英雄 _『リファ』#29【小説】
折り畳み傘を広げて、ヨンエさんと新宿駅まで歩く。新宿一帯に人が増えてきた時間なのか、並んで歩くことが難しく一列になった。
ヨンエさんは、雨の街中も、細身のパンツを合わせたパンプスで大股で歩く。私は急ぎ足で追いながら、二ノ宮から聞いた話を振り返った。
なぜ、あえてカミングアウトするのだろう?
二ノ宮や、ゲイやレズビアンの人たちのような、しようと思えば自分のアイデンティティを隠し通すことができるのに表明する姿勢は、眩しくもあり、長く疑問を抱いてきた。多数に馴染まない存在であることで差別されることを避けるためには、世の中が主流とするほうのアイデンティティを装えばいい。
そうすれば、負のイメージを伴った偏見や差別から自分を守ることができる。カミングアウトは自ら傷つきにいく行為で、戦略として矛盾している。オープンにする理由はない。そんなふうにとらえていた。
でも、二ノ宮は、見えない存在を引き受けることのほうがおかしいと、表明し続けていた。
そもそも、年齢、性別、人種、生活水準、障がいとは、個々のプライベートな特性だ。にもかかわらず、成人男性や異性愛者という特定の私的な特性は公にすることを認められ、障がい者、同性愛者はオープンにするものではないと拒否していることこそ、筋が通っていない。
「なぜ、あえてカミングアウトするのか?」の疑問を抱くことは、相手のプライベートな特性を「受け入れたくない」「見えない存在でいてほしい」と望んでいることになる。
少数者のカミングアウとは、匿名の多数が無自覚の圧力で取り締まろうとする公の場所で、見える存在として発言権をもって、真に公平な場に入ることではないか。
既存の法制度やルールが、正しいわけではない。自分が長く抱えてきた疑問が、二ノ宮の言動で地殻変動を起こしていた。
西口に着いた。ヨンエさんの白いパンツの裾が、雨で濡れている。ヨンエさんが肩に下げていたベージュの皮のトートバックも水分を含んで色が変っていたが、彼女は気にする素ぶりを見せない。
駅まで歩く間につらつらと考えていたことを、ヨンエさんに話したかった。
「梨華さんは小田急線だよね、私はJRだから」
ヨンエさんが、業務連絡のようにあっさりと言う。彼女のほうは、私との会話を望んでいないようだった。引き止めるほどでもないかと、
「そうですね。来週の取材、引き続きお願いします」
軽く頭を下げて別れ、小田急線改札に向かった。
時計の針は、十五時半を指していた。このまま家に帰れば、学童から戻ってくる葉の帰宅に十分に間に合う。なんとなく気分が良くて、また葉のいる学童に出向いて一緒に帰ろうと考えた。車両に乗り、優先席の前に立つ。
「僕たちは、何も悪いことをしていない。誰かを傷つける意図があったわけでも、実際に誰かを傷つけたわけでもない。三人が納得して、望んで命を授かった。事実は事実として公表することが固まりました」
こう語った二ノ宮の言葉が、胸の内で繰り返されている。頭上のすぐ先にある、マゼンダに近いピンクがテーマ色の広告が目に入った。東南アジア系の幼い少女の真剣な表情と、「私の人生を決めるのは性別じゃない」というコピーがセットになった国際NGOが女性支援を謳う。
二ノ宮と広告が重なり、「英雄とは、自らの運命を選択に変えた者のことである。」何かの本で読んだ一節を思い出した。英雄の定義に、これほどはまる人はいない。
「長生きしたい」と語った二ノ宮の想いに、共感するものもあった。日々子どもと暮らすことで、この子たちが生きる未来を少しでも良くしたい。殊勝にも考えるようになった。
車両の窓は雨の粒で覆われていて、外の景色はモザイクがかかったようにぼやけている。気だるさをまとう雨の日の車両が、「雨はいやなものを洗い流してくれている」と二ノ宮から受け取ったいま、別の景色になる。二席分のスペースを使い脚を広げて座る目の前の初老男性にも、「お疲れさま」と言ってあげたいほどだった。
校庭を通って校舎に入り、学童クラブのある部屋に行く。葉の姿を探すと、二ヵ月前に来たときと同じように、廊下と壁を挟んですぐの場所に置かれたテーブルに座っている。男の子四人で、雄叫びのような笑い声を上げながらトランプをしていた。
