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対峙 _『リファ』#34【小説】

 ヨンエさんはアイスコーヒーを、私はアイスカフェラテを買い、南新宿に向かって歩く。「代々木上原に近づこう」と、ヨンエさんが私の自宅方面に向かう格好になった。

 行き交う人にぶつからないように、時々前後に位置を変えながら並んで歩く。陽は高いが、湿度は低くて空気がカラッとしている。

 トータルで四時間に及ぶインタビューを隣で聞いていたヨンエさんの感想を、まずは知りたかった。

 「どの話が、ヨンエさんの印象に残っていますか?」と私は尋ねた。ヨンエさんはアイスコーヒーの入ったカップをくるくると回しながら、空を見た。数時間前の記憶を辿るようにしばらく考えてから、ヨンエさんは言った。

 「自分だけじゃなく家族も含めて公にオープンにすることで、『当たり前の景色になる』。それによって、『自分たちに好意的でない人ともいつか雪解けする』と言っていたところかな。未来のために動ける人だし、その方法も『北風と太陽』の太陽のようやった」

 私はヨンエさんの横顔を見ながら、うなずく。すべすべとした白い肌と、先だけがツンと上を向いた形のいい鼻。こちらの心を、すうっと持っていかれそういなる。ヨンエさんは続けた。

 「私の原動力は、怒りやった。足の裏で地面を蹴りつけながら生きてきたところある」と、フッと鼻から息を出して、自分自身を笑うように言った。

 「なんで、最後の質問をしたんですか? 」私は静かに尋ねた。ヨンエさんと話すと、自然と関西弁のイントネーションが引き出される。ヨンエさんは飲み干したカップを揺らす。中に残った氷がカラカラと鳴る。彼女は少しの間、黙った。

 「いまは、トランスジェンダーに生まれてよかったと思っているのか。ただ知りたかっただけ」

 「トランスジェンダーでよかったです、と言ってほしい。ヨンエさんの願望を彼に重ねたのではなくて?」

 ヨンエさんは、その質問には答えなかった。言葉が雑踏に吸収される。

 私は言った。「ヨンエさんが私に投げかけた、なんで今ある環境に適応して生きようとするんだ、堂々としないのかっていう質問を、ずっと考えていたんです。差別をしない・無くしたいと自分なりの方法で努力してる二ノ宮さんやヨンエさんにとって、差別に合わないようにコソコソと努力をしている私は滑稽でしょう。逆に私はずっとヨンエさんに、『なぜ、朝鮮人として生きようとするのか?』って思ってました」

 「朝鮮人として生きようと、してるのかな」と、ヨンエさんは首をかしげて囁くように言った。私は続けた。

 「在日コリアンとして日本で生きていると、『チョウセンジン』と大雑把なカテゴリーに勝手に押し込められる。それだけじゃなく、在日コリアンという理由だけで一部の日本人から執拗に嫌われるじゃないですか。実際にヨンエさんは、民族学校の制服を着て道を歩いてるだけで、まったく知らない人から石投げられた。そんな目に遭ってでも、なんでそれを身につけるの? 表明し続けるの?と、民族的自負心もまったく理解できませんでした」

 「はっきりと言うね」と、ヨンエさんは歯を見せて笑った。彼女のこういう顔を見るのは、久しぶりだなと思う。私は構わず続けた。

 「理解しようとも、していなかったんだと思います。そんな私の疑問自体が、数が少ないだけで存在する人たちに無言の圧力をかけていた。在日コリアンとして生きることは、本来は『男性』と自己紹介欄にチェックすることと同じ。何も特別なことではないのに。そんな私の、当事者でもありながら悪意のない差別的な態度が、ヨンエさんをいら立たせてきたんじゃないですか」

 私は、一気に伝えた。水で薄まったカフェラテを飲み干す。ほとんど水の味だった。「すみませんでした」と、ヨンエさんの目を見て詫びた。ヨンエさんのほうから、目線を外した。

 NTTドコモ代々木ビルの時計台が迫ってくる。上京したばかりのころは、その都会的なデザインに心が踊ったものだ。行き交う人の数は、減ってきていた。

 「大げさよ。そんなに深刻に考えてない」とヨンエさんは、突き放すように言った。私はヨンエさんの顔を伺う。続きを待った。

 「家庭の方針で、小学校と中学の九年間を民族学校で過ごした。朝鮮語で授業を受けて、友だちとも朝鮮語で会話する環境だった。日本の高校に行ったら『いつ日本に来たの?』『日本語うまいよね』と言われる。​​かけられる言葉は、自分は何者かと強く意識させられるものだった。当時は十代の衝動もあって、いつも怒っていたよ。でもやっぱり」

 ヨンエさんはそこで一拍置き、くちびるを噛んだ。

 「私にとって、どっちだっていい話だった。日本の地で生まれた私にとって、祖父母の出身地が朝鮮半島というだけなんだよ」

 ヨンエさんは、淡々と話す。私は彼女の目を見て、続きを促した。

 「何民族だとか、単なる情報なの。自分のルーツを明かす程度のことを、そんな重大事に考えてない。民族の誇りとか祖国に対する想いとか、祖父母や両親はあったかもしれないけれど私はないよ。祖父母の出身地だよ? そうだね、履歴書の女性欄にチェックを入れる程度のこと。金英恵(キム・ヨンエ)という名前でいるのも、大したことに思ってないから。ただ、それだけ」

 私がなんとなく予想していた反応と、大きく違っていた。肩透かしを食らい混乱した。私はこれまでのヨンエさんとのことを思い返しながら、尋ねた。

 「『日本人のように振るまって、恥ずかしくないか』そう私に言ったのは?」

 「梨華さんが、在日であることを重大な秘密事を抱えているようにしているから。時限爆弾を預かっているみたいにドキドキしているのが、私には自意識過剰に感じて、恥ずかしい」

 私のからだを、羞恥心が走った。体温が急激に上がり、耳たぶの先まで赤くなっている気がする。私はムキになって返す。

 「ただ朝鮮半島にルーツがあるってだけで、差別してくる人がいますよね。インターネットを開けば、もっと直接的でひどいヘイトを投げてくる連中がいる。『いる』ことを想定して防御していないと、大きなダメージを受けてしまう」

 ヨンエさんは、首を何度も縦に降った。

 「そうやね。でも本来は、出自のことなんて大した話題じゃない」

 ヨンエさんは、大きな目を私に向けた。今度は視線を離さなかった。長い時間二人でそうしていた。彼女の瞳の奥にある煌めきに、触れた気がした。

 ヨンエさんが沈黙を破った。

 「いまカミングアウトと呼んでいる行為を、多くの人が何でも、もっと気楽にできる世の中になればいいと思ってる。私は私だし、君は君。そのためにできる仕事をしてる」

 ヨンエさんが、多感な時期に怒りの中で悩み抜き、たどり着いた答えのようだった。

 マンションやオフィスビル、コインパーキングが並ぶ道を並んで歩く。右に曲がると、青と白でデザインされた小田急線の駅が見えた。

 見えているようで見ていないし、聞いているようで聞けていない。私たちは多くのことも話せているようで、話せていない。けれどいまの私は、ヨンエさんが表に出していないことをも、少し想像ができていた。



つづく

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