ORIAI
読み切りの掌編、短編をまとめています。
愛があったはずの場所に、空白地帯が増えていく。 在日韓国人三世の私は、そのままの自分を受け入れてくれたと初めて思えた扇谷太一と出会い、結婚する。二児をもうけ、穏やかで満たされた日々を送っていた。自らのルーツを嫌悪し隠していた私は、夫の姓を名乗り、アイデンティティについて考えなくていい、逃げきれた……つもりだった。 結婚から十年。かつては何でも話せたはずの太一に、言葉を内側に押し留めていることに気づく。二人の間に空白地帯が増えていく。寂しさとやるせなさを抱えていた。 そんななか、かつて一緒に仕事をした女優が大麻所持で逮捕される。彼女は、在日朝鮮人三世だった。SNS上は集団リンチのようなヘイトが起き、私は「血」について向き合うことになる。 本当は何を太一に、「わかってほしい」のか。 日本社会と接続できない主人公が、自分の居心地のいい場所にするために、太一とわかり合いたいと、葛藤する。
読んだ本の感想文を綴ります。
自分の身に起きたことがありふれていても、その傷みは、自分だけのものだ。 「わかる、わかる。私もおんなじやから」 クラスメイトからかけられた言葉のかたまりが、さくらの体内をめぐり続けていた。そのかたまりは、受け止めることも、かといって受け流すこともできずに浮いたままで、収まるところがない。さくらの体は、異物として認識したみたいだ。 休み時間の記憶を再生する。 同じだよ。そうやって励まそうとしてくれたことは伝わってはいた。あの場では、うまく笑顔を作れたと思う。笑ってしま
自分の家が特殊であることを知ったのは、いつだったのだろう。 美蘭は、在日朝鮮人三世だった。在日朝鮮人といっても、日本の統治時代の朝鮮半島に、一世がどの地域に暮らしていたかによって韓国系と北朝鮮系に大きく分かれる、といったことを母から聞いたことがある。美蘭は前者で、さらにその中でも、民族性を強く主張することはないグループだった。 「民団」と呼ばれる日本に定住する在日韓国人のための団体があるが、あるということを知っているだけで、そこが主催するイベントに行ったことは一度もない
エビ、なす、さつまいも、かぼちゃ、しいたけ、れんこん、ちくわ……きつね色の衣をまとった揚げたての天ぷらが、ステンレスのバッドに並んでいく。薄く覆われた衣が食材の存在を引き立て、なすとさつまいもは紫色に、エビは橙色に、しいたけは焦茶色に、その明るさが増している。 「お母さん、天ぷら揚げるのうまいよね」 美蘭はさつまいもを一切れつまみ、口に入れる。 「こらミカ、座って食べなさいよ」 「揚げたてが、おいしいんだもん」 「天ぷらはね、衣を作るときの温度がポイント。薄力粉と
【あらすじ】 舞台は、ドラマ『冬のソナタ』を機に韓流ブームに沸く2004年の東京。 大学3年の星山美蘭(ほしやまみか)と速水優一郎(はやみゆういちろう)は、つき合い始めて2年が経つ。同じゼミに所属し、周囲公認のカップルである。美蘭は、韓国からの留学生のヤン・ソユンとの会話をきっかけに、在日コリアンである自分の出自について思い巡らせるようになる。ただ、優一郎にも友人にも、外国人である自分について話せないでいた。一方の優一郎は、就職後のことを見据えた同棲を提案するが、美蘭の態度は
拝啓 お母さん。 40年かかってしまった。ほんとうの恥を知るのに。ほんとうの恥を、やっと知りました。 全身が赤くなって消えたくなる。なんて形容はなまぬるい。周囲の目が気になって、うつむいて、小さくなっていたものは恥でもなんでもなかった。身をひそめて怯える必要なんて、なかった。 日本には、「恥を知れ!」だとか、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」だとかの言葉があるよね。 「それは、恥ずかしい言動です」と、恥ずかしがることをいろんな方向から強いてくる。第三者からの目線で恥
まぶたと眼球の間を、羽虫がせわしなく動き回る。鼻腔にも数匹が迷い込んで、飛び回る。定位置にあるはずの目と鼻が、定まらない。 頭全体がぼーっとする。不快で、わずらわしい。 きた、マスクをつけていてもなのか。 空気の冷たさはまだ冬のそれなのに、からだの異変で、春の訪れを感知する。 ん? 違うな。そもそも季節はずっとずっと前からそのままあって、冬とか春とか、あとからやってきた人類が、言葉を授けた。名前があるから、季節にも、明確な境界があるような気がしているだけ。 ゆった
あの日の中で、もっとも記憶しているのは、カフェでの出会いでも、ほこりっぽい夜のプノンペンのまちでも、陽が昇るまでお互いのことを話し続けたことでもない。 夏の夜に見た、冬を代表する星座。その特別な煌めきは、時間を経た今も、色あせていない。 外に出ると、雨季の気だるさと熱気がからだにまとわりついた。 一人で入ったカフェを二人で出たことに、透子は急に照れくさくなった。清人のうしろを歩き、一列になる。 清人は、何回かこちらを振り返った。前にいながら、透子の歩みを気にしてく
