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相手が大事にするもの _『リファ』#30【小説】

 太一が銀の保育園への送迎を終えて、戻ってきた。どちらが言い出すともなく寝室へ移動した。吹き込んできた風に運ばれていくように、ゆっくりと唇を合わせる。

 私は麻のノースリーブワンピースを脱いで下着姿になり、ベッドに入る。

 Tシャツを脱ぎ上半身が露わになった太一から、男の汗の匂いがした。鼻の奥がつんとする。男子運動部の部室に入ると充満している、むせ返るようなあれを水で薄めたような匂い。気分が良くなるたぐいの香りではないが、太一の匂いであると思うと愛おしさが私を包んだ。刺さったままの棘のような引っかかりを夫に抱えていてるのに、自分の本能的なものに呆れながら。

 太一の胸元に顔を近づけて深く息を吸い込み、腕を首に回した。親密さ抱くかたまりが覆いかぶさってくる。

 太一の指が、私の胸を通り、へそを通過して、静かに中に入ってきた。奥のほうまで湿っていて、くちゅりと明け透けな音がする。

 ほかの女性と会っているような素振りを、太一はまったく見せていなかった。いま私の中を動き回る指が、自分以外の誰かにも侵入したのかと想像するのは苦しい。想像したくはなかったけれど、想像し始めると止まらなかった。私が鈍いのか、別の場所で別の相手と、太一がこうしている気配を感じ取ることもできなかった。

 私は太一の下半身の膨らみを脚に感じて、腕を伸ばした。手のひらを密着させて舐めるように回す。膨らみが増した。ズボンとパンツを脱がせ、硬くなったそれを自分の中へ誘導する。

 中に入ろうとしてくる瞬間にいつも、精神的な高ぶりがある。舌を激しく絡ませる。太一が奥に進んでくる。

 わかってほしいし、わかりたい。自分以外の人間と融合して、一体化したい。自分の欠落を埋めてほしい。

 そんな強い願望が昔からある。肉体的に合体することは、一人としかできない。肉体を求め合い、他人のからだを独占して重なることは直接的な融合を感じることができた。

 太一が私のからだをくるりと返し、うしろから突いてくる。目覚めるまでこのシーツの上で息子たちと包まっていたのかと思うと、その背徳感がスパイスになる。おしりから太一の体温を感じて奥まで届き、快楽に身を委ねる。快感の波が高まっていく。

 融合の欲求は、愛によって引き起こされる性欲もあるし、単に性的なものでしかないこともある。そういう場合、合致した感覚はつかの間で終わる。一体化できたという誤解から、空しくなることもあった。精神的なものも伴っていないと、ひとつになりたい願望は叶わない。

 結合したまま太一を座らせて、私は太一に向かい合あって重なる。あぐらをかいたような姿勢の太一に、脚を開いた状態のお尻がすっぽりと収まる。太一の腕が私の腰まわりを包み、息を合わせるように上下する。

 頭の中が白くなり、意識が飛ばされてぼうっとする。悲鳴のような声が漏れる。全身が何度も痙攣するような感覚のまま、達した。

 からだ全体を預けるようにベッドに横になる。驚きも激しさもない定型のセックスゆえの、安心に満ちた悦びが広がっていく。

 太一は起き上がってエアコンのリモコンを手に取り、スイッチを入れた。冷たい風が巡る。太一はとなりに戻ってくると、いつものように軽くキスをした。裸のまま並んで横になる。

 残っている快楽が、波紋のように広がり消えていく。

 私は、前日に学童で起きたことと、それに対峙した息子の光景を、抜け落ちることのないようにできるだけ正確に伝えた。

 「これが僕のふつうなんだ、って。堂々としてた」

 「やるなぁ、葉。友だちも聞いてくれたんだな」と、太一は感心している。

 「『普通』という通りが中央にあって、そこから外れているのが違い、みたいに私は考えてた。ふつうの人と違う人がいて、個性は、ふつうを超えたうえで語るものだと思ってた。そうではなくて、みんなそれぞれに違う人」

