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「困った人」がじつは「困っている人」である場合

▼とても「困った人」が、じつはとても「困っている人」である場合がある。もし、この連環に気づくことができたら、目も当てられないようなひどい犯罪を予防できる場合もあるかもしれない。

▼小児科医の熊谷晋一郎氏が、「当事者研究」をテーマにして〈「困った人」から困っている人へ/「免責」して深く知る〉という見出しのコラムを、2019年5月15日付の毎日新聞に書いていた。

最近立て続けにひどい事件が起きているから、見出しを鵜呑(うの)みにする人がいると困るので、いちおう断っておくと、熊谷氏のコラムは大量殺傷事件を起こした容疑者の弁護や擁護を目的としていない。

▼熊谷氏は、当事者研究を進めると、〈研究の結果、困った人だと思われていた人が、実は誰よりも困っている人だったと気付くことも珍しくない〉と述べる。

たとえば、薬物依存などの当事者が、自分と社会との関係を「知りたい」と思い、当事者研究に取り組むと、その副産物として「楽になる」ことがあるという。

ここで肝心なことは、「楽になりたい」から研究するのではなく、「知りたい」から研究する、というところ。

ということは、当事者研究は、当事者が「免責」を目的としているのでも、「楽に生きたい」という心を原動力にしているのでもない。

以下のくだりを読むとよくわかる。適宜改行。

〈依存症の女性を支援する「ダルク女性ハウス」と協力を重ねてきたが、女性の薬物依存者の多くは重度の虐待を経験しているという。

当事者研究によれば、過去の嫌な記憶の想起を避けるために、現在と未来だけを見るために薬物を使うのだという。

薬をやめた後に蓋(ふた)をしていた過去が襲ってくる。

薬をやめることは回復ではなく、否定してきた過去や等身大の自分とどう手をつなぐかという、回復過程の幕開けなのだ。〉

▼いわゆる「フラッシュバック」だ。フラッシュバックに襲われながら、過去の自分や現在の自分と、どう「手をつなぐ」のか。それがとても苦しい道のりであることは、想像できる。どれほどの苦しみなのかは、わからないが。

▼熊谷氏は、「自立」とは「依存先を増やすこと」だ、と訴えている。この場合の依存は、薬物依存の依存ではない。

人が自立するためには、他人が必要なのだ。「自立」=「他人に依存しなくなること」といった、視野の狭い「常識」、みすぼらしい「自立」観、貧しい「人間」観、浅はかな「生命」観を浮き彫りにするところに、熊谷氏の研究の価値の一つがある。

▼周りから見て「困った人」とは、なるべく関わり合いたくないのが人情である。その「困った人」が、じつは何かにとても「困っている人」だった場合、すぐに思い浮かぶのが「困っているのは自己責任だ」とか「はやく自立しろ」とかの言葉だ、という人もいるだろう。

そうした極私的な「人情」を土台にして、「自己責任」論を振りかざして生きる人だらけになった社会は、「自分は強い」と思い込んでいる人や、思いたがっている人が多い社会かもしれないが、「強い社会」ではない。

この社会が「攻撃性」を増すか、「包摂性」を増すか。生きにくくなるか、生きやすくなるか。けっこうな正念場を迎えていると感じる。

(2019年6月4日)

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