬のように立ったり、座ったりして従いながら「シットアップ」のところで混乱するという、チンケなコントみたいなことが自然発生的に起きていた。

最初は周りにもちょっと受けていて、リンジーら一部の子から「ウィアドゥ」というあだ名で呼ばれた。「変なヤツ」「変わり者」という意味だ。

「今度、私の誕生日会に誘うね」と別のクラスメイトに言われたりもした。その子の自慢の誕生日会に私は誘われたことがなかったから、ついに仲間に入れてくれるのかと嬉しくなった。

ある日クラスのやんちゃな男子が「セックスって知ってる?」っていきなり聞いてきたと思うと、クルッと背を向けて、両腕を胴体の前でクロスさせ、背中に他人を装った指先が見えるような表現をし得意げに笑った。

もしかしたら、保健体育の時間、性行為について先生が話した際、私が「ペニスが抜けなくなったりしたらどうするの?」という質問を冗談でしたから、それに対する彼なりのレスポンスだったのかもしれない。

ある日、ベルが鳴ってみんなで教室を出る際、いつものようにふざけていると、頭のいい男子が鼻でフッっと私を横目に見ながら通り過ぎた。私は恥ずかしくなり、その日からふざけるのを意識的に控えていった。

4年生から音楽の授業として各々楽器を始めることになった。私はドラムがやりたかったたけど、ドラム志望にはやんちゃな男子や例の鼻で笑った男子がいたので気が引けた。私は無難にほとんどの女子が選ぶフルートにしながら、本当はドラムがやりたいのにと恨めしい思いを引きずっていた。

ランチの時間はカフェテリアのテーブルに女子は固まって座る。ある時から、私のフルートがケースからバラバラ落ちることが何度もあった。知らないうちに誰かが私のケースのロックを外しているしかなかった。警戒していたら、リンジーが私に内緒話をする素振りをしたので気を取られた。ベルが鳴ってフルートのケースの取手を持つと、楽器がバラバラと床に落ちた。女子たちが笑ってその場を離れていき、全員グルだったことに気づいた。

薄々気づいてはいたが、例の誕生日会への誘いも口約束だった。

剽軽なキャラだと馬鹿にされて舐められると悟り、陽気な自分を封印した。元の影の薄い自分に戻ったと言い張れないのは、その頃の記憶が殆どないからだ。

平日は毎日学校と家事の手伝いをしていたはずだけど、単調すぎて記憶がほとんどなく、土曜日の放課後の数時間だけ水を得た魚のように朋美ちゃんと遊んでいたが、このような日々にも終わりがきた。

小5年と6年、朋美ちゃんとクラスが別になった。相変わらず一緒に遊んだけど、朋美ちゃんは同じクラスの雅子ちゃんに急接近。雅子ちゃんはいつも同じ一張羅を着ていた印象だけど、黒いTシャツ、赤と黒のチェック柄のプリーツの短いスカートを黒い厚底ブーツとコーディネートが意識されているものだった。

更に朋美ちゃんと一緒に家へ遊びに行った際、雅子ちゃんのお母さんが「雅子はいつも模様替えしてるの」などと我が子を肯定的に話していたことに軽い衝撃と嫉妬を覚えた。

朋美ちゃんと同じクラスで、ファッションを楽しんでいて、お母さんが肯定的。羨ましい要素があり過ぎて、私は思わず「雅子ちゃんのこと嫌い」と朋美ちゃんに言った。すると、朋美ちゃんはそのことをわざわざ「雅子ちゃんに伝えた」らしく、そのことをわざわざ報告してきた。私は朋美ちゃんの意地悪さから不信感を覚えたのと、自分が素直に気持ちを言葉にできなかったことを悔やんだ。

