- 運営しているクリエイター
#メモ
雑考・日記・メモ「逆説的協同」
逆説的協同
1人で為そうとする時に、決して1人では為せない事を強く感じてしまう。
どこまでも独りになろうとする事によって、関係の中に在らざるを得ない事を思い知ってしまう。
コミュニケーションはディスコミュニケーションの中にしか芽生えなという、この逆説。
そして協同とは、実はそういうところから始まるはずである。
2024年2月6日
哲学・日記・メモ「老人とこども」
「老人」と「こども」
「老人」は高齢者ではない。
「老人」は必ずどこかに障害を抱えている、という意味では障害者であるが、障害を必然として受け入れる事によって障害者ではない。
また「老人」は生の中のみに生きるのではなく、死と共に、そこに近しく在るという意味で「こども」である。
そして「老人」は、独りであると同時に、これまで出逢った総ての人々として多である(※)。
つまり「老人」は人であり人間てあり
哲学・日記・メモ「音楽的なるものと絵画的なるものについて」
「音楽的なるものと絵画的なるものについて」
音楽の本質が、世界の開闢に向かう根源的志向であるのだとしたら、その過程で切り捨てられていく非本質な属性とは、具体的な言葉・歌詞の、まさにその具体性なのではないだろうか(この具体性・属性を「内容」とするならば本質は「形式」となる)。
音楽の本質は「旋律」にあるのだろう。
しかし・・・ある曲を聴くとき、私は歌詞を抜きにしてその曲に魅かれる事はない。
「
哲学・日記・メモ「かえらなかった時計屋さん」
「かえらなかった時計屋さん」
https://www.youtube.com/watch?v=lPTsudui3kI
「みんなの歌」1978年の楽曲です。私が子供の頃に聴いた「みんなの歌」で強く記憶に強く残っている曲です。
今にして振り返ってみれば、この歌詞は東西冷戦を暗示していたのだとも思えます。終盤の「大きなロボット」と「おじいさん」の決闘は、おじいさんがロボットを抱えて飛んで行って「二
哲学・日記・メモ「口笛を吹く」
「口笛を吹く」
時たまに口笛を吹きたくなる。
そんな時は不思議と必ず、車を運転している時なのである。
それは何故だろうと思う。
それは車内に私一人、しかいないからではないか?
誰にも「聞かれない」からである。
しかし本当にそうだろうか。
誰にも聞かれたくなかったら山の中や河川敷でもいいのではないか。
でも口笛を吹くために山に入ったり河川敷に赴くのは面倒だ。何故ならば口笛を吹きたくなる時は、突然に
哲学・日記・メモ「枠と総合性、そして絵画的なるもの」
「枠と総合性、そして絵画的なるもの」
教会において「建築」という「総合性」を保証していたのは壁であった。そして壁は「絵画」においては「枠」となった。
この「枠」を継承しているところが絵画がそもそも総合的であるという事であるだろうし、それは絵画は音楽のように本質的ではないという事でもある。だから真に画家が「絵画的なるもの」を志向するのならば、彼は世界の本質に背を向ける事で、新しい世界を総合的に創
哲学・日記・メモ「等価交換の事」
等価交換の事
等価交換って本当に可能なのだろうか?
「等価」なら交換の必要すらないのでは?と思うから。
むしろ、「交換」はそもそも「等価」の関係に生じるのではなく、優劣や不公平の最中に生じるものなのだ、と言う方が腑に落ちる。
強いて言えば、その隠蔽か「等価」を語らせているのだとしたら、つまり貨幣の等価性とは「そういうもの」なのだろう。