#死
そこにばあちゃんは居なかった
ばあちゃんは、よお草むしりしとる人やった。
「おらがやらなんだら草ばっか生えてどんならん」
そう言って、家の周りのどこかで草むしりをしていた。
玄関を出ればどこかに必ずいた人が
今はどこを撮ってももういない。
気付いたら泣きながらカメラのファインダーを覗いていた。
でも、ばあちゃんはずっと俺の中にいるなぁと。
ありきたりな言葉って、本当にその通りだからみんな言うんだろうな、と。
た
両の手を力一杯ずっとずっと振る伯父さん
写真は母と母方のばあちゃん。
今日は母方のばあちゃんの四十九日です。
まさか、父方と母方のばあちゃん二人立て続けに逝ってしまうとは思いませんでした。
母方のばあちゃんは数年前から体調が悪かったので、覚悟はできていました。
だから、楽になれたのかな?という安心感もあるにはあります。
この時に写真を撮っておいて良かったという気持ちの一方で、もっと前から写真を撮っておけば良かったという後悔もあ
あの時嗚咽したのは哀しかったからじゃない。懐かしかったから。
こんばんは。
ばあちゃんの死などを機に、地元に戻ってきた奴です。
そのことについてはこちらのMagazineを。
日々、生きる活動
「生活」
をしていてふと気づきました。
ばあちゃんの死を受け入れられていることに。
死顔を拝めなかったことや、最後のありがとうを骸にさえ伝えられなかった無念は別の感情としてあるんですが...
毎日泣く、ということがなくなったんです。
僕の生活と、感情