 私は二ノ宮の顔も浮かべながら、噛み締めるように紡いだ。

 「思い出したから、話していい?」

 太一が打ち明けるように言う。

 性行為を終えた後に、二人で話すのが好きだ。当人にとって大事な何かが、不意に顔を出すような時間だと思う。 「もちろん」と、私は太一のほうに目だけを向けてうなづく。

 「俺さ、昔から胃腸が弱くてさ。小学二年のとき授業中にお腹が痛くなって、トイレに行きたくなった。だけど、『トイレに行っていいですか?』と担任の先生に聞けなくて」

 「きついね。そもそもトイレに行くのに許可制って、変だけど」

 「変なんだよ、当時はその構造を疑うすべを知らなかった。ウンコを極限まで我慢すると、どうなるか知ってる? 」

 そんな質問をされたのは初めてだし、気になったこともない。太一はこれから、どんな話をしようとしているのか。予測できずに私は戸惑いながら「わからないよ」と笑った。

 「吐きそうになるんだよ。上か下かの選択を迫られて俺、教室でウンコを漏らしたの」

 えっ……。私は、瞬間的に吹き出した。当人にとって大変な窮地ほど、振り返ると喜劇になる。太一のほうにからだごと横になり、寝転んだまま立て肘をした。話の続きを待つ。

 「俺としては、休み時間までやり過ごそうとしたんだよ。でも隣の席のヤツが、臭いと言い始めて、俺の尻だと探り当てて。扇谷くんがウンコ漏らしてます! と、教室中に言っちゃった」

 「笑っていい話だよね?」」

 湧き上がってくるおかしみを抑えることができない。

 「うん、いまはもうネタだよ。当時は、消えてしまいたいほど恥ずかしかったよ。俺の学校生活は、もう終わりだって思った。ウンコをパンツに挟んだまま、明日からウンコの汚名を引き受けないといけない。未来に絶望したよ」

 太一は、笑っていなかった。私は手のひらで太一の胸の間をくるくると撫でながら、次の言葉を待った。

 「教室全体が、笑いを堪えているような状態だった。それが弾けそうになったとき、後ろの席にいた高瀬さんが立ち上がった。『誰でも、します。みんな、こういうことは起こります。みんなも臭い!』と言った。教室の空気が明らかに変わった」

 「すごい」。私は感嘆した。

 「高瀬さんは俺の救世主だよ。俺は、先生に連れられて着替えに出た。恐る恐る教室に戻ったら、いつも通りだった。休み時間も、次の日も、その次の日も、俺がウンコと呼ばれる日は来なかった」

 太一は、大切にしているものを丁寧に手入れするように話した。

 「よかったねぇ」と私は言い、しみじみとした気持ちになった。太一は、当時に抱いた感動を蘇らせているようだった。小学二年生の自分自身に戻っている。太一は、天井を眺めたまま言った。

 「解釈次第で、人を救える。出来事って、起きた時点ではプラスもマイナスもないんだよ。その事実をどう受け止めるか。だから、問題を起こしたり声を上げたAって人がいたら、それを受け止めるBの人の存在が実は重要で。おれはAになることはなくても、高瀬さんのように、プラスに転換するBになりたいと思ってるんだよ」

 過去の恥ずかしい話だけではなかった。たったいま受け取った話を、太一の声で頭の中で反芻する。太一の額のあたりの髪を、指先でくるくると撫でた。息子たちを寝かせる時にやる行為だった。

 太一はその手を掴んで引き寄せ、キスをしてきた。小学二年生の太一と37歳の太一をまとめて抱きしめる。

 「葉の話から、なんで話そうと思ったの?」

 私は太一のからだの上に重なるように乗り、聞いた。太一の腕が、私の腰を包む。

 「自分で説明した葉もすごいけどさ、それを受け取った友だちの『うまく話せなかったら、かわりに話してあげるよ』に俺はグッときたんだよ。その友だちの存在は、葉を励ましたと思うから」

 気づきもしなかった部分を、太一は見ていた。私が体験した出来事に別の解釈が加わり、より重層的にくっきりと色がついた。

 太一は目を開けて、まっすぐと天井を見ていた。私は態勢を変えて太一のわきの下に収まり、沈黙に浸った。私は浸っている太一に、「高瀬さん、下の名前はなんていうの」と尋ねた。

 「高瀬みどりさん。久しぶりに思い出したけど、忘れてなかったな」

 太一の中にいる高瀬さんに血が通った。それまでは少しも湧いていなかったのに、嫉妬に近い感情も芽を出した。

 「高瀬みどりさんのこと、好きになったでしょう?」

 「高瀬さんも、俺のことが好きだったんだよ。告白されたわけでもないし、俺もしてないけど。自分が好きな人って、だいたい相手も好きだよね?」

 「なにその、自信」

 思いも寄らない発想だった。私は吹き出し、お腹の底から声を出して笑った。いつまでも笑い続けられそうだった。

 太一には、クラスメイトのいる教室でウンコを漏らしても揺るがない、自己への確信がある。私は出会ったときからいまも、太一のそこに惹きつけられている。その恩恵を感じられないほどに日常的に、充電してもらい続けていた。

 彼は私に、必要な人だ。



つづく
 

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