一目惚れした経験は、あとにも先にも、透子はこの一度だけだった。 「春樹じゃなくて、龍のほう?」 ナイトマーケットの喧騒に馴染まない、澄んだ声が飛び込んできた。 久しぶりに耳にする日本語で話しかけられた透子は、椅子の背もたれから上体を起こした。読んでいた文庫本から、視線をあげる。 直球どストライク。 安直すぎる言葉しかどうやっても見つからないほど、透子の好みの顔が現れた。 その距離、テーブルを挟んで一メートル。手脚が長く180センチ近くありそうな背丈に、小さな顔が
すぐに謝る人を、透子は信じない。 それが、どれだけ致命的な失敗や罪であっても。むしろ致命的であればあるほど、相手への謝罪によって全責任から解放されることを、自分に赦してはいけないんじゃないか。 透子は、すべての葉が落ち、針金のような枝がむき出しのまま天に伸びる桜の樹をぼんやりと眺めた。鉛色の厚い雲に、空はその姿を完全に隠している。 公園内ですれ違う人たちは、ウールのコートにマフラーとまだ冬の装いだ。 あのときも、まだ冬の寒さを引きずっていた。 ちょうど二十年が経っ
パンデミックの混乱がまだ続くなかで、東京オリンピックが開幕した。 緊急事態宣言下で、無観客は人類史上経験がない。盛り上がりのない五輪とは異例だし、もはやスタート同時に後始末するような何かに思えた。ここまで来てしまったら、あとは開催が大きな感染拡大につながることなく、無事に終わってほしいと願うしかない。 国立競技場で行われる開会式が、もうすぐ始まる。テレビ画面をNHKに合わせた。夜の都内上空を写すライブ映像が流れる画面の前で、お風呂から上がった葉と銀が裸のまま動き回
ヨンエさんはアイスコーヒーを、私はアイスカフェラテを買い、南新宿に向かって歩く。「代々木上原に近づこう」と、ヨンエさんが私の自宅方面に向かう格好になった。 行き交う人にぶつからないように、時々前後に位置を変えながら並んで歩く。陽は高いが、湿度は低くて空気がカラッとしている。 トータルで四時間に及ぶインタビューを隣で聞いていたヨンエさんの感想を、まずは知りたかった。 「どの話が、ヨンエさんの印象に残っていますか?」と私は尋ねた。ヨンエさんはアイスコーヒーの入ったカ
インタビューは佳境に入った。 「二ノ宮さんの家族形態に批判的な人たちの存在を、どのように受け止めていますか?」と私は聞いた。二ノ宮は、落ち着きを纏ったままで答えた 「夫婦別姓の法案ですら、認められない人がいる。直接的には批判しないにしても、こういった新しい家族形態を受け入れ難い方もいらっしゃいます。正義の反対って正義なんですよ。そういう方には、僕たちが楽しく暮らしている日常の風景を見ていただくのが一番だと思うんです」 「日常、ですか」 「『血のつながりなんて
私は前回と同じ席で二ノ宮と向き合い、「どのような体制で、三人で子育てをされているんですか?」と尋ねた。 「僕と彼女と子どもたちが同じ家に暮らしていて、週に二回〜三回の決まった曜日と時間にリュウちゃんが来ます。上の子が生まれたばかりの頃は、リュウちゃんのタイミングで好きにうちに来てくれたらいいよ、としていたんです。でもそれだと、僕たちもアテにできない。リュウちゃんも役割が決まってないから、居心地が悪そうでした。だから今は、月曜と木曜の朝はリュウちゃんが上の子を保育園に送っ
東京都を中心に過去最悪の感染者急増となるなか、五輪の開催まで一週間を切った。ある世論調査では、中止や再延期を望む人は7割を超えた。首相が意気込んだ「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証としての開催」は、すでに敗北していた。 緊急事態宣言下に、国内外の一般客を会場に入れず、大会参加者の行動も制限する異例のかたちで開かれる。 二ノ宮への二度目の取材で、再び新宿二丁目のオフィス周辺に来ていた。都心に来てみても、およそ八年前に招致が決まり準備されてきた祝祭が迫っている熱気
太一が銀の保育園への送迎を終えて、戻ってきた。どちらが言い出すともなく寝室へ移動した。吹き込んできた風に運ばれていくように、ゆっくりと唇を合わせる。 私は麻のノースリーブワンピースを脱いで下着姿になり、ベッドに入る。 Tシャツを脱ぎ上半身が露わになった太一から、男の汗の匂いがした。鼻の奥がつんとする。男子運動部の部室に入ると充満している、むせ返るようなあれを水で薄めたような匂い。気分が良くなるたぐいの香りではないが、太一の匂いであると思うと愛おしさが私を包んだ。刺さ
折り畳み傘を広げて、ヨンエさんと新宿駅まで歩く。新宿一帯に人が増えてきた時間なのか、並んで歩くことが難しく一列になった。 ヨンエさんは、雨の街中も、細身のパンツを合わせたパンプスで大股で歩く。私は急ぎ足で追いながら、二ノ宮から聞いた話を振り返った。 なぜ、あえてカミングアウトするのだろう? 二ノ宮や、ゲイやレズビアンの人たちのような、しようと思えば自分のアイデンティティを隠し通すことができるのに表明する姿勢は、眩しくもあり、長く疑問を抱いてきた。多数に馴染まない