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わたしの恥 _短編小説

拝啓 お母さん。
 40年かかってしまった。ほんとうの恥を知るのに。ほんとうの恥を、やっと知りました。
 全身が赤くなって消えたくなる。なんて形容はなまぬるい。周囲の目が気になって、うつむいて、小さくなっていたものは恥でもなんでもなかった。身をひそめて怯える必要なんて、なかった。
 日本には、「恥を知れ!」だとか、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」だとかの言葉があるよね。
 「それは、恥ずかしい言動です」と、恥ずかしがることをいろんな方向から強いてくる。第三者からの目線で恥を塗りつけて、それを自発的な感情だと錯覚させてくる。
 伝わってるかな? どう伝えると、いいものか。
 感情ってさ、もっと、それぞれの人がどう感じるか。起こったことにたいして、個々の内側からわき上がる、オリジナルのものだよね。なのに恥だけは、外から輸入して、恥させられているのよ。
 お母さん。これはね、ゆるやかな洗脳よ。
 考えてみて。たとえば、「旅の恥はかき捨て」。
 知らない人ばかりの旅先だから許されると、普段はしないような言動も平気でやってしまうもの。そんなことわざ。
 翻ってみてよ。日常では、知っている人からの非難や嘲笑を、どれだけ気にしているんだ日本人? って話よ。周囲の目線がなければ、何をしても、恥ずかしくないの?
 わたしはその恥ずかしさを、外側の視線から引き受けて、選ばされて、思わされてきた。
 「恥ずかしがらせられてきた」という表現が、正確だね。この国に漂う、異質なものを追い出そうとする同調性に。共感できない相手には容赦なく排除していいとするこの国の暗黙知に。わたしはずっと、わたしのほうを同じにしてきた。
 わたしの罪ではまったくないことに、わたしは一体どうして、恥ずかしがってきてしまったんだろう。
 お母さん。そうでしょう?
 お母さんにとっての両親。お父さんにとっての両親。わたしのおじいちゃんと、おばあちゃんたちは、好きで日本にやってきたわけではないよね? 
 恥ずかしいとか、申し訳ないとかの気持ちになってもらうのは、むしろ、犯した愚行を考えたら日本人のほうでしょう。
 今さら、どうしたん? ナニジンとか、どっちだってええでしょ。私たちには何も動かせないでしょう。かわいい孫たちの話をしてよ。そうお母さんは、言うだろうね。この話を掘り下げる気は、もうないかもしれない。
 外側からの視線を受け入れてきたからね、お母さんたちは。すでにあるシステムにのっかるほうがラクってことは、わかるよ。
 わたしだって、蒼一郎と結婚したとき、これで解放されたと思ったもの。わたしの家族をつくって、愛おしい息子たちもいて。
 でも、終わらないの。わたしの影が、執拗に追いかけてくる。逃げきれない。わたしの中に閉じ込めてきた言葉たちが、出してくれと呼吸してもいる。
 わたしにとっての恥のはじまりから、話すよ。いっしょに、思い出してほしい。

