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【目印を見つけるノート】1511. 清泉女子大学の講座2日目メモ

今日は基本外出をせず、書いたり勉強したり洗濯したりの日にしていますが、『オデュッセイア』にことのほか時間がかかって慌てているところです。

夕方ようやく外に出られました😅

そうだ‼️
昨日の聴講のお話も書くんだった。

清泉女子大学の大きな木🌳

昨日は清泉女子大学の『土曜自由大学』の講座の後半2つを聴講してきました。前半の2つは大まかにはロシアと宗教についてのテーマ講義でしたが、後半2つは大まかにくくると「歴史」でしょうか。そう簡単にはくくれないテーマでした。ひとつめは『近代世界システムとカリブ海賊』、ふたつめは『残留日本兵の歴史』です。

◆ひとつめの講座

ひとつめの『近代世界システムとカリブ海賊』(清泉女子大学文化史学科・桃井治郎教授)は歴史のものの見方から意外なカリブ海賊の正体?まで、知っているようで知らないこと(たいていそうなのですが)にいくつも気づく内容でした。

歴史の見方というのは従来、一国ごとのタテ割り、近代化が進む経緯、どこも同じような過程を経て発展していくーーというような考え方でまとめられていましたが、40年前にイマニュエル・ウォーラーステインの掲げた『近代世界システム』では個別の国が複雑に関わる「世界」をひとつのものとして捉え直します。資本主義がその大きな軸になっていて、発展に伴って不等価交換、周辺から中心に余剰な資本が流れるといった平等ではない事象・流れが現れます。15世紀末のヨーロッパからそれらが生じ、段階を経て今日の世界に至っている、という考え方になります。

そのような考え方の基本を踏まえて、海賊の歴史に入ります。今回は15世紀以降のカリブ海賊のお話で、大きな契機はやはり大航海時代でした。エンリケ王子、バーソロミュー・ディアス、コロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマなど世界史の教科書でお馴染みの名前が続きます。ガマの話はこの前書きました。
最初期の航海者には顕著ではなかったにせよ、次第にそれらは植民地化、略奪・収奪といった方向に舵が取られます。
航海による成果をどの国が得るかという取り決めについては、1494年のトルデシリャス条約、1529年のサラゴサ条約がありますが、二つとも当時大航海を推進していたスペインとポルトガル間のものです。ここからあちらはあなた、こちらは私というようなものです。仲介を教皇がしていますが、西洋司法裁判所のような役割だったのかもしれません。ただし、教皇の出身国によってさじ加減が変わるようなものでした。
時代が少し進むと、スペインとイギリスが海の覇権を争うようになります。ポルトガルは途中からスペインに併合されるからです。
今回の『オデュッセイア』はポルトガルを併合した王の初登場回でした(余談)。

そのような流れがあって、カリブ海賊のお話が出てきます。
1573年、イギリス人ドレークがパナマ地峡でスペインの輸送隊を襲撃します。覇権を争う中ですので成り行きとも解釈できますが、だとしても一方的に襲うというのは立派に「賊」がつく行為です。1577年にもドレークは太平洋側