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そのときしか出せない言葉? _『リファ』#31【小説】

 東京都を中心に過去最悪の感染者急増となるなか、五輪の開催まで一週間を切った。ある世論調査では、中止や再延期を望む人は7割を超えた。首相が意気込んだ「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証としての開催」は、すでに敗北していた。

 緊急事態宣言下に、国内外の一般客を会場に入れず、大会参加者の行動も制限する異例のかたちで開かれる。

 二ノ宮への二度目の取材で、再び新宿二丁目のオフィス周辺に来ていた。都心に来てみても、およそ八年前に招致が決まり準備されてきた祝祭が迫っている熱気はない。

 オフィスのあるビル周辺も、飲食店がランチタイムの賑わいを終えたからか、がらんとしていた。

 ヨンエさんと待ち合わせた時間まで、あと十五分ある。珍しく私のほうが到着が早かった。見るともなくTwitterを眺めていたら、菜々実からLINEがきた。すぐに開く。

 「太一、どっちやった?」

 先月に京都駅前で別れて以来の会話だった。素っ気ない一文から、太一の浮気の話をしているのだとすぐにわかる。

 「わからへん。聞く機会を逃した」

 私はハテナを伴ったうさぎの、コメディ調のスタンプをつけて返した。

 「機会なんて毎日あるやん。太一とその相手は、続いてそうなん?」

 タイミングは毎日ある、か。そうだろうか。気心の知れた相手であっても、むしろ、そういう相手であるからこそ、ある瞬間でしか出せない言葉がある。飲み込んだ言葉について私は考えながら、「それもわからない。スマホを見ようとして、直前で止めた。良心が咎めて」と返した。

 「良心って、真面目か!」

 お腹を抱えて大笑いする、キツネのキャラクターのスタンプと一緒に菜々実からきた。

 菜々実の返事に、私は苦笑いする。笑ったことで風が吹き込んだ。笑い飛ばすという行為は、メタ的な視点に自然と引き上げてくれる。

 「三人の相手と平然と付き合える人には、一生理解できひん感情やろ」

 私は、そういうふうにしかできない自分自身への自虐も、菜々実への嫌味も込めて返した。ポンっと、またキツネがお腹を抱えて笑うスタンプが届く。

  「梨華は、聞かなくていてられるの?」

 私は、それについて考えた。放つべきだった言葉を飲み込んだ。引き換えに、聞かない状態でいることのしんどさを抱えた。気になっているのに、何食わぬ顔でひとつ屋根の下で暮らしている。気持ち悪さはないわけではない。

 私は数日前の太一とのセックスを思い出していた。

 「知ったところで、私は離れられへん」と返事をした。

 突き詰めたところで私の答えは決まってるなら、曖昧なままでいい。すぐに既読になったが、菜々実からの言葉はなかった。

 スマホの画面を見ながら、深刻な表情をしていたのだろう。

 「何かあった?」

 目の前に、心配そうな顔をしたヨンエさんが立っている。子どもを見守るような優しい佇まいだった。一部始終を明るく話そうともよぎったが、やはりこの手の話をヨンエさんとはできない。私は所在なく、二ノ宮のインタビューについて確認をした。

 「前回、出産に至る経緯やエピソード、その考えを聞けました。今日は精子提供者である親友を含めた子育ての具体的な話と、自分たち家族が法制度から漏れている不安や問題点。そのあたりを聞いていきますね」

 「そうだね。最後に五分だけ、私に時間もらっていい?」

 ヨンエさんが、神妙な表情で聞いた。もちろん、叶わない。

 「インタビュー中でも、口挟んでもらうのはむしろありがたいです」

 ライターの中には、インタビュー中に編集者が入ってくることを嫌がる人もいる。私はまったくの逆だった。インタビュイーの心の扉を開くことに集中すると、相手との距離が近くなる。見るべきことに集中すると、ほかが見えない。第三者としての編集者の視点によって、立体的な話を引き出すことができた。記事にするために取捨選択するのは私だから、素材は多いほうがいい。

 ヨンエさんと話しながら、二ノ宮の待つ三階の事務所へ向かった。

 一週間前に訪れた事務所は、無機質な雰囲気のまま変わっていない。以前訪れたときにはなかった、この場所への愛着が少なからず生まれていた。

 マネージャーの桜井が、事務所の奥にある小さい冷蔵庫から麦茶のペットボトルを出してきた。紙コップで渡してくれる。

 ヨンエさんは、桜井から手渡された麦茶の礼としてゆったりと頭を下げてから、「では、早速お話を伺わせてください。今日は撮影はありませんから」と言った。



つづく

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