中学 育ちの違い

中2の1年間、私は日本語学校に通わせてもらえなかった。理由は母が「PTAの役員をしたくない」から。私は泣きながら学校に行きたいと頼んだ。

代わりに送られてきた通信教育の書類は、私の気持ちが全く理解されていない証でしかなかった。私は週に一回でも友達に会えることが唯一の楽しみだったのだ。

中学3年に再び日本語学校に通えたけれど、一年間のブランクの大きさを感じるばかりだった。

高校受験のために日本へ帰国する家庭が増え、生徒数が急激に減って10人もいなかった気がする。

朋美ちゃんとの間に徐々に生まれていた溝が最も深くなった年でもあった。

それに途中から転入してきた大企業駐在員の女子たちと朋美が仲良くなり、私は自然と孤立していった。

髪の毛を色とりどりに染めたり、身につけるものも高級ブランド品が増えていく朋美たちとはますます隔たりが深まる一方だった。

私は気に入ったノーブランドの服でさえ、顰めっ面で付き添う母親に「変だよ」などと否定され、バイトで稼いで貯めたお金を使うのにも一苦労した。

日本語学校は中3で卒業し進学はしなかった。4年生から中1までの唯一楽しかった土曜日は、どう足掻いても帰ってこないことが分かったから。

現地校の夏休み中、私宛に電話があった。フランス語の授業で席が近くて会話の練習をしたことがあるのサンドラだ。

彼女は南米コロンビア出身で、スペイン語が母国語だけど、移民であることを忘れさせるほど英語も達者。

年上男性との関係について根掘り葉掘り語り、卑猥なギャグを連発しては独りでウケているので、私はつられて笑っていた。

そんなサンドラは母親の再婚相手である義父と確執があって、怒りを顕にすることも多々あった。ハロウィンの夜に外出を禁じられ、2階にある自室の窓から飛び降り、鼻の骨を折った状態でクラブへ遊びに行くほど反骨芯がある彼女を私は尊敬していた。

スリップノットやマリリンマンソンなどのメタル音楽の世界にハマったきっかけも彼女の影響だ。それまで朋美の影響でJPOPの流行を追っていたけれど、ヘヴィメタのように魂の叫びを代弁してくれることはなかった。

サンドラは徐々に登校しなくなり、最終的には退学したが、私は放課後、彼女の家に通い続けた。彼女は学校以外の人とも交流が多く、私の経験値を上げ視野を広げてくれる存在だった。

彼女を通じてコートニーという同級生とも仲良くなった。コートニーは田舎の方で暮らしていたが母親がアル中で貧困生活だったため、離婚した父親と祖父母に引き取られた経緯がある。映画のような波瀾万丈な幼少期の話を彼女から聞いていると、自分の人生がなんて平凡なんだろうと思えて、いくらでも聞いていられた。

そして17時頃になると必ず迎えにくる、母親の車が視界に入る度に私の全身はズーンと重くなった。

帰宅すると夕食の準備をし、一家揃って食事を終えた後は「もう暗いから」という理由で外出できないことが分かっていたから。

飴と鞭


14歳。私が法的な労働許可が降りる年齢になると、父の店の常連客のユダヤ人から「うちで働かないか」とすかさずスカウトされた。

養子にしたいと母に直談判したほど私の勤勉さをかっていたということはこの時まだ知らなかったが、私は二つ返事で引き受けた。

パーティ会場をデコレーションする仕事で、出勤は土日祝に増え、拘束時間も深夜にまで延び、休憩時間もなかったけど、父の店での暇つぶしより楽しかった。

元旦の深夜に帰宅して、母親のおにぎりを一口含んだ途端、涙がツーっと流れて、びっくりした。

でも実感のない空腹を無感情な涙に伝えられる切なさに浸ることはせず、鳴き声をわざと加えた。

「おにぎりが沁みて泣いている」芝居で母に媚を売っておこうという、ごく自然な計らいだ。

母はバイト時間において制限をかけることは一度もなかったので、

この抜け穴を最大限に活用しない手はなかった。

とはいえ平日の放課後は相変わらず、母親の手伝い。

だけど「飴と鞭」でいうところの「飴」もちゃんとあったから、

理不尽に怒られたりしない限り手伝い自体をさほど苦だとも思っていなかった。

例えば母は毎年、イカ2杯で塩辛を仕込んだのだが、烏賊の口(「トンビ」という希少部位)を味見と称して2つとも食べさせてもらっていたのは5人家族で私だけだった。

トンビの噛むほどに味わいが増すコリコリ食感は他の部位では決して味わうことができない唯一無二な味覚であり、これを食べられることは雑用係の特権だった。

弟たちが毎日近所の同級生とゲームをしていても、ご飯ができるまで優々とテレビを観ていても、私が自尊心あるいは優越感を保つことができたのは、このようなご褒美があったからだ。

美食家な家系

父方の祖母は元富山の料亭で育った。父の兄は板前。私が生まれてまもなく、東京に住む祖父母と伯父を父と訪れた際、鮪の刺身をペロリと食べる私を面白がってみんなで惜しみなく与えていたらしい。

父は日本レストランでキャリアを積んだ後、日本食料品店を開業した。「お前を飲兵衛にするのが夢なんだ」は父の口癖の一つだった。

お陰様で、海鼠の酢の物、鮑の肝、白焼、伊勢海老や車海老の刺身、蟹ミソ、白子、あん肝などなど、酒の肴のような物が幼少期の頃から好物だった。

隣の州にある高級日本食スーパーへ年に数回遠出した際、弟たちがお菓子を選んでいるところ、私は鰻肝2本入りのパックを選び、我ながら渋いセンスをしていると俯瞰していた。