 いまでも、あのときの衝撃は、鮮明に思い出せる。なんども、記憶を再生させてもきた。最初の最初は、当然のようにスイカだと思っていたものが、後頭部だった。そんなことあるの? うそでしょ? 単純な動揺にすぎなかった。
 「話があるから」。お父さんもお母さんも、いつもの陽気な感じと違った。わたしとお兄ちゃんは、そろってダイニングに促がされた。テーブルのすみには、醤油さしと塩とつまようじがセットになった和食器があり、中央にはお父さんが飲みかけの湯のみがある。湯のみの中身は、玄米茶かほうじ茶か。ありふれた、お茶の間の光景だよね。
 えんぴつみたいな建売の一戸建てに暮らす、4人の核家族の。
 いま思い返すと、表面だけ見れば、日本のひと以上に、日本的だったかもしれないね。引き継いできた文化というわけでもないのに、見よう見まねで、この国のものを真似していたわけだから。
 「あなたたちの生活は、日本にある。でもルーツは韓国にある。それを忘れないでほしい」
 お父さんが、抑揚なく言った。息子が中学生になったら伝えると決めていたと、お母さんがつけ加えた。
 お父さんが、あんたたちではなく、「あなたたち」と呼びかけた特別さを、わたしは見逃さなかった。均一な声の調子や端的な説明から、両親の思考のあとを感じる。いまならわかるよ。
 わたしは、在日朝鮮人三世らしかった。
 自分が日本人であること。この国に生まれ、しゃべる言葉も考えるときの言葉も、通う公立小学校も、皮膚も髪も瞳の色も、そこに違いはない私にとって、あたり前のことだった。
 当然すぎて疑いようもなかったことが、覆された。
 外国人登録証明書なる身分証明書が、ふたりの財布から出てきた。 
 父の苗字は李で、母の苗字は呉だと言った。韓国では、結婚したからといって女性が姓を変えることはない。家の名前を引き継ぐから、ふたりは別々の名前を持っていた。
 運転免許証には、親しみしかないふたりの顔の横に、別人のような漢字の羅列があった。李と呉の下にある名前も、ここまでわたしが認識してきた両親のものとは別の、民族の名前を持っていた。どう読めばいいのか、まったくわからなかった。
 そうなるとわたしは本来「李」になるのだろうけれど、日本で生きていくには、それだけで困難が増えてしまう。だから、日本の名前を使っている。そう教えてくれたよね。それを「通名」とお父さんは言った。
 わたしがこれまで、学校の持ちものや宿題のプリントになんども書いてきた唯一のはずの「木村」は、ほんものの名前では、なかった。長年呼ばれ親しんできたわたしの、友理という名前は、朝鮮語で読むとウリと響きが変わった。
 わたしはこの国で、外国人だった。
 一滴たりとも、わたしの中に日本人の血はない。小学校で早々に習った「木村友理」の漢字が、ゆらゆらと揺れた。 
 わたしたちと同じように、日本に溶け込んでいる韓国籍・朝鮮籍の人が暮らしていることも知った。在日と呼ばれるらしい。
 となりにいたお兄ちゃんがまず、口を開いたよね、お母さん。
 「おれ、韓国人やったの? 日本人と結婚したらおれの子は、ハーフ? 最高にかっこいい! サッカーの試合、日本も韓国もどっちも応援できる」
 特別なものを手に入れて、喜んでいた。
 混乱した。兄の感じ方は、わたしの中には一切なかった。ふたりから聞かされた、ある意味では詩的だった一節が、急にバラエティ番組に変換された。ことばの抽象ぐあいがみごとにズレたときの空しさみたいなものが、あった。
 チリチリ、チリチリ。わたしたちがいま聞かされた事実を、お兄ちゃんはものすごく雑に、おめでたく解釈したに違いない予感と違和感が全身をかけ抜けた。
 わたしはこの先何度も、この得体の知れない感情に出くわすことになる。
 お母さんは、言ったね。
 「これからも、この国で生きていく。あなたたちが生きやすいように、国籍を日本にするから」
 そのための申請を、家族そろって始めるという。お父さんは大卒で会社員としてこの国で勤勉に働いているから、申請が下りるのにそう時間はかからないだろうと説明してくれた。日本人になりたくても“許可されない”在日の人たちがたくさんいるらしいことも、帰化ということばも、はじめて知った。
 
