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川上弘美さんの『溺レる』を読んで、僕を名字で呼んでいたあの人のことを思い出した。

僕のことを名字で呼ぶ女性と、かつて「深い仲」になったことがあっただろうかということを考えている。

僕のことを名字で呼ぶ女性、というより、「僕のことを名字で呼ぶくらいの関係性」である女性と、言った方がいいかもしれない。

とにかく、僕を「ヒラノさん」と呼ぶ女性と「深い仲」になったことがあっただろうか、と考えて、あ、いた、と思い当たった。

あれは、とても、とても、かなしい恋だった。

片思いではなかったけど、僕たちは「恋人」ではなかった。

あれは僕たちの想いがほんのわずかにすれ違っただけだと、そう思っているのは、僕だけなのかもしれない。

だとしても、それを死ぬまで信じ続けたい、そんな恋だった。

僕は彼女を名前で呼び、彼女は最後まで僕を「ヒラノさん」と呼んだ。

そこに、どんな「距離感」があったのか、ということを、ぼんやりと考えている。

そこには、僕が「好きな人を名字で呼ぶこと」に対してイメージするような「よそよそしさ」はまったくなくて、どちらかと言えば、「切実さ」みたいなものが含まれていたと考えてしまうのは、あまりに都合のいい解釈なんだろうな、と思いながら。



川上弘美さんの『溺レる』を再読した。

本当に大好きな短編集で、今回も、あらすじがどうとか、主人公たちに対する共感がどうとか、そういうものは脇に置いて、ただただ、川上弘美さんの文章をうっとりしながら読み耽った。

ふたりの関係に対して傍観者でいようとするだめな男たちと、そんな男の思惑を横目にそれでも「深い仲」になりたいというつまらない女たちの話を、僕は、ただただ、うっとりしながら読み耽った。

少なくとも、彼女たちの未来が明るいものではないことは、誰の目にも明らかだ。

だけど、彼らはともかく、彼女たちは、それを分かっていながら、それでも、その関係性を恨めしく思うのではなく、いまこの瞬間が過ぎさっていくことを慈しむことを選んでいく。

本書を読み進めていくうちに、彼女たちは、一様に、深い仲になりたい(なりたかった)相手を、名字で呼んでいることに気がつく。

メザキさん。
モウリさん。
ナカザワさん。
ハシバさん。
サカキさん。
ウチダさん。
トウタさん。

そこに、僕は、「ヒラノさん」がなかったことに、心の底から安堵し、同時に少しだけ残念に思った。



ここで描かれる恋は、「あの人を思うだけで毎日が輝き出した」という類いのものではまったくなく、むしろ、他人からは「え。」と引かれてしまう、もしくは読者が主人公の友人なら「まじでやめときなよ、あんなやつ」という類いの、薄暗い関係性だ。

だけど、僕は残念ながら、もうまさに、それこそが恋なのであって、いや、違うな、たとえそれが恋なんかじゃないとしても、僕はそういうものに「溺レて」生きてきたということは間違いないわけで、だから、恋人に「わたしのどこが好き?」という質問にまともに答えられなかったかつての自分を全力で擁護したい気持ちでいっぱいだ。

人は人を、「どこかが好き」で、好きになるわけじゃない。

「うかつだった。私は、サカキさんの中にある恐怖に気がついていなかった。むろん、気がつかなかったのではなく、見ないようにしていただけなのだろうが」(「百年」より抜粋)

ふたりの関係性を傍観しようとする男は、実はふたりの未来が怖いからだ、と、そうやって、この物語の主人公は男たちに「逃げ道」を用意する。

僕が今でもこの短編集に「溺レて」しまうは、かつての僕には用意されなかった、そんな逃げ道が、この作品を読むことで取り戻せるのだと、どこかで信じているからなのかもしれない。

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