板前をしていた父方の伯父が居候していた時期、6人がけのダイニングテーブルの定位置で、私の向かい側に伯父が座り、魚の食べ方を教わった。

伯父は魚の骨や皮の周りが一番美味しいだとか、鯛などお頭が大きい魚は目の後の肉やゼラチン質が旨いだとか、通な食べ方を逐一教えてくれた。私の魚の食べ方が綺麗だと父はよく感心していた。

母は結婚前は料理が得意でなかったらしいが、私が知ってる母は和洋折衷なんでも作れてなんでも美味しいと思うほど料理上手。ご飯が進む野菜中心のおかずが多い1日3食、たまのおやつや、誕生日ケーキも手作りだった。

刺身の盛り合わせ、寄せ鍋、すき焼き、河豚の鉄柵、鍋焼きうどん等、父もたまに得意料理を振る舞ってくれた。

外食は近所のチャイニーズレストランか飲茶くらいで一年に数回。コーラはピザをテイクアウトしたの時だけ。レストランでの飲料は水という暗黙のルールがあり、節度があった。

数年に一回訪れる東京の祖母や伯父が外食で連れてってくれたのは超一流店ばかりだったことは、大人になってから知った。

祖父とは広い公園で水彩画を描いた後に、純喫茶に行くのがお約束だった。

面識がある限られた家族の中で食いしん坊でない人は1人もいない。

「着る物はなんでもいいけど、食べる物は良いものを」というのは両親の共通の考えだった。

母は「どうせすぐ大きくなるから」とまだ小さい弟たちにMサイズを買うタイプ。私の服はほぼ、お世話になっているおねえちゃんたちのお下がり。嫌だと思ったことは一度もなく嬉しかった。ただ思春期になって気になった流行りの服を試着してるだけで母に批判され、自由に買い物ができなかったのは辛かった。

オシャレな服に飢えていた分も、食べ物で満たそうとした。

メニューに値段表記のない高級レストランに連れてってもらった。ドレスコードがありブレザーを着て行った。ほら、着る物も大事じゃんと矛盾を感じた誕生日の席だった。

毎晩、腹を下す

毎晩父が帰宅し、7時頃には一家揃って一斉に合掌し、元気よく「いただきます!」と言ってから頂くのが日課だった。

戦後ひもじい想いをした父の話や、今も飢えに苦しみ、餓死する子供たちが世の中に大勢いる話を何度も聞いた。

肋骨が浮き出た状態で、うずくまっている幼女の背後でハゲワシが狙っている「ハゲワシと少女」という有名な写真がある。私はこの子をいつも想い浮かべていた。

あの子と比べたら、自分は恵まれている。

だから、不満を感じるのは罰当たり。

あの子の分まで食べるつもりで、八十八の過程を経てご飯になった米をひとつ粒残らず、有り難く頂いた。

「食べさせ甲斐のある娘だ」と、父は私を褒めた。

ご飯を何杯おかわりしても、怒られたことは一度もなかったし、炊飯器のご飯が足りなくなることもなかったので、底なし沼のように食べ続けた。

合掌して元気よく「ごちそうさまでした!」というと、

2階のトイレに駆け込み正露丸を飲むのも日課だった。

なんでお腹を壊すまで食べてしまうんだろうと便器の上で毎晩のように考えた。

私は細身なので、痩せるために嘔吐する「拒食症」でないことは確かだ。

ご飯が美味し過ぎて「痩せの大食い」だから仕方ない、と腹痛が治る頃には同じ結論に至っていた。

現地校で初めての友達

中2になって、現地校にようやく友達ができた。

現地校の夏休み中、私宛に電話があった。フランス語の授業で席が近くて会話の練習をしたことがあるのサンドラだ。

彼女は南米コロンビア出身で、スペイン語が母国語だけど、移民であることを忘れさせるほど英語も達者。

年上男性との関係について根掘り葉掘り語り、卑猥なギャグを連発しては独りでウケているので、私はつられて笑っていた。

そんなサンドラは母親の再婚相手である義父と確執があって、怒りを顕にすることも多々あった。ハロウィンの夜に外出を禁じられ、2階にある自室の窓から飛び降り、鼻の骨を折った状態でクラブへ遊びに行くほど反骨芯がある彼女を私は尊敬していた。

スリップノットやマリリンマンソンなどのメタル音楽の世界にハマったきっかけも彼女の影響だ。それまで朋美の影響でJPOPの流行を追っていたけれど、ヘヴィメタのように魂の叫びを代弁してくれることはなかった。

サンドラは徐々に登校しなくなり、最終的には退学したが、私は放課後、彼女の家に通い続けた。彼女は学校以外の人とも交流が多く、私の経験値を上げ視野を広げてくれる存在だった。