 学校のみんなと、同じだと思ってきた。でも、自分は違う。嫌だ。衝撃のあとに訪れた嫌悪は、大多数との違いに対するものだった。多くの人との差が、嫌だった。容姿がいいとか、足が速いとか、帰国子女とかの希少性はほしいけど、この個性はいらない。同じでいたい。だってわたしは、クラスにいる左耳が聞こえない建部くんに生まれなくてよかったって、思っていたから。
 それが生活や授業で学ぶなかで、単なる差異だけではないことを、ゆっくりと知っていく。この国で、外国人であることは事実だった。ただ、少数であるという事実だけでは、不十分だった。わたしは、それ以上のことを認めさせられていった。
 中学で同じバスケ部だった、たまちゃん。苗字を見て、この子も在日やな。お母さんは、おっとりと教えてくれたよね。お母さんはクラスで配られた名簿を眺めて、日本に溶け込んでいる同胞たちを見つけた。
 すベての在日コリアンが、このスキルを持っているのか。比較して共通点を見いだせるだけの在日の友だちもいないから、わからない。ただ通名から「この子もやで」と聞かされたわたしは、無性にうれしかった。男性ばかりの集団の中にいるときに女性に出会ったときの安心感に、近かったのかもしれない。
 翌日の部活帰りに、たまちゃんに声をかけた。とてもよく憶えている。 
 陽が落ちきる前の、薄暗さだった。通学路を沿うようにある用水路は、この日も変わらず流れていない。鉛色に淀んでいた。秋が終わろうとしているのに、真夏のどぶの臭いがする。
 でも、わたしの心は跳ねていた。
 「たまちゃんも、韓国人なんやろ? 」
 今週の『少年ジャンプ』読んだ? そんな軽さと温度だった。
 たまちゃんの表情が、景色に馴染んで見えない。
 「ほんとうの名前はなんて言うの? わたしは李なんやって」
 ほかほか亭の黄色い看板が照らす灯でやっと、たまちゃんの表情がくっきりした。福笑いのように朗らかに笑い、どこかいつもビクついているたまちゃん。いつもの彼女が、苦しそうに歪んでいた。一瞬にして、赤く染まった。
 「この話は、もうぜったいにしんといて! ぜったいに、誰にも言ったらあかん!」
 たまちゃんは、わたしを突き飛ばした。逃げるように、帰ってしまった。バスケの練習で突き飛ばすのは、だいたいわたしのほうだった。たまちゃんらしくない、明確な意志だった。
 話題にすらしないでと、たまちゃんは言った。望み通りに、たまちゃんとの放課後のことをなかったことにした。
 お母さんには、話したよね。 
 「隠すものと、ちがう。たまちゃんとたまちゃんのおうちの考え方が、おかしい。誰に言っても構わへん。友理は、友理のままで、友理らしくいたらええの」
 お母さんは、そんなふうなことを言った。これまでと変わらず、わたしをユリと呼んだ。お母さんが焼いてくれた、ドライフルーツがたっぷり入ったパウンドケーキから放たれるバターの香りといっしょに、抱きしめられたようだった。
 でも。チリチリ、チリチリ。わたしの裡でまた、音が鳴った。
 あのときは、まだ言葉にできなかった。だから当時は、チリチリとわたしの中心で小さく鳴り響くだけだった。
 お母さんたちの矛盾に、気づいてしまった。だって、隠さなくていいことだと言うけど、”そうなっている”じゃないか? お兄ちゃんが言うような特別で、誇れることなら、わたしたちはなぜ、名前を変えているの? 日本人になって、生きていくの?

 聞かされた話は寝耳に水だったと書いたけど、周到に振り返ってみたわが家には、韓国がたくさんあった。それまで見聞きしてきた点と点が、一本の線となったよ。お母さん。
 畳の部屋に、結婚披露宴の写真が2枚飾られていた。その中でほほ笑むお母さんは、色打掛姿とは別の、きらびやかな衣装を纏っていた。あれは、チマチョゴリだった。おじいちゃんとおばあちゃんの会話がヒートアップしたときに、聞き慣れない単語が混ざっていた。あれはハングル語だった。日本でいうところの法事のとき、お供えものの果物の上の部分がカットされていたのも、その祭壇に向かって、おじいちゃんやおじさんたちが年齢順に土下座のような動作で礼拝をしていくのも、朝鮮式の法要だったんだよね。

 「もっと身体的でいいというのかな。日本で暮らしてようが、血は争えないっていうのかしら」
 お母さんは、コリアンタウンで買ってきたキムチの味に舌鼓を打ちながら、そんなようなことを言った。
 二世であるお母さんは、一世である祖父母に育てられた。だからお母さんが引き継いできた家の味は、韓国だったね。自分で漬けるほどではなかったけれど、だいたい食卓にはキムチがあった。同時に、暮らしている土地のおいしいものが、お母さんの正義だった。和食のレパートリーは、増え続けた。
 テンジャンチゲと焼き魚が、プルコギとみそ汁が、キムチときゅうりのぬか漬けが、並列にあった。お正月は、お雑煮かトックか、わたしとお兄ちゃんは選ぶことができた。お母さんは、屈託なく日韓を取り入れていたなと思うよ。お兄ちゃんもそう。「どう考えても、トックのがうまい」と、おいしいかどうかで選んでいた。
 お母さんをはじめ、家や親戚の間では、自分たち民族の世界も、日本の世界も、のびやかに広がっていた。
 でもだからといって、お母さんたちがご近所さんにこの出自をわざわざ明かすこともなかった。隠すとか隠さないというものではなく、普段の生活では説明しておく必要がなかった。わたしも、いつも一緒に登下校していた理恵ちゃんに改めて話すかといわれたら、しなかった。ただ、話す理由はないけれど、知っていてほしい気持ちはあった。