葉も周囲も、私の登場に気づいていない。ドアの後ろに隠れるように、四人で遊ぶ様子を眺めた。
「と、と、とともきのばんだよ」
葉は、友だちにゲームの順番を促している。
「と、と、と、ともきのばんだね」
ともきと呼ばれた少年は、おどけながら葉の口調を真似した。突然ドンっと拳で胸を殴られたようで、目を見張る。
明らかに、からかっている。子どもだからと許されるたぐいのものではない悪意を感じた。葉は、俯いている。ともき以外の二人も、顔を見合わせて口角を上げている。
頭に血がのぼった私は、止めに入ろうとからだが前のめりになる。いたたまれない場に風を吹き入れたのは、葉だった。
「きつおんって、いうんだ」
言葉に詰まることのない、明瞭な声が聞こえた。
そうだった。私はドアの後ろに戻り、落ち着かせる。聞き耳を立てながら、思い出していた。
先週の日曜日に葉が、「話そうとすると苦しくなって話しにくい。なんでだろう?」と私に尋ねてきた。言葉が出にくかったり話しにくい正体は、「吃音」と呼ばれる特性だと、私は症状の名前を伝えた。良いも悪いもできるだけ判断をしないように、ただ事実を説明した。「ふぅ〜ん」と、葉はただ受け止めただけにしか見えなかった。
葉の声が聞こえる。
「わ、わざとくり返しているわけじゃ、な、ないんだ」
輪になっている三人に向けて、葉は顔を上げていた。伝えようとする気持ちから、からだも手も動いている。
「こ、こ、ことばを言おうとしたら、む、むねが苦しくなって、いきも出せなくなって、つーつまってしまうんだよね。や、や、やっと声が出たとおもったら、もうしゃべることを止められなくて」
後半は、早口になっていた。一息でしゃべり切ろうとしたのかもしれない。私の胸が、締め付けられる。葉をからかったともきも残りの二人も、黙って聞いていた。
「い、い、言いたくても、口に出せないかんじがあって。じぶんでも、ど、ど、どうにもできないんだ。だーだ、だから、す、すこしまってもらえたら、う、う、うれしい」
葉は、自分の中にあるものを、自らの言葉で紡いでいた。相手を変えられないかもしれないけれど、伝わらなくても伝える。そんなまっすぐな意思があった。
「そうなんだ! それはようちゃんのせいじゃないね」
屈託ない、男の子の声が聞こえる。数分前に葉の吃音をからかった、ともきだった。声の主のあまりの変わり身の早さと無自覚さに、このやろう!と叱り飛ばしたい衝動にかられる。
「うん。ぼ、ぼくにとって、これがふつうなんだ」
葉の声は、胸を張っていた。
「そうなんだ」
「しらなかった。言えなかったら、かわりに話してあげるよ」
ともき以外の二人も、さっぱりとしていた。
もうこの話はおしまい。そう言わんばかりに、四人はトランプの続きを始めた。ちゃぶ台のようなテーブルの脚が揺れる音がする。何がそんなに面白いのかと不思議なほど、四人でキャハハハとふざけ合っている。
無力で非力な自分の分身だと思っていた存在は、知らない間に、本体のずっと先を歩いていた。扉の陰に身を潜めた私は泣いていた。ほっとしたとき、うれしいとき、涙はこんなにもあふれるものなのだろうか。
ハンカチをカバンの中で探しながら、誇らしさでまた涙があふれる。私は、大きく息を吸い込んだ。
「よう! 迎えにきたよー!」
場違いな大きな声で、息子の名前を呼んだ。妙にテンションの高い母親の声に、葉はハッとした顔でこちらを見て、目を丸くしている。
「ママ、な、な、なんでいるの?」
「会いたくて」
ストレートに伝えた。葉は無愛想に立ち上がった。トランプをしていた三人に手を振り、ランドセルを持ってきて、学童の指導員に挨拶をした。葉と並んで、校門のほうへ向かう。外に出ると雨は上がり、晴れ間も見えていた。
「予定外に迎えに来てしまって、ごめんね」
「べつに、いいけど」と葉は前を向いたまま、つっかえずに言った。手をつなごうとしたら、
「まま、そとではもうやめて」
毅然と拒否され、つなごうとした手を振りほどかれた。驚きと、新鮮な喜びが走った。
子どもは、大人が思うほど子どもじゃない。教室前の廊下で葉の名前を読んでから今もずっと、私の頭の中を「英雄」という言葉が巡っていた。
つづく
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