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環 -めぐり-  #02

 一目惚れした経験は、あとにも先にも、透子はこの一度だけだった。
 「春樹じゃなくて、龍のほう?」
 ナイトマーケットの喧騒に馴染まない、澄んだ声が飛び込んできた。
 久しぶりに耳にする日本語で話しかけられた透子は、椅子の背もたれから上体を起こした。読んでいた文庫本から、視線をあげる。
 直球どストライク。
 安直すぎる言葉しかどうやっても見つからないほど、透子の好みの顔が現れた。
 その距離、テーブルを挟んで一メートル。手脚が長く180センチ近くありそうな背丈に、小さな顔がのっている。
 大きすぎず小さすぎない一重まぶたの目と、直線的なラインがすっきりと通った鼻。快活そうな口。日に焼けた肌に、旅の間にくすんでしまった白いTシャツが似合っていた。
 透子は鼓動の音が外に漏れてしまわないよう、小さく会釈した。ぬるくなったアンコールビールを手にとって握り、時間をかけて流し込む。
 「異国での出会い」に、「タメ口で話しかけられた好みの顔」が加わったとき、浮足立たずにいられる人間なんているのだろうか。
 落ちつけ、透子は自分に声をかける。下くちびるに残ったビールを親指でぬぐった。
 タバコを吸いたかった。
 テーブルに置いていたマルボロライトの箱に手を伸ばすも、今吸えば煙でむせることが予想され、やめた。
 透子は、しゃべり出すまで数秒の間をあえてとり、そっと深呼吸をした。
 そんな一連のうちに、男は透子のテーブルに座って店員を呼んだ。
 物怖じしない目の光を放ちながら、おそらくクメール語で何かを頼んだ。注文を終えたあとに、ふっと緩んだ口元は優しいベールをまとっていた。
 同い年ぐらいのはずなのに、落ちついていて洗練された振るまいだった。この国のクメール語を使ったところに、美しさと誠実さのようなものを抱いた。
 (吊り橋効果よ、しっかりして!)内なる透子が警笛を鳴らす。透子は、警戒レベルを引き上げた。
「春樹さんも読みますけど、龍さんが好きですね」
 感情を込めずに、返した。
「俺も、龍さんのほう。春樹さんの主人公は、いつもクヨクヨしてるというか、気骨がないというか、物足りないんだよね」
 男は、幼なじみのような気安さで返す。
 この、泰然としていながら少年っぽい雰囲気は、演出なのか。警戒しながらも、透子はおくびにも出さない。
「龍さんのエッセイも読みます? 今年の春、私はハバナに行ったぐらい好きなんです」
 手元の『海の向こうで戦争が始まる』の巻末に、著者の作品のリストが挙がっている。それを眺めながら、透子はできる限り淡々と言った。
 男はハッとしたような表情を一瞬してから、透子にまっすぐな視線を向けた。身を乗り出すようにテーブルに手をついて、顔を近づけてきた。キスされるのかと思い、透子は肩をうしろに引いた。
「ほんとうに? キューバに行ったの?」
 男の声が、はしゃいでいる。
 透子は恥ずかしさに襲われながら、首を縦にゆっくり下ろした。
 「プノンペンじゃなくて、ハバナで出会ってたかも。オレも、春に行ったよ」
 男は、卓球のピンポンを返すように小気味よく話しながら、「見る?」と続けた。
 透子は、困惑したまま目だけで続きを促した。ハバナで出会ってたかも。男の声で反芻する。
 男は、何も入ってなさそうに薄いネイビーのリュックサックを探る。取り出したのは、A4サイズのスケッチブックだった。
 コロニアル様式の建物に囲まれた住宅街で、ダンスを踊る老女たち、海岸線を走るレトロなアメ車とカップル。カフェでくつろぐ住人たち。ハバナのまちと人たちが、何枚もデッサンされていた。
 男の細長い指が、ピアノを奏でるようにスケッチブックをめくっていく。
 緻密ながら疾走感ある筆致に、吸い込まれそうになる。モノクロなのに、カリブ海の青や陽気なラテン文化が鮮やかだった。
 「すご……」透子は、心を整理できないまま感嘆した。
 男は、「ね! すごい偶然」と全身でうなずいた。
 顔の真ん中に行儀良く座るツンとした鼻を少し上に向けて、上下の歯を見せた。笑うと、左の頬だけえくぼができる。
 ナイーヴな愛くるしさと、猛々しさが同居する。もっと、絵を見せてほしかった。
 透子は、この熱帯気候の夏の気温よりも、もっと高いものが体内に灯ってしまったことを感じていた。わずかに漏れ出す関西弁のイントネーションにも、親近感が生まれていた。
 「出身は、関西ですか?」透子は話題を変えた。
 「いや、広島の呉じゃけえ」
 男はふざける。
 透子は、少しがっかりした。男は、言葉を重ねる。
 「でも京都の大学に通っていて、関西人に囲まれているよ」
 「えぇ? 大学どこですか?」
 今度は透子が、身を乗り出す。
 透子の口から、自然と関西のリズムが漏れていた。男は公立の芸大の名前を挙げ、大学の近くで一人暮らしをしていると言った。
 透子の通う大学から、自転車で行ける距離に住んでいた。
 透子も男も大学二年だった。一浪して入ったのも、同じだった。
 異国での偶然の出会いに、好みの顔。
 そこに、読んでいる本、年齢、家が近いが重なったときの回答は、決まってる。
 こんな出会い方、こんな重なり方ーー。
 内側で警笛を鳴らすもう一人の透子に、白旗をあげた。
 雑踏ですれ違う見知らぬ人の中に、将来の恋人がいるかもしれない。そんな冒頭で始まる香港映画のタイトル、なんだったっけ……。
 「キューバでも、カンボジアでもなく、烏丸通りですれ違ってたかも」
 透子は、両手で頬を包むように頬杖をついてから笑った。異国での高揚が、透子の気を大きくさせていた。
 「え」
  男は形のいい目を見開いたまま、固まった。
 「え、えぇ」と繰り返し、「うそでしょ……」とマジックのタネ証しを見抜いたように喜んだ。
 透子が目を少し伏せながら微笑んだのと、男が目を合わせてふんわりと笑ったのは同時だった。
 からだが熱い。必死に抑えていたが、内心の動揺は表情に出ていたに違いない。
 アンコールワットが中央に描かれたビールの瓶が、テーブルに運ばれてきた。
 男は、受け取ったビール瓶を持ち上げ、透子から目を離さないまま、こちらの瓶にぶつけた。
 「はじめまして、樫元清人。キヨでいいよ」
 「透子です。大河内透子」
 「透子ね」清人は、ひとりごちた。
 ここにいる状況を、お互いに説明し合う。二人とも、夏休み期間をフルに使って一人旅をしていることがわかった。
 そのあと清人から出てきた言葉は、透子も思い浮かんでいたことだった。
 「これを飲んだら外を一緒に歩こうよ、透子」
 二十歳、大学二年の夏にキヨと出会った。


つづく


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