 御手洗さん事件は、憶えている? この話も、学校から帰ってお菓子を食べながらお母さんにしたよね。
 運動が得意で学校の勉強ができる活発な中学生はそういう役割になる流れで、わたしは、学級委員だった。似たタイプが、クラスにもうひとりいた。あのあたり一体の土地を持つ地主の娘、御手洗さんだった。クラスで決めごとがあったときに、意見がわかれた。単なる議論だったはずが、御手洗さんは言った。
 「友理ちゃんって、チョーセンジンやろ!」
 背中のほうから不意に、頭を殴られたようだった。視界が白くぼやけた。脳しんとうを起こしているときのボクサーも、ああいう感じなのだと思う。
 自分の身に何が起きたのか。わからないなりに、御手洗さんの勝ち誇った目つきと、蔑みに変わっていった表情が語っていた。わたしをおとしめる材料なのは、明らかだった。
 「だったら何? そうだけど、関係ないでしょ?」
 視界を取り戻したわたしは、御手洗さんに言い返せたのかな。あの日の情景のその先は、どれだけ思い出したくても遠くなっていく。毅然としていたのなら、いいな。当時のわたしはまだ、隠したいという意識はなかったはずだから。
 お母さんは、話を聞いてくれる間じゅう、小刻みにうなずいていた。ときどき、眉頭と眉頭が近づいた。
 「何か良くないことをしたら、朝鮮人だからと言われる。良いことをしても、朝鮮人だからとは言われないけど」
 諦めているようにも見えたし、達観しているようにも映った。
 御手洗さんがわたしに投げた言葉を、反すうした。言葉の羅列だけ見ると、You are Korean.になる。あの場面で込められていたものが、単なる事実を述べたわけではないとわかるぐらいには、もう大人だった。
 御手洗さんが言いたかったのは、「チョーセンジンのくせに!」だった。   
 お父さんとお母さんが温かく注ぎ続けてくれたものに守られ、わたしは、やわらかな世界で育つことができていた。十代になりたての少女は、自分の外側に続いていく世界も、そういうものだと信じきっていた。お母さんとお父さんが注いでくれる安心という土台のその下が、ゆれ始めた。
 日本人が「朝鮮人」と呼ぶとき、何を意味しているのか。その存在を雑に、下に、扱っている。ほかの国の外国人にはなくて、在日朝鮮・韓国人に対してだけ日本人が持っている感情が、あるようだった。
 一部の日本人かもしれない。だけど、この身で受け止めたものは、被害妄想なんかじゃない。
 中学の近代史の授業で、謎がとけた。
 併合から独立まで35年。朝鮮半島は、この国に侵略された。わたしは、支配された植民地出身者の子孫だった。
 「その歴史は、現在にもつながっています。この教室にも、朝鮮半島から連行されたり、生活のために出稼ぎに来ていた朝鮮人の子孫がいます」
 実直なだけが取り柄の社会科教師が言い出さないか、気が気でなかった。授業が終わるまで、机の木目をじっと見ていた。
 「隠したいものだったのか?」聞かれると、返事に困ってしまう。隠したいかどうかという以前に、わたしのよく知らないうちに、‟そういうルール”ができ上がっていた。
 併合の歴史を知ったときは、怒りとか悲しみはなかったと記憶している。チリチリの正体に近づけたような、爽快さすらあった。
 わたしを支えていた土台が崩れたのは、朝鮮半島が日本の植民地だった間に起きた関東大震災。そこで、朝鮮人虐殺が起きた。足元が崩れ、抜け落ちた。
 大きな災害で世の中が混乱したといえ、こんな非科学的なデマで何百人、何千人も殺されたの? 私もその時代にいたら、踏み潰されたんだよね? わたしには、こうもひどい扱いを受ける血が、流れているの?
 たまらずトイレに駆け込んだ。 声にならない叫びで、あとからあとから涙が出てきて、止められなかった。
 恐怖だったのか、憤りだったのか、悲しみだったのか。死んでいった同胞への同情や鎮魂だったのか。いまでも、あふれてきた涙のわけはわからない。
 虫けらのように扱ったのは、国家権力だけじゃなかった。自警団という名の隣人に襲われたという事実が、わたしを底知れない穴に突き落とすのに十分だった。
 学校で起きたことは、起きたその夕方にはお母さんに話してきた。
 でも、この日の胸の内を伝えることは、できなかった。お母さんを、傷つけてしまう気がした。特殊な事情を背負いながらも、ギリギリ中流に入る家庭を築いてきた。そんなお母さんとお父さんの尊厳を守りたかった。

