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摩擦 _『リファ』#35【小説】

 パンデミックの混乱がまだ続くなかで、東京オリンピックが開幕した。

 緊急事態宣言下で、無観客は人類史上経験がない。盛り上がりのない五輪とは異例だし、もはやスタート同時に後始末するような何かに思えた。ここまで来てしまったら、あとは開催が大きな感染拡大につながることなく、無事に終わってほしいと願うしかない。
 
 国立競技場で行われる開会式が、もうすぐ始まる。テレビ画面をNHKに合わせた。夜の都内上空を写すライブ映像が流れる画面の前で、お風呂から上がった葉と銀が裸のまま動き回っている。

 さまざまな競技のアスリートたちの、トレーニングに励む姿が映像に映し出された。間もなくして、国立競技場全体を覆うかたちで金色の花火が噴水のごとく立ち上がった。その華麗さに、子どもたちがおぉと歓声を上げる。

 開催に反対する身としては、こうやって開会式を見ている行為は辻褄が合わないと言われるかもしれない。でも、反対と同時に選手は称えたいとはっきりと思う。明日以降の競技だって観る。

 私はテレビの前に座り、銀を膝に乗せる。パジャマを着せながら息子ふたりに説明する。

 「東京オリンピックが、開幕したんだよ。これから三週間、世界的なスポーツの大会が行われる。そのあとは、パラリンピックといって障がいがあるアスリートたちの大会が開かれるよ。きみらが生きているうちにはもう、日本が開催都市になることはないんじゃないかな」

 「YouTubeで、ヒ、ヒカキンみたい」
 「ぎんは、きょうりゅうがいい」 

 ふたりから、歌うような返事がきた。私は、それには反応しなかった。

 ソファに移り、ぬいぐるみのようにふかふかした銀を膝にのせる。銀の頭皮は、まだミルクの匂いがする。葉が隣に座ってきた。二人からせっけんとミルクが混じり合ったような、健やかで甘い香りがする。

 元メダリストたちが、日の丸の旗の端を持って運び、アーティストのMISAによる君が代の斉唱とともに国旗が掲げられる。国旗が上がりきり、鯉のぼりのように空を泳いでいるところで太一が帰宅した。太一は、何週間かぶりに出勤していた。

 「ああ、おかえり」

 私は、リビングの入口前に立っている太一に声をかけた。「観てるねぇ」と太一がひとりごとのように呟く。「パパ、い、い、いえにかえったらまず、た、ただいまだよ」と葉が指摘する。太一は「ただいま!」と声を跳ねさせながら、ヒグマがいたずら好きの子グマを捕まえるように子どもたちに抱きついた。三人でしばし、毛づくろいをするようにじゃれ合っている。「パパ、きらい!」と言いながらゲラゲラとはしゃぐ三匹の様子に、私のほほがふわりと緩む。

 キッチンには、夕食のしょうが焼きと千切りキャベツとトマトと煮卵に、サランラップのかかったお皿が置いてある。コンロには、なめことワカメの味噌汁の入った小鍋がある。

 「今日はしょうが焼きだよ」と、私は太一の背中に声をかける。

 太一は弾むようにふたりから離れて、立ち上がった。太一はお皿をレンジで温め、鍋に火をつける。

 かつての太一は、会食でほとんど家で夕食を摂らなかった。それがコロナでリモートワークになり、会食も激減し、四人で食卓を囲む日々になった。家族の生活リズムに合わないとき、太一の夕食は作って置いておく。

 太一の分の夕食が用意できないときもあるが、太一は作ってあるときに喜ぶことしかしない。ない場合は、冷蔵庫の食材を使い、野菜炒めやチャーハンなど簡単なものを自分で作った。ないことを想定して、総菜を買ってくることもある。

 できるとき、してあげたいときは夫に作るし、そうでないときには作らない。その距離感が私にはちょうど良かった。嫌いではないはずの料理も、義務になると途端に苦行になる。

 太一は、冷蔵庫から缶ビールを出し、ダイニングテーブルに温まった夕食を並べた。それを前に無言で「いただきます」の姿勢をした。一人の食事にもいただきますをしてから食べるところに、彼の育ちの良さを感じる。

 テレビは、『ドラゴンクエスト』シリーズで耳馴染みのある楽曲を皮切りに、選手団の入場が始まっていた。五輪の発祥国であるギリシャから難民選手団を経て、日本語で国や地域を表した五十音順で入場してくる。世界基準に合わせるのではなく、こういう形で、日本固有の文化を発信するのか。その文化に馴染んだ自分が現在いる場所が、開催国であることが急に迫ってきた。

 葉と銀は、「いろいろ、あるね~」と飽きることなく眺めている。国旗や各国らしさをあしらった衣装、肌や顔つきの違いが面白いようだった。そんな違いのなかで、選手たちのマスク姿は全員に共通している。異様なスポーツイベントにも思えるし、このパンデミックという自然現象を全人類で共有しているのだと希望にも思えてくるから不思議だった。

  「REPUBLIC OF KOREA!」と、女性アナウンサーの声が聞こえた。薄い緑色のジャケットを着た大韓民国の選手団が、入場してきた。選手の顔を見ても、誰一人として私はよく知らない。でも、他国に比べると圧倒的に親近感がある。

 私は、太一に聞いてほしいと思った。テレビを背にし、太一にからだを向けた。

 黙々としょうが焼き定食に向き合う太一に、二ノ宮薫の連載企画のライティングを引きけたこと、二ノ宮の話から受けた影響、その後にヨンエさんと話したことや考えたこと。要点をかいつまんで話した。

