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南の島のフェスで僕は泣いていた

 泣きたいと思っているのに、涙が出てこない。心の矛盾に違和感を覚え、ふてくされたくなった。自分の感情がよく分からない。

 だけど涙は突然きた。あの曲を聴いたとき、私は構えていたカメラのファインダー越しにそのバンドを見つめながらわんわん泣いた。


 私は2013年、沖縄・石垣島にいた。3月に引っ越し、11月に東京へ戻るまで、石垣島はずっと夏だった。私は東京で生まれ育ち、特に夏が好きだ。東京のほこりっぽくてアスファルトの焦げた匂いがする夏。そのいつもの光景は白い波と珊瑚礁の風景に変わった。

 石垣島の夏は常に、「湿度が90%くらいあるんじゃないか」というくらいの湿り気を感じる。草木や花が呼吸している空気と匂い。海を通ってくる風には潮の香り。湿気を飛ばすためには日光だ、と思って外に飛び出すと肌が痛い。「夏の日差しって強いよね~☆」とかそんなきゃぴきゃぴできるレベルじゃなくて、機械的に出された光線が突き刺さっているのではないかというくらいの容赦ない痛さだ。
 はじめての一人暮らし、慣れない土地。「湿度と日光が私を拒んでいるのではないか」と卑屈な考えが頭を占め、引っ越してきてから1、2カ月経つと鬱屈とした気持ちになっていた。

 ただ、さらに月日がたつと、石垣島の雄大な自然が私の鬱屈した気持ちを乗り越え、魅了するようにもなった。
 雨が降ると島が沈んでしまうのではないかと思うくらい水がたまる。東京の雨は電車移動の多かった私にとってうっとうしいものだったが、石垣島の雨はバイクで移動する私の足を止める強制的な力をもつものだった。あまりの強さに、雨宿りをしながら空を眺めるしかなかった。天気に左右される生活は新鮮で、雨を見れば見るほど好きになっていった。自分ではどうしようもないことがこの世にはあるんだなといつも考えていた。

 そして、空の面積がとにかく広い。大きな雲が出たときなんか、足下から頭のてっぺんまで自分を覆うように一枚の雲を見渡せる。「あ~すげえ~~~」。そうやって徐々に自然に魅せられながら、気づけば6月の終わりだった。

 高い湿度と日の強さに疎外感を感じたあのとき。石垣島の自然に魅せられたあのとき。私の心の中には矛盾する二つの感情が漂っていて、石垣島にいるのが楽しいんだか、嫌なんだかよく分からなくなった。「東京に帰りたいけど、石垣島も好きだな」。東京の友達とラインや電話をしても、石垣島に住んでいる友達ができたり職場の人と飲みに行ったりしても、矛盾した気持ちを抱えているのが不思議で、さみしい感じもして、もやもやとした感情を抱えては海に向かった。月と海を見ながらビールを飲むと、孤独が押し寄せては引いていくのだった。

 石垣島では、今と同じように新聞社で働いていた。地域イベントの取材などを担当していた私は6月末、一つの音楽フェス「きいやま農園ライブ」を取材するよう命じられた。テレビにも出演するようなビッグアーティストがくる。そして、地元で有名なアーティストも歌う。私が石垣島にきたころは、新空港ができたばかりで、地元アーティスト「きいやま商店」がテーマソングを島民と歌って踊っていた。まちのいたるところでその曲が流れていたため、なんとなく親しみを感じていた。私は胸を躍らせながら会場に向かった。

 会場はたくさんの草木に覆われた広場。南国特有の濃い緑色の葉をつけた木が大小様々に生えている。ステージは高校の舞台くらいの大きさだが、島のプロたちがせっせと機材をスタンバイしていた。フェスが始まるのは夕方から夜にかけての心地よい時。当日はかんかんに晴れていたわけではなかったが、雲が夕焼けの色をうつす様子はずっと見ていられるほどきれいだった。

 フェスが始まる。石垣島の人たちはなじみの地元アーティストに拍手を送りながら、にこにこと舞台を見つめる。子どもたちが走り回ったり、フランクフルトや石垣牛の串焼きなどを食べながら楽しんでいる。大人たちもオリオンビールや島酒(泡盛のこと)を飲み、踊り出す。その踊りはカチャーシーなどの沖縄独特の踊りで、本州で行っていたフェスとは全く違う雰囲気だった。