彼女を通じてコートニーという同級生とも仲良くなった。コートニーは田舎の方で暮らしていたが母親がアル中で貧困生活だったため、離婚した父親と祖父母に引き取られた経緯がある。映画のような波瀾万丈な幼少期の話を彼女から聞いていると、自分の人生がなんて平凡なんだろうと思えて、いくらでも聞いていられた。

そして17時頃になると必ず迎えにくる、母親の車が視界に入る度に私の全身はズーンと重くなった。

帰宅すると夕食の準備をし、一家揃って食事を終えた後は「もう暗いから」という理由で外出できないことが分かっていたから。

お泊まりは「この前したでしょ」と許可がなかなか下りない。

門限を破るようになると、帰るたびに母親から長時間の説教とビンタを食らった。

頬を叩かれる度に、同じ映像が脳裏をかすめた。

昔から「悪夢だ」と思っていたけど、もしかして私が体験したことの記憶.......?

そう思ってしまう節があった。

でも万が一そうだとしたら「墓場に持っていく」と、顔をぶたれるたびに決心が固くなった。

永久家出が叶う

楓の大木が自生する芝生の庭に建つ、地下つき4LDKの2階建て一軒家で育ち、物理的には恵まれた面も少なくなかったが、母の過保護・過干渉・罵倒・体罰なども日常茶飯事。

「自由の国」で暮らしていることが皮肉なほど息苦しく、どう足掻いても神経がすり減る一方の日々にようやく転機が訪れた。

21歳。

私が頑張って応えようとしてきた「日本人像」が砂上の楼閣だったことに気づく。

ニューヨークタイムズ・ベストセラー “The Rape of Nanking: The Forgotten Holocaust of World War II(邦題:『ザ・レイプ・オブ・南京:第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』)”を読み、日本の加害者としての歴史の詳細を初めて知った。

大日本帝国による戦争犯罪には、幾重にも衝撃を受けた。

軍人たちが侵略したアジア諸国で、幼児から老婆まで輪姦して市民を大虐殺。

731部隊(疫病対策を目的とした医務および浄水を代表するライフライン確保を目的とした部隊)が裏では、生きた人間に人体実験などし細菌兵器を開発。

しかも冷戦中、アメリカとの裏取引で大勢いの軍医らが免罪になり、日本の医療業界などに天下りして現代に至っている。

日本人としてのアイデンティティが、私の心中で音を立てて崩壊した。

それほど衝撃的なのに、同時に点と点が結ばれてゆき、妙に腑に落ちることが多かった。

現地校の保育園で、人種差別の歌「チャーニーズ・ジャパニーズ・インディアンチーフ」を白人の同級生に唄われたこと。

父親がいきなり中国人を小馬鹿にした発言をすることがあったこと。

母親がとつぜん韓国人に対する軽蔑的な言葉を使ったりしたこと。

人種差別発言に悪気が感じられず、面白いことを言っているつもりのようなところ。

私の発言に「そういうとこアメリカ人っぽいよね」と母や日本語学校の友達からイヤミを言われてきたこと。

「日本人はそんなことしません」と、私の行動を母が否定すること。

現地校の中学で「あなたが日本人だから友達になりたくない」と面識のないアジア人生徒が言っていたとのことを、別のアジア人生徒から聞かされたこと。

“Japanese imperialist invasion” という単語は教科書で見たことがあったので、日本の帝国時代の侵略を指しているんだなとピンときた。

でも色んな国が侵略戦争を起こしていたし、住んだこともない先祖の祖国の昔のことを私にどうしろと?と嘲笑った。

けど理屈では理解できない、その想定外な執念深さへの驚きはその後も、心の奥で引っかかっていた......。

欧米に対しては過剰なコンプレックスを抱き、うわべでは謙虚さを装いながら実は非常に自惚れていて、少しでも異論を唱える者は同じ日本人でも仲間外れにし、他のアジア人のことは当然のように見下すことで無意識的に優越感に浸る。

この劣等感とナルシシズムの塊ともいえる歪な国民性は、日本の歴史的加害の免罪と忘却とタブー化よって助長されているよう。

そしてその影響は、異国の現代社会に生きる私個人にまで及んでいた。

私は仲間と認識してもらうために、身近な邦人の言動を見よう見まねしてきたが、孤独になる一方だった。

私はこの因果関係を知らなかったため、原因不明の苦しさを覚えてきたのだと初めて理解でき、ずっと疑問だったことも肯定された気がした。

日本人としての誇りを持ちながら、嫌味や体罰で「日本人らしくない人」を否定する言動自体、日本人という以前に非人道的じゃない……?

