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川上弘美さんの『このあたりの人たち』を読んで、はたして川上さんは「あざとい不思議系女子」なのかを考えた。


先日放送された『あざとくて何が悪いの?』の、「不思議系女子」を取り上げた回はなかなかの傑作だった。

南海キャンディーズ山ちゃんとクリーピーナッツDJ松永を虜にする一方で、田中みな実に「こういう子に浮気されるのが一番イヤだ」と言わせ、弘中綾香にも「合コンに一番いてほしくないタイプ」と恐れられる、不思議系女子。

皆さんのまわりには、いますか?

大学のときには割りと普通にいたような気がするし(でもってマニアックな男子人気を獲得してた)、社会人になっても初期の頃はそんなに珍しい存在ではなかったと思うんだけど、そういや、最近はほとんど見かけない。

でも、それは今の僕の視界に入ってこないだけで、多分、今でもすぐ近くにいて、相変わらずまわりの男子にちやほやされているのだと思う。

そういや、高校や大学の友人にそういう不思議系女子にめっぽう弱いやつがいて、でも、まだ、当時は「あざとい」という言葉は浸透してなかったから、僕も横からチラチラ眺めながら「ちょっと可愛いかも」なんて思ってたな。



と、まあ、なんでそんなことを考えているかと言えば、川上弘美さんの『このあたりの人たち』を読みながら、川上さんは「天然」なのか、それともそれを装おっている「あざとい女」なのかが、まったく分からないなあということを改めて思ったからである。

川上弘美さんの小説を読んでいると、「この人、ふざけて書いてるのかな」と思うことが多々ある。

でも、ただ単にふざけてこんなこと書いてるだけだとしたら、まず編集者が許さないだろうし、何より読者が「ふざけんな」と寄り付かなくなるはずだ。

そして、もしこれを大真面目に書いているのだとしたら、それは天然にもほどがあるし、反対に、これがすべて綿密に計算された作風であるならば、それは「あざとい」ということになるのだろうけど、誰も彼女をあざとい作家だとは言わない。

今日の僕は、ちょっと意地悪に、それは川上さんが大作家になってしまったから、誰もあざといと「言えない」だけなんじゃないかなと考えてみたりしている。

そうか、そうか、川上弘美は、「あざと女子」だったか。



ということを念頭に、もう一度、最初の掌篇「ひみつ」を読み返してみる。

わすが四ページの掌篇で語られる、少食で聞き上手でへんな踊りをおどる「こども」と語り手の30年間の物語に、ぎゅーっと胸が締め付けられる。

もうその時点で僕は、川上弘美さんがあざといとか天然とか、心の底からどうでもよくなっている。

小説を読んで、その物語世界の住民になりたいと思うことは少ないのだけど、鬼の顔をしたおばさんが営む「スナック愛」や、六人家族ばかりが住む公団住宅や、豚の蠅を用いたギャンブルが行われる丸じいの賭場のある「このあたり」の町には、ちょっとだけ憧れを感じた。

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