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環 -めぐり-  #03

 あの日の中で、もっとも記憶しているのは、カフェでの出会いでも、ほこりっぽい夜のプノンペンのまちでも、陽が昇るまでお互いのことを話し続けたことでもない。
 夏の夜に見た、冬を代表する星座。その特別な煌めきは、時間を経た今も、色あせていない。

 外に出ると、雨季の気だるさと熱気がからだにまとわりついた。
 一人で入ったカフェを二人で出たことに、透子は急に照れくさくなった。清人のうしろを歩き、一列になる。
 清人は、何回かこちらを振り返った。前にいながら、透子の歩みを気にしてくれている。
 二人は、旅のルートがたった一日交差したことで、今こうして同じ道を歩いていた。
 透子は、上海から南下して、ベトナムを縦断してカンボジアに入国した。清人はジャカルタから、シンガポール、マレーシアと北上し、バンコクを通ってプノンペンに着いた。
 透子はすでに、明日13時発シェアムリアップ行きのバスのチケットを買っていた。清人も、明日夕方発ホーチミン行きのバスチケットを買っていた。
 計画なんてあってないような旅ではあったが、予定を変えないなら、二人がともに過ごせる時間は、翌日の昼すぎまでだった。 
 見上げた夜空には、オリオン座がはっきりと輝いていた。ベテルギウスとリゲルという二つの一等星が瞬き、中央に三つ星が並んだリボンのような形が、空に鎮座していた。
 日本だと冬の代表的な星座が、あたりまえの顔をして、浮かんでいる。
 今いる土地が、日本の緯度より南にあるから。それだけの話なのだが、Tシャツに短パンでいる夜に出会ったことに、透子は感嘆した。この偶然の特別さを、一層煌めかせるものに思えた。
 「ねぇ、星がすごいです」
 透子は、清人の背中に声をかけた。
 清人は立ち止まって透子と並び、見上げた。静寂が流れた。「きれいだね」と清人の声が打ち破る。
 「オリオン座、わかります?」
 「ん? 星座? まったく知らない」
 清人は、まっすぐに言った。
 同じ空を見ていたけれど、同じものを見てはいない。
 それは、人は誰しも肉体的に独立した一人であることの、哀しみ。他者といることの歓びでもある。
 オリオン座も知らないの? 透子は思わない。
 透子ははっきりと、清人に惹かれていた。
 知らないことを知らないと、わからないことをわからないと言えるのは、知性だと思う。
 九月に出会えたオリオン座について説明すると、清人はへぇ〜と頷き、言った。
 「星座の名前は、その星を見るたびにその人を思い出すから、教えないほうがいいよ」
 ラーメン屋でカウンターに並び、「おいしいね」と言い合う軽さだった。何を言わんとしているのか。清人の感情のありかが、よくわからない。
「どういう意味?」
 素直に、言葉の意図を聞きたかった。
 実際に透子の口をついて出てきたのは、まったく違った。
「『花の名前』って、そんな話でしたよね。 向田邦子の『思い出トランプ』の」 
 放ちながら、小学生男児並みといえる自分のあまのじゃくさに、げんなりする。
 「そんな話だった?」
 「違いましたか。花の名前を、妻が夫に教え続ける話でしたよね。今ふっと、記憶の中から引っ張り出されたんです」
 「敬語は、いつやめてくれるの?」
 予想していなかった返答に、透子は言葉に詰まる。
 この男といると、いつもの自分の調子が狂う。
 あの日、終始こんなふうに二人の主導権を握っていたのは、清人だった。透子は悔しくて、恥ずかしくて、心地よくもあった。
 透子の中心に浮かぶ赤い実は、完全に弾けていた。
 トンレ・サップ川沿いを、並んで歩いた。豪雨のあとでもないのに、コーヒー牛乳色の河川が静かに流れている。
 「そういえば、どうして、私が一人旅だとわかったんですか? 」
 気になっていたことを聞いた。清人のほうを見る。
  清人の視線が、宙に泳いだ。
 「友だちや、連れの男性がいるとは思わなかったんですか?」