 高校生になったお兄ちゃんは、わたしと同じ歴史の授業をきちんと受けたのだろうか。
 「オレ、韓国人やねん。 血は遠いほうが優秀な子が生まれるっていうやろ?」
 できたばかりの彼女に、自慢していた。両方の親指を立てる勢いで。この事情を能天気に変換できるのは、お兄ちゃんの凄みだよね。ただそれだけに、わたしの不安を伝えたところで、通じないと思った。
 お母さんとお父さんは、繰り返し言った。
 「何か良くないことをしたら、やっぱり朝鮮人だから。言われてしまう。日本人以上に、自分を律していなさい」
 知らねーよ、だった。嫌で、嫌で、たまらなかった。韓国とか日本とか、朝鮮人とか日本人とか、国とか国家とか、知らない。自分の預かり知らない過去の中で、誰かが地球の土地に線引きして、侵略して支配して引き裂かれた。自分ではどうしようもできない大きな流れの中で、私はたまたま、この瞬間、日本という土地の一部に暮らしている。そんなもの、関係ないでしょう。背負ってないし、背負いたくない。
 一方で、ーーそうなんだ、日本語うまいね? 出自を明かしたとき、なぜわたしたちのような存在がこの地にいるのか。知らない日本人のほうが多かった。そこに一切の邪気がないだけに、情けないような、さらに穴の奥に落ちていくような心もとなさに襲われた。

 大学1年になった。はじめての海外旅行先は、ソウルを選んだ。そこはそう決めていた。居場所があるかもしれない。淡い期待は、ゼロじゃなかった。
 金浦国際空港に降り立ったときの、ニンニクとそれを打ち消そうとする化粧品が混ざったような強烈な匂いは、どこかで嗅いだことがあった。懐かしさのようなものと同時に、恥ずかしさも全身に広がった。あの恥の感情は、痴呆になったおばあちゃんを連れて歩きたくない思春期に似ていた。
 「I come from Japan.but I am Korean.」
 旅行中に親しくなったサムギョプサル店のおばちゃんに、話してみた。
 首を傾げていた。帰化を終えたパスポートは日本の赤だったし、ハングル語の一切も読めないからね。ナニコクジンかを決めるのは、血よりもことば。母語なんだね。在日コリアンを韓国語にした呼び方「在日僑胞(チェイルギョッポ)」ぐらいは、仕込んでから行けばよかったよ。
 密集した人と喧騒でほこりっぽい東大門市場では、お母さんより少し上ぐらいのおばちゃんが、金物屋の前で言い争っていた。ふたりは店主と客で、指を差す動きなどから、衝突の理由はおそらく値切りだった。いまにも、取っ組み合いのケンカに発展しそうだった。周辺を歩いて30分後に店前を通ると、まだふたりの衝突が続いていた。たかだか200円か300円が値引きされるかされないかで、ここまで白熱できる感覚のすべてが、わからなかった。
 たった6日間だったけど、あの国で過ごしてみて、自分がこの土地で受け入れられそうには思えなかった。お父さんとお母さんの本籍地、つまりおじいちゃんたちの故郷の住所も聞いていたけど、行かなかった。
 お母さんは、自分の経験としてこう話してくれたね。
 「民団の集まりで、韓国に行った。わたしは日本人ではない。だからって、韓国人でもない。在日人だった」
 すとんとお腹に収まったようだった。お母さんは、こうも繰り返した。
 「友理は、友理のままでいなさい」
 わたしは、わたしを形づくる「それ以外の自分」を築くことに、力を注いだ。意識しなければ、国籍も名前も日本人だった。日本社会に溶け込んでいるから、多数派としてラクに生きていけた。
 思い返すと、そこからの私は、生まれとか生育環境とかとは切り離した自分を切り開きたくて、それ以外を築くことに必死だった。外に外に、自分の幸せと自分を探す。それを超えるアイデンティティをつくりたかったし、つくってきた。
 いつから、だったのか。
 チリチリと鳴る音といっしょに遠くに押しやったそれは、「わたしは在日だから」と負い目となり、内側に向かう恥となった。
 自分の内でも話題にしないし、自分から話題にすることもない。ただ、つき合ってその先を考えた相手には、話さなければならない。恋人を始めたばかりのおもがゆさとは別に、「韓国人だけど、いいのかな」と引け目のようなものが、どうやってもつきまとった。
 わたしの嫌韓感情も、大きくなっていった。韓流ドラマやK-POPブームと韓国のほうからやってきた一連のものには、近づかなかった。小説の世界はわたしに寄り添ってくれたけれど、在日文学というカテゴリーは無視した。そこに、わたしが描かれていることがあってはならなかった。
 いま思うと、この国に漂う空気を、わたし自身が取り込んで内部化してしまった。日本人に迎合し、すり寄るために。