 太一は「へぇ~」と、ビールのおつまみのようにみそ汁をすすりながら聞いていた。テレビからは、人気ゲームの楽曲らしきものが流れていた。勇者がこれから挑むのに相応しい演奏だ。私は言った。

 「記事をまとめるのはこれからなんだけど、頭の中で各話の構成はできている。冒頭にくる文章で、私が帰化したが在日だと書くつもり。ライター名も、いつもの山住梨華ではなく、韓国名、チェ・リファ(崔梨華)にしようと思う」

 「えっ、なんで?」

 部屋全体に、わずかに緊張が走った。

 太一は驚いた顔で、銀を膝に抱えて座る私の目を見た。私も太一の目をじっと見る。ゆっくりと息を吐き出してから、説明する。

 「自分の立場……どの立ち位置から二ノ宮薫に取材して原稿にまとめているのか。筆者もマイノリティであると出自を公言してから、二ノ宮の言葉をまとめる。そのほうが、伝わると考えたから」

 「わかるよ」と太一は言った。

 いや、わからないでしょう。内にあるものが高ぶり、反発が走った。私の内側の変化に気づいたのか、銀は私の膝の上からすっと降り、おもちゃケースから手のひらサイズのフィギュアを取り出した。クジラとメスライオンの闘いごっこが始まる。葉もソファから降り、銀の遊びに交じった。太一は続けた。

 「前提として俺は、自分自身に引き寄せて書くライターの原稿は好みじゃない。ライターのフィルターは通っているといえ、できるだけ客観性を持ってインタビュイーの話に触れたいから」

 わずかに怒気を含んではいたが、文芸編集者の太一としての真っ当な意見だった。私は細かくうなずく。自らを落ちつかせるためだった。太一は、言葉を重ねた。

 「今回の場合は、書き手がどの位置から彼に焦点を当てているのか。それが重要である。そう梨華が考えていることはわかった。だったら、帰化はしてるが在日、までの情報で十分じゃない?」

 「私自身が、十分じゃないと思ってるから」

 「韓国名って、帰化もして俺とも結婚して、もう存在しないものだろう? 飛躍してない?」

 私は、太一の言葉を反すうした。しばらく考えてから、自身の心の変化を振り返った。言葉を慎重に選ぶ。

 「これまでの私は、たったひとりでいいから……。それは太一だったんだけど、太一に受容されることで、自分はここにいていい、いる価値のある人間だと承認されてきた。でも、太一に認められることは解決ではなかった」

 私は太一の目を見た。太一は、それを逸らした。

 「もういいでしょ、その私探し。ぜんぜん、わかんねぇわ。執着し過ぎだよ。なんでそう、こだわるんだよ」

 太一は、眉間にしわを寄せた。バカにされたと思った。太一の苛立ちが私に伝播する。「私には私の、正義がある」。そう返すつもりで口を開いた。ところが口から出てきた言葉は、魔物にとり憑かれてしまったようなヒステリックなものだった。

 「なんで、いつも、そうなんよ!」

 止まらない。ソファの下に転がっていたブロックに、手を伸ばす。手のひらに収まるピースを、太一に向かって投げつけた。太一は目を見開き、顔を覆うように腕を上げて上半身をくねらせる。赤や黄色、緑色の塊が太一のからだをすり抜けていく。ばちんばちんと壁にぶつかる。収まりがつかなくなった。

 「なんで、なんで」と声を張り上げて投げ続ける、私を止めてほしかった。ただ抱きしめてくれたら、止められるのに。

 投げられるものが無くなるまで、私は続けた。

 太一は、こちらに目を向けたまま黙っていた。太一が、ゆっくりと缶ビールを飲み干す。私の中を怒りと哀しみが湧き上がる。溢れてくるものを、食い止められない。

 中のものが、外に放たれた。

 「太一はいつもそう。理屈で筋の通ったことを言う。押しつける。論理的に正しいか正しくないかじゃなくて、私の心を見てほしいのに。わからなくても、わかろうとしてほしいのに。私のこと、ぜんぜんわかってない」

 どうして、一番わかってほしい相手に届かないのだろう。近くにいるのに遠い。哀しみは足先まで到達した。 

 泣くな、泣くな、と内なる声が私を励ます。太一は、感情に支配され、感情を使って人を動かそうとするのは子どものすることだ、と嫌がる。知っているからしたくないのに、滝のように流れる涙は止まらなかった。

 太一は案の定、幼稚な相手だと突き放すように言った。

 「わかってほしい、わかろうとしてほしいって。梨華はどれぐらい俺のことをわかってるんだよ。わかろうとしてるんだよ?」

 胸を鋭い剣で突かれたようで、口の中が乾いた。唾液も出てこなかった。太一の顔を見たくないし、いますぐこの場所から離れたい。

 図星でもあった。

 私は求めてばかりいる。私のこの涙も、わかりあえなさに悲嘆しているからではない気がしてきた。太一を責め、同情を引こうとしている。それを太一は見抜いている。

 涙が乾いていく。開会式の晴れ晴れしい入場曲と、カラフルな国旗、テンションの高い選手たちの存在が上滑りする。

 時計の針は、十時半を迎えようとしていた。

 ハッと我に返り、子どもの様子を確認する。ふたりともリビングの床で大の字になって眠っていた。よくこの緊迫した状況で…と呆れつつ、強張っていたからだがほんのり緩んだ。銀の手には、クジラのフィギュアだけが握られていた。

 私は銀の手からクジラを奪い、おもちゃ箱に投げ入れた。ふたりを順に抱き、寝室まで運ぶ。子どものからだが両腕にずしりと重い。

 今夜はこのまま、子どもと一緒に寝てしまおう。

 太一の姿は、リビングになかった。


つづく

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