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『感情表現』が苦手な理由が、わかったかもしれない。

彼女に何度か指摘されたことがある。

「アヤトくんの感情がわかんない」

こういうことを繰り返し言われるということは、僕が外からみて本当に感情の薄い人間だと思われているということだろう。

「あんまり好きじゃないんだと思ってました、人と話すの」と後輩に言われたこともある。

「乙川くんって、人に興味ないでしょ?」
これは先輩の言葉。

でも実際は喜怒哀楽は激しいし、他人のことは気になりすぎるし、気になりすぎるゆえに話すことは大好きだ。

それが表に出ていかないだけ。

でも近頃、その理由がわかった気がする。

それは簡単に言うと、僕がこうして文章なんか書いているせいだった。


文章を書く、という行為は一筋縄ではいかない。

僕の場合、いくつか気をつけている点もあるし、賢さを誇張し、読んでいる人に尊敬の念を抱かせ、僕の思考を植えつけるために、難しい言葉や言い回しを使ったりすることもある。

書く内容にしてもそうだ。

シンプルに「まじでうまい」で済むものを、「風味が際立っている」とか「口の中にひろがる」とか「この濃厚さ、まるで牛一頭をすべて凝縮したがごとし」とか言ったりしなくてはならない。


要は、カッコつけているだけだった。

意思表示をするまえに、どうしてもワンクッション挟みたくなるのだ。

『このままだと安直だな』
『つまらんやつだと思われたくないな』
『どんな言い回しなら、この人を支配して、僕のためにお金を稼いでくるように仕向けられるだろう?』

たぶん、文を書く経験が多ければ多いひとほど、この手のメンタルブロックは蓄積していく。

自分のなかで、『工夫のない表現=存在価値の消滅』という式が成り立ってしまっている。


工夫をサボったぶんだけ、体がどんどん透明になっていく。

次第に人から目を向けられることが減っていき、まるでその場にいないかのごとく扱われるようになる。

例えば電車の座席なんかに腰掛けていても、僕の上に座ってくる人がある。

「あの、すみません。重いんですけど……」
僕は膝の上の重みに耐えかねて、そう告げる。

しかしその人はなんの反応も示さない。

「この重み、まるで牛一頭をすべて凝縮したがごとし」

僕がそう言うと、その人は僕の存在に気づき、びっくりしてどいてくれた。

工夫しないと、そんなことになりかねないのだ。


だから僕と関わる人には、申し訳ない気持ちが尽きない。

感情の見えない相手とつきあっていくのは、さぞ気味が悪いことと思う。

ごめんなさい。

でも僕はそれくらい、文を書いていたいのです。


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