もっと広い世界を観たいと幼い頃から切望していた私はこんなことも思った。

加害の歴史も知らずに被害国へのこのこと行き、先祖の仇だと言われて首を締められたとしたら、訳もわからず相手を恨みながら死ぬかもしれない。

でも、その動機に少しでも共感できたら、自分の先祖が犯した罪を、代わりに子孫としてせめて謝罪することができるかもしれない。

そもそも知識と共感力を持ちながら生きるのと、全く無知で無神経なのとでは相手と交わす言葉も態度も関係性も変わってくるはず......。

平日は現地の保育園から義務機を経て短期大学にまで通学し、

土曜は保育園から中学卒業まで日本語補習校に通い、

私は比較的恵まれた教育環境にいる自負があったのに。

日本人は「教育熱心」なんていわれるれど、誰ひとりとして、加害の歴史を私に教えようとしなかったのが一番の衝撃。

広島・長崎に原爆を落としたことを知らないアメリカ人はいない。

ナチスのホロコーストは否定することの方がタブーで、聞いたことがない人に会ったことがない。

現地校ではアドルフ・ヒトラーが歴史上最も残酷な人だと教え込む。

ならば人体実験の極悪な機密情報をソ連に渡すとアメリカを脅迫し、免罪符を得てしまうほどの手札を切れた石井四郎はどういう位置付けになってしまうのだろうか。

「丸太」扱いされたのがアジア人ではなくユダヤ人だったら、南京虐殺や731部隊を知らない人はいないと断言してもいい。

歴史は勝者によって作られる。

日本の教育は一体どうなっているのだろう。

今日に続くアメリカ先住民や黒人迫害の歴史を、米国でまともに教えないのと似た感覚なのだろうか。

被害や誇れる部分だけを強調し、加害の歴史を矮小化し反省せず、幻想の中で愛国心を唱える風習は万国共通のようだ。

でも私は、ご近所様とその先祖に、多大な迷惑をかけたことを全く知らず、土足のまま家に上がらせてもらうのは恥ずかしい。

私は白人が大多数であるアメリカの国籍を持ち、英語も母国語だけれど、見た目から常にアジア人扱いされ、その中でも日本の独特な教育や文化の恩恵と損害を受けてきた日本人の子孫。

生まれ育った国や地域で生涯を遂げ、外界との交流が最小限の人は世界中にいるが、幸か不幸か私にはその道が最初からない。

出身地や生い立ちとは関係なく、世間からは主に日本人的要素を注目され、日本のことを世界中の人から聞かれる私は、先祖の祖国のことを包括的に知らない訳にいかない立場にある。