 結婚相手は、日本人がいい。ほんものの日本の苗字を手に入れたら、関係なくなる。「それ以外」の自分を完成させること。重要なミッションだった。 わたしが結婚に並々ならない想いがあったなんて、わからなかったでしょう。お母さん。

 「友理ちゃんは、友理ちゃんでしょう」
 お母さんが繰り返したことを、蒼一郎は言った。
 朝鮮人を見下してくる以外の多くの日本人の対応は、かつてわたしに「日本語がうまいね」と放った知人と似たような、無関心だった。蒼一郎は、そのどちらでもなかった。
 わたしたちのような、日本生まれの韓国人・朝鮮人が、その子孫や帰化した場合も入れると何百万人もこの国に暮らしていること。戦前戦後からいまに至る流れも、わたし以上に知っていた。
 そのうえで「だから、なんだっていうの。オレが好きになった友理ちゃんの何も変わらないでしょう」
 それが、蒼一郎だった。実際、伝える前と後で、蒼一郎は変わらなかった。穴から出られなくなっていた「それ以外じゃないわたし」を蒼一郎は照らし、引き上げてくれた。
 日本人だから、歓喜もした。結婚で夫の姓に入れば、関係なくなる。結婚をゴールととらえる人以上に、ゴールテープを切った感触もあった。
 蒼一郎との間に、子どもにも恵まれた。わたしはわたしの望んだ幸せを、この手でつかんだ。十二分に満たされた。
 確かに、そう抱いたんだよ。お母さん。
 ここで舞台の幕が下りればいいのだけど。生活は続いた。

 きっかけは、何だったのだろう。
 子どもを育てる機会を得たからか、自分という存在をもっと広くとらえるようになった。
 息子たちに何を見せるのか。どんな未来に暮らしたいか。この先彼らにも2分の1引き継がれていることを伝えるときに、こんなわたしのままでいいのか。何か大事なものを欠いてしまっている気がして、ならなかった。
 夫に対して、必要以上に腰が引けてしまうところがあった。それを蒼一郎も気づいていた。
 「友理ちゃんは、ここぞというときの勝負に、弱いよね」
 そうかな、受け流しながら背中に冷たいものが流れた。
 「最後の最後でよりどころになるのは、自分自身だからね。そこへの信頼が薄い」
 蒼一郎は断言した。
 図星だった。おもねるような親日意識から派生した反朝鮮人感情のあいだで、自己否定をし続けていた。自分のことを、信じられていなかった。
 最初に出会う人である自分を信じられていないとは、他人のことだって信じてなんかいなかった。
 そこから、長い宿題を解いた。
 わたしの血が内側を流れつつ語っているところの声を、聞き始めた。もう外に探し求めなかったし、自分を欺かなかった。
 やっと、選ばされてきた恥の正体を突き止めることができた。
 わたしのほんとうは、日本人が憎い。
 許すことができない。
 そんな許せない相手を、蒼一郎を通して愛そうとしている。私たちはどうすれば、わかりあえない相手と、真の意味でともにいることができるんだろうか。
 お母さん。ひとつ教えてほしいの。お母さんはこの境遇に、ひるまなかった。堂々としていた。
 なのに。わたしが、被差別部落について聞いたとき、血相を抱えていた。あの焦りのなかで出てきた言葉が、耳にこびりついている。
 「あれと、わたしたちとは別よ。一緒にしないで」
 何が違うんだろう。お母さん。
 わたしたちは、強くない。
 でも、誰かが誰かの優位に立ちたいためにつくり上げてきたフィクションに、飲み込まれてはいけない。
 恥ではないことを恥じたとき、それこそが、ほんとうの恥になるんだと思う。                敬具


令和3年7月20日 
お母さん。40年前に産んでくれて、ありがとう。

李友理 이우리


イラスト/いずいず


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