 「強面の彼氏がいたら、気まずいよね」
 清人は、飄々としていて、つかみどころがない。
 「一人より、二人以上で来ていると考えるのが自然かなと」
 「三十分ぐらい見てから、声かけたからね」
 清人は、両肩を上げ、いたずらを白状するような顔で言った。
 「えぇ?」
 想像もしていなかった事実に、透子はギョッとした。
 清人は、気にせず続けた。
 「同じ店に、俺が先にいたんだよ。同い年ぐらいで、あんなにかっこよくタバコを吸う女の人、映画以外で見たことなかったから。読んでいる本を凝視したら、親近感も興味も湧いてきて。こっち向け、こっち向け、と思いながら、ずっと観察してた。透子は、まったく気づかなかったね」
  「ちょっと、それ早く言ってよ」 
 透子は、清人が声をかけてくる前の自分を、急いで振り返った。小説に没頭していて、外側からの意識はない。気まずさが体内を通ったあと、全身が緩んだ。
 「現地の怪しげなやつらも、旅行者もたくさんいるのに、透子はショートパンツにサンダルで脚を組んでいた。生脚も意識も無防備で、隙だらけだった。俺が勝手に、心配になった」
 そうニヤニヤと笑い、清人は透子の右太ももをつかんだ。
 「ひやっ」透子は反射的に、清人から離れた。された相手が違えば不快になりうる接触に、喜びが広がる。
 呼応するように透子は、からだごと清人の左肩を軽く押した。顔と顔が、近い。
 清人がつないできた手を、受け入れた。
 川沿いの道に座り、清人のスケッチブックを見た。
 ジャカルタからカンボジアに来た者の旅を、追体験した。清人の描くまちには、無機質なはずの建物にも、人の手触りがあった。
 屋台でビールを飲んだ。はるか先まで続く河川の景色に飽きたら、レストランやゲストハウスのあるほうへ歩いた。
 ひたすら、歩いた。
 ふっと投げた言葉から、ジャズのセッションのようにあらぬ方向に奏で始める会話は、いくら続けても終わらなかった。
 清人は、広島県の呉市で生まれ育ったという。東京の美大を目指していたらしい。一浪したが叶わず、京都の芸大に進んでいた。
  日本画を専攻していると言った。
 「日本画なのに、日本じゃない場所を描いてるの?」
 「西洋画と日本画の差に、明確な線引きはないんだよ。西洋絵画のエッセンスも組み入れるからね」
 清人は、いろいろ説明してくれたが、よくわからなかった。
「いいんだよ、わからなくて。知っていることより何倍も大事なのは、感じること」
 清人は言った。
「自分がどう受け取って、どう感じるか。それだけでいい」とも。清人は、つないでいた手に力を込めた。
 そこだけ切り取れば歯の浮くようなセリフも、馴染んでいた。
 4人きょうだいの末っ子だからなのか、言うこともすることも、実年齢よりもずいぶん大人びていた。
 陽が昇るまでの時間は、すぐに過ぎた。
 眠くなってきたと言い合い、どちらから誘うでもなく、透子の泊まるゲストハウスに向かう。
 ゲストハウスは、一階がレストランで、2階以上が宿泊者用になっている小さな建物だった。
 大麻の香りが沈殿したままの、建物の階段を上る。狭い通路を、清人は、自分の宿泊先のように超然とした態度でついてきた。
 扉の前で、鍵を開ける。背後からの大きな影に包まれた。
 透子の腰のあたりを、馴染みのない感触が固定する。ドアが閉まり切る前に、清人の唇にふさがれた。からだを引き寄せ、舌を絡める。
 一夜で、終わってしまうかもしれない。
 ここまでにして、京都で再会するほうがいい? それが、定型だけど究極のロマンスなのかも。
 そんな打算や、浅はかなセルフプロデュースが、透子の頭をよぎった。オセロの黒がパラパラと白に変わっていくように、薄暗かった部屋に差し込んでくる陽の光は、理性的だった。
 でも、すぐに通り過ぎていった。
 今ここにある欲望を、透子は明るく選んだ。 


つづく

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