急遽、東京にある大学への進学に向けて舵を切った。

母が反対しなかったのは意外だったが、安心材料が揃っていたからだろう。

渡航先は彼女の母国、進学が目的で、滞在先は父方の両親宅。

晴れて、実家から脱獄する念願も一石二鳥で叶った。

過保護・過干渉な両親

地球の反対側まできたとて、母の基本姿勢は変わらず、電話やメールで攻撃は続いた。

貯金と奨学金の他バイトをいくつも掛け持ちし、学費も生活費も全て自分で賄っていた。

それでも母は私の選択する科目にまで文句を言ってきたので、自分のことを徐々に話さなくなった。

日本の政治学が専門の教授と出会い、私は政治を専攻。

保守派の一大政党が、歴史教科書から戦争犯罪の内容を隠蔽し、

憲法9条や教育基本法などの改定を企み、

あの手この手で再び戦争ができる国にしようとしてきた経緯を学んだ。

しかも官僚や政治家や大企業に忖度して重要な情報ほど報じない記者が多く、市民は知る機会が少ない。

危機感を覚えた私は、教育基本法改悪反対のデモに参加したり、

憲法9条を守る勉強会や政治の討論会などの課外活動をしたり、

日本外国特派員協会(FCCJ)の学生会員になったり、

外国人記者のフリーランス通訳として個人事業を開業したり、

米新聞社の日本支局でインターンをしたりした。

初の通訳は奇しくも、南京大虐殺を全否定する映画の監督のインタビュー。

ホロコーストを否定するドイツ人を見つける方が難しい。

対照的に、南京大虐殺などを否定する日本人が一定数いて、知らない人も大勢いることが一番の悲劇だと改めて痛感した。

自由研究では、先住民のアイヌ民族、穢多・非人と呼ばれた被差別部落民、

本土の捨て石にされた沖縄や米軍による人権侵害などについて調べた。

声が届きづらいマイノリティの課題を深掘りする度に、当事者以外には複雑で分かりにくい壁に直面した。

そして自分自身も「女性という最大のマイノリティ」であることにハタと気づき、

ズンと心身が一瞬重くなったが、その感覚に留まることは避けた。

大学4年生になって、卒業所要単位として選択できる授業が限られるうえ、

尊敬する教授が一年間のサバティカル休暇に入ってしまい、魅力的な授業がなかった。

卒業証書だけのために、全財産の70万円を使い果たしてしまうのは、

身が引きちぎられる思いだったが、母は援助してくれる訳でもなく否定するだけ。

日本ではバイトを禁じている学校があるからなのか、

学費は親持ちで、生活費の仕送りまでしてもらう大学生が少なくないと聞く。

親から自立するため、学校以外の時間は仕事で埋めてきた私には無縁の世界。

それに米国の大学などと異なり、日本の大学は入学が難しく、卒業が比較的に簡単だから、遊びに走る学生が多いのだとか。

日本では有名な大学というわりに、授業の質は学費の額に見合わず、

真面目に学ぶために自腹を切って海外からわざわざ来てる私からすると、

「通い甲斐がなくて迷惑している」と毒づいた。

「季節性鬱(SAD)かもしれない」と毎週通っていた大学の心理カウンセリンセラーからは言われた。

冬は確かに苦手。南国の常夏生活なら幸せを感じられるのだろうか。

悩んだ挙句、一学期だけ休学(休学するだけで10万円くらいかかった)。

沖縄に約2ヶ月間滞在し、冷静に考えた末、退学届を提出した。

知らない世界を見たいと私が幼い頃から切望してきたのは、

元バックパッカーの父が世界を放浪した数年間の話をよく聞いていた影響もある。

「世界一幸せな国」ブータンに行けば、幸せというものを感じることができるのだろうか。

高校3年の時、世界一周クルーズのPEACEBOAT(ピースボート)の存在を父が教えてくれた。

乗船できるほどの貯金は蓄えていたが、母に反対され、仕方なく短大に進学。

興味深い授業が多く、脱獄への鍵となった運命の洋書と出会うきっかけにもなったので後悔はしていない。

でも今度こそ、ずっとやってみたかったことに自分で稼いできたお金を使ってみたい。

たまたま訪日していた父に退学届の話をした。

すると後日、父が退学届を停止させたことを事後報告された。

父に打ち明けてしまった自分の詰めの甘さを後悔した。

仕方なく、やる気を感じられない教授の授業を受け、単位だけ取得。

私の意に反してまで卒業を望むなら、交換条件として経済的な支援を親にさせるべきだった。

でも短大の頃から、成績を保つことで受けられる返済不要の給付型奨学金で賄っていた。

学費を頼むどころか、自発的に家賃を毎月入れていた。

少しでも一人前の人間として扱ってもらいたいという打算からだが、そんなに甘い話があるわけなかった。

「これが本当に最後の親孝行だ」と自分に言い聞かせながら、形だけの卒業式に出た。

PMDD疑惑:母みたいなDV女に豹変

「遅い!なんでもっと早く帰ってこれないの!?」

大学4年の頃、彼氏のYと出会ってから数ヶ月後、私の日常的な罵倒やパワハラ加害が始まった。

「私と仕事どっちが大事なの?!」

かつてトレンディードラマで聞き、子ども心にダサいと思ったセリフが自分の口から出てくるとは。

「誰のお陰で今の仕事ができてると思ってるんだよ?!」


バイト先のひとつであった蕎麦屋の助っ人としてYを誘ったのは私。

