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美和先生の家 #01

 自分の身に起きたことがありふれていても、その傷みは、自分だけのものだ。
 「わかる、わかる。私もおんなじやから」
 クラスメイトからかけられた言葉のかたまりが、さくらの体内をめぐり続けていた。そのかたまりは、受け止めることも、かといって受け流すこともできずに浮いたままで、収まるところがない。さくらの体は、異物として認識したみたいだ。
 休み時間の記憶を再生する。
 同じだよ。そうやって励まそうとしてくれたことは伝わってはいた。あの場では、うまく笑顔を作れたと思う。笑ってしまった、のかもしれなかった。引っかかりがあるのにその場では受け止めきれないとき、さくらは笑うことで反応するところがある。面白くなんて、ぜんぜんないのに。
 わかる、わけないじゃないか。同じ境遇だからと、雑に、自分を重ねてこないでほしい。
 背中のランドセルが重い。顔と名前をまだ憶えていない他人からの言葉に、いちいち悩んでいる自分には、もっとじりじりする。
 通学路とは違う道を、一歩、二歩、三歩と数えながら進む。このじりじりした腹立たしさは悲しいに似ていて、さくらは思わず鼻をすすった。せり上がってくるものを押し返したくて、端に転がっていた缶コーヒーの空き缶をわざわざ蹴りにいく。青い缶は、入れた力以上によく跳んだ。用水路を飛び越え、刈られた稲の切り株と乾いた茶色い土の間に、人工的な青が収まる。
 まだ田植えの準備が始まっていない田んぼは、全体がうす茶色をしている。その先には、コンクリートでできた橋脚がある。等間隔に並ぶ橋の脚と、一帯に広がる田んぼの中を進んだ先に、美和先生の家がある。

 さくらが美和先生の家に行き始めたのは、冬休みが明けた一月からだから、もうすぐ一ヶ月になる。
 美和先生は、母と行ったスーパーの掲示板に、堂々と登場した。「河神高校に通う高校1年生、お子さまに学習習慣をつけます。放課後そのままお越しください」。白い用紙に印刷された二行の募集要項の下には、新井美和と署名があった。自筆と思われるそれは、学校の先生が書くような整った字だった。
 時代遅れといえる募集方法だったが、さくらの母はスーパーの窓口へ飛びかかるように問い合わせ、美和先生に電話をした。たった二行の募集ながら、募集主が聡明であることはさくらでも想像ができた。
 河神高校は、京都市内でも有数の公立進学校だ。放課後の“預かり”も兼ねた家庭教師募集、その募集を載せる先がスーパーの掲示板という場所選びも、小学生がいる働く母親の需要を押さえている。力強い自筆も信頼を後押ししていた。
 「十一歳なんです。働きに出ている私なしで家に置いておくのは、何かあったときに心配で。河神高校の学生さんが、勉強を見てくれはりながらそばにいてくれるのは、願ってもないことです。娘と私は、下鴨から引っ越してきたばかりなんですよ」
 さくらは身構える。この後に続くであろう母の言葉とそれを包む嫌な感じのものを、さくらは知っている。
 「左京と南のこのあたりは、全然違って。同じ京都なのかと思うぐらいに別世界で、私はわからへんのです」
 下鴨、左京区とは違う世界の南のこのあたり、ここも同じ京都なのか。本人は無自覚なのだろうか。こうでもしないと自分を保てないのだろうか。母の口からはときどき、この土地を見下すものが漏れる。
 「お会いしてお話しましょう」
 さくらの居心地悪さを吹き飛ばすような落ち着いた声が、スマホ越しに届く。


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