 きいやま商店のライブの番が来た。私は舞台のすぐ前を陣取り、アーティストとお客さんの両方の姿を撮影することが仕事だった。登場とともに会場は沸き、島内での人気が分かる。数曲やると島民はどんどんと前に押し寄せ、後ろで座っていた客は立って見始めた。島民たちの興奮が心地よく、自分も同じように音楽を楽しみながら仕事ができていた。そして、私が聞きたかった「おかえり南ぬ島」が始まった。ギターと三線の音が流れると、私はふと自分の世界に入り込んだ。

 石垣島に来た理由は、将来、新聞記者になるためのインターンシップだった。大学に入学したころは雑誌編集者になりたいな、と思っていた私だったが、バレーボールしかやっていなかったし、文化的な素養が0だった私にその夢を叶えるのはなかなか難しいものがあった。それならば、この体力が買われ、憧れの世界とも近い職業はないのか、と考えたときに新聞という世界だった。割と真面目に生きてきた自分にとって、正義や社会のためを思う働き方がしょうにあっているなと思った。

 でも石垣島にきた本当の理由は、現状から逃げ出したいという気持ちからだった。大学までバレーボールをやっていたが、大好きなバレーボールのプロ選手になれないことは分かっていた。大学でバレーボールを続けた理由は高校生のころに不完全燃焼で終わったからだが、高校のチームより実力がない大学のチームではその悔いは晴らせないことも気づいていた。自分の性的指向にも迷いがでて、親友の「そぼろ」ともそのことでもめて仲違いをしてしまった。彼女はいたけど、将来が見通せない。一時的な関係だということは明らかだった。
 自分の人生に迷い、そこから逃げる手段を頭を使って考えだし、正当化し、行き着いた先が石垣島だった。そこで楽しさも孤独も感じ、逃げたくなったり、ずっと住んでいたくなったりして、自分は何をやっているんだろう。そんな感情が曲を聴きながらぐるぐるを駆け巡った。

「白い波とサンゴ礁 Oh~Oh 島を囲む カラ岳が見えたよ Oh~Ohもうすぐ逢える」
 歌詞を聴いて気づいた。これは飛行機から石垣島を見たときの風景だ。


 境遇とかいろいろな迷いはひとまず置いておいて、石垣島の人たちは私と同じように自然に魅了され、ときに傷つきながら島で生活しているんじゃないかと。彼らが歌いすすめる島の風景は、私が心に残ったこととほとんど合致する。そして私は、夜の町を歩くと三線の音がどこからでも聞こえてくるこの島のことを、もう知っている。東京や将来についていろいろと考えることはあるが、私はしっかりと島になじみ、島民になってきているのだ。逃げた先というよりも、自分の居場所が一つ増えているのではないか。

 安心を感じた途端、涙が出てきた。大都市圏では知られていないような、音楽好きばかりが集まるわけではないこの小さなフェスで、私は島の人とこの島の好きなところを共感できている。その共感は、島の人たちが”今の私”を受け入れ、「迷ってもいいよ。とりあえずここにいなよ」と包んでくれているようだと感じた。島の人たちとゆるくしっかりとつながっている。そう思うと涙が止まらず、曲の5分間をほぼ泣いていて仕事にならなかった。島民は誰も私を見ていないし、注目なんてしていない。だけど温かく受け入れ、そばにいることを許容してくれているのではないか。
 大トリに出てきた有名アーティストを写真に収め、原稿を作って上司に投げ、仕事は終わった。翌日の紙面には何事もないように普通の記事が載った。

 行動だけでは、言葉だけでは、考えているだけでは分からないことがある。それは自分の周りで起きていることも、自分の中で起きていることもだ。島民の表情や空気、温度や空、そして曲に込められた些細な音や言葉や思い出が角度を変えて私に刺さり、安心感をくれた。

 安心感が生まれると、自分の感情を真っ正面から受け止め、考える余裕ができた。
 この島で嫌に思ったことも、圧倒されたこともすべてが自分の感受性に素直になり得た感情だ。誰のためでも無く、私は私のために将来に悩み、笑い、泣き、生きているんだと思った。今目の前の感情を受け入れ続け、感じ続けることがここまで大変で、でもここまで楽しいことなのだと強く思った。生きるのってこんなに楽しいんだなと。将来をどうするかについてはまだ答えが出ないけど、自分の気持ちを感じ続けて生きていこうと思った。

 フェスの感動が尾を引いていた翌日、電話がなる。「すみません、環さん。昨日伝えませんでしたかね?フェスで最後の大物アーティストの写真を掲載するのは禁止なんですよ」私はその注意を聞かされていなかったが、主催者側に謝り倒した。

 はあ~海でも行くか。

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