Yは毎日出勤してトントン拍子で正社員になり、生き生きと仕事をしていた。

ただ拘束時間が長い立ち仕事のため、帰宅する頃には疲れ切ってずっとゲーム。

出会いたての頃のように一緒に散歩する気力も残ってないYに私の不満は爆発。

反省して謝って泣き崩れるも、またすぐに怒りが勃発する。

取り憑かれたように怒り狂う自分は、まるで母のよう。

気づくのに時間はかからなかったけど、ショックで受け入れ難かった。
お母さんみたいには絶対ならないとずっと思ってきたのに。

私は大卒一年後、蕎麦屋のバイトを辞め、都心のオフィスで外国人向け英字雑誌から業務委託を受け編集アシスタントや翻訳・通訳をしていた。

蕎麦屋は家族経営で人情味があり、賄いも美味しかったけど、女性は結婚して夫を支えて子育てをして一人前という暗黙の空気が窮屈だった。

一方で国際色豊かで個人主義な社風の編集部には、すぐに馴染めた。

仕事にやり甲斐を感じ、イライラも軽減してきたと思った矢先、

Yから「退職したから引越し先を急いで探して」と言われた。

突然のことに驚いたが、Yからしてみれば私から受けいた2年間半の罵倒に耐えられなくなったのだろう。

Yがやり甲斐を感じ、職場での人間関係も良好だったので、嫉妬はしていたが、辞めてほしいとは思っていなかった。

まさか辞めるとも思っていなかったのだが、それほどまでにYを追い詰めてしまったことに気づき、

私の罪悪感と自責の念は益々重くなる一方だった。

蕎麦屋まで自転車通勤できる距離にあった男性社員宅の一部屋を借りて同棲していたが急遽、都心の賃貸を私名義で借りた。

この男性社員の目線や言動が気持ち悪かったので、その家から出られたことは良かった。

それでも、怒りの衝動は収まらなかった。

Yがなぜ私と別れないのかも謎だった。

怒り方が母親そっくりだったので、自分の女性性に問題があると考えた。

女性ホルモンが生理周期によって変動する関係で情緒不安定気分になる月経前不快気分障害(PMDD)が原因だと踏み、婦人科に行った。

私の推測を鵜呑みにした男性医師から、目当てだった保険適用の低容量ピルYAZを処方してもらった。

「副作用はありませんので」と自信に満ちた男性医師の言葉に驚きつつ、聞き流した。

避妊目的で低容量ピルをとっていた親友が中学の頃から副作用に悩んでいて、

血栓による死亡リスクがあることも知っていたので、私はそれまで飲むのを躊躇してきた。

でも怒りをコントロールするために、背に腹は変えられないと腹を括ったうえで受診していたのだ。

ある日、SNSの迷惑メールのインボックスに気づき開いてみると、香港の大手メディア会社から台湾支局での正社員として求人が来ていた。

英字雑誌で私の名前を見て、通訳及び新規事業の発足チームの一員として連絡してきたらしい。

その頃、福島原発事故による放射能汚染が蔓延し、爆心地に近い東京では安心して食べられるものが限られ、ノイローゼになっていた私は日本から早く脱出したかった。

年齢的にワーキングホリデー最後のチャンス。

中国語圏で「親日派」と言われる台湾が第一候補だったが、キャリアが義勢になることを懸念していたので、正に渡りに船。

面接を受け、二つ返事でオファーを受けた。

仕事が決まったことをYYに伝えた途端、離れ離れになることに気づき、泣いてしまった。

Yはそんな私を優しく支えてくれた。

Yはいつも優しすぎる。

約2ヶ月後の年明けから台湾勤務が始まった。

待遇は良いが仕事は無駄にハードだった。

慣れない業務の他、指示が下手なのを棚に上げて部下に文句を言う上司から猥褻な発言がチャットで送られてくる。

私は唯一英語と日本語ができる者として上司の通訳も兼ねて雇われていたが、あまりにも理不尽なので承諾を得て降りた。

家にいる時間はベッドに横たわり、Yと会話が終わった後も、生活音からお互いの存在を感じられるように、ビデオ通話を長時間繋げながら、私は毎日涙を静かに流していた。

入社約1年後、これまでに経験したことのない酷い偏頭痛が数ヶ月続いていた。

仕事中に偶然「YAZを服用し急死する女性が続出」と伝えるニュースを発見し、

自分の症状と酷似していたので、服用を辞めたら頭痛はすぐに引いた。

当時、私は社会的には成功していたはず。

なのに、後悔と虚しさしかないことに向き合わされた。

このままでは早死にしても、死にきれない。

生き方を根本的に変えないと。

正しいこととして教わってきたことをアンインストールして、潜在意識を塗り替えないと。

自然治癒力を促す代替医療に趣をおいた生活習慣の改善や、

潜在意識に働きかける古今東西の精神治療を手当たり次第に試し始めた。

🧠🌱🧘☕️🫖

潜在意識を塗り替える精神治療

漢方・ヴィパッサナ瞑想編

思い返せば、低容量ピルは気休めにはなっていたけど、怒りのコントロールができていた訳でも鬱が緩和した訳でもなかった。

台湾に越した後、Yに怒ることは一時的に減ったけど、私はひとりの同僚男性から「あの人はああゆう性格だから」と言われていた。

どうやら私が「馬鹿なんじゃないの?」と漏らしたらしい。

覚えてないが、確かにその同僚のことを無能だと思ってイライラしていたし、私が嫌っていることは上司も知っていた。

全員ではないが、他の同僚男性にも上から目線で強い口調になっていた。

致命的な副作用のリスクもある西洋医学の強い薬とは対照的に、

東洋医学の漢方は効いているのか分かりにくい印象があった。

けれど、何かを服用していないと不安でたまらなかったので、藁をもすがる思いで漢方を始めた。

台湾では漢方薬局がそこら中にあり、会社を通じて健康保険に入っていたので通院は安価にできた。

漢方医は私の手首を指で軽く抑えて心拍を測り、舌の状態を確認し、1週間分の漢方を処方。

問診だけでなく、体の状態をちゃんと確認したうえで、私に合わせた薬を調合してくれたことに感動した。

案の定、怒りや鬱への即効性はなかったけど、生活習慣が必然的に改善されたのには驚いた。

1日3回食前に白湯と飲むという処方だっため、仕事が忙しすぎて疎かになっていた食事を意識して取るようになった。

宅食サービスで1日3食分を配達してもらい、規則的な食生活を取り戻した。

次に挑んだのが、ヴィパッサナ瞑想。

10日間、毎朝4時から夜9時まで(朝食、昼食、午後の喫茶、夜の法話以外)ひたすら瞑想する合宿。

スマホは初日に没収され、会話をすることも、目を合わせることも、メモを取ることも、本を読むことも禁じられている。

ヴィパッサナのことを初めて知ったのは5年前。

大卒直後、貯金が尽きても世界を見るという夢を叶えるために、ボランティア通訳としてピースボートに乗船した際。

瞑想リトリートには興味をそそられたけど、まとまった休みが取れたら、娯楽・現実逃避に走りたくなるのが人情。

私も国内外を飛び回ってきた。

でも地球を一周してみても結局、心の奥底で暗くて重い何かが悶々としているのが浮き彫りになる一方だった。

今いる場所からは一時的に逃げられても、自分自身からは一生逃げられない壁にぶち当たった。

ならば自分の中に潜るしかない。それには瞑想しか考えられなかった。

いざ予約をしようとしたら、人気なため空きが出るまで待たなくてはならなくて、イライラした。

事務局からのメールの結びに“be happy”とあり、喧嘩を売ってんのか!?逆撫でされた気分。

待つこと約60日間、瞑想合宿への扉がようやく開いた。

会場は台中の自然豊かで静かな場所。

薄暗い広場に他の参加者と座りながら、私はうたた寝ばかりしてしまう。
寝てばかりでは意味がないじゃないかとツッコミながら睡魔と闘う。

朝と昼は白米と味の薄い野菜のスープなど。夜はフルーツとお茶。

毎晩ある法話の時間が唯一の楽しみだったが、ミャンマー(ビルマ)訛りの英語が聞き取りづらく3割くらいしか理解できない。

束の間の休憩時間、近くに座っていた白人女性が、よく文句を言ってきた。

「ヴィパッサナは素晴らしいとサイクリング仲間から噂に聞いてきたけど、退屈」

その人は9日目の雨が上がった日に飛んだ。

私は絶望の末、無二無三で挑んでいたし、幼少期の退屈さに比べたらなんてことなかった。

閃きもあった。

ある日、片目から涙が出て驚いた。

無感情だったので、あくびのときに出る類いだろう。

とにかく手で拭う衝動を抑え、ゆっくりと頬を伝っていく肌の感覚を観察した。

涙はすぐに拭いたり啜ったりしてきたけど、流しっぱなしにしたら、どうなるか今度やってみよう。

不信もあった。

質問がある場合、古参の瞑想者(アシスタント・ティーチャー/AT)と面談ができる。

「私は、現在と過去の怒りが掛け算になって、肥大化した感情のコントロールが効かなくなっていると思うんですが、これも無常で、いずれはなくなったりするのでしょうか」

そうですと想像通りに答えたATの言葉を私はどうしても信じられなかった。

マイクロドージング編


台湾支局でリストラにあったのは入社2年半目のこと。

31歳の時で、9歳以来の初無職。

ようやく仕事も板についてきてやり甲斐が感じられるようになっていたけど、心も体も悲鳴を上げていた。

夏でもダウンを着込まずにはいられないほど私にはクーラーが効き過ぎた極寒オフィス、

夜勤が数ヶ月ごとに回ってくる24時間体制のシフト、

ミーティングや締め切りが1日に何度もある多忙なスケジュール、

猥褻とパワハラ発言が多い上司複数人ともおさらば。

私はこれを期に台湾で最も美しい海岸があると言われる花蓮へ向かった。

ある4人家族との再会も兼ねて。

彼らとは台湾で初めて行われたバーニングマンのディコンプレッション※で出会った。

※バーニングマンはアメリカ・ネバダ州ブラックロック砂漠で毎年1週間ほど開催される祭典。

ディコンプレッションは、バーニングマン終了後、参加者がその経験をそれぞれの地域や国に持ち帰り、振り返るイベントのことをいう。

現代社会のアンチテーゼ的要素を含むバーニングマンは、私が小学生の頃から憧れていて、死ぬ前に一度は参加すると決めている自己表現の実験場。

ディコンプレッションでは流石に同類の人が多い印象だったけど、私は一人遊びをしていた。

私が登っていた木から落ちそうになったのを助けてくれたのがZというアメリカ人男性で、台湾人女性Dとの間に男女の幼児がいた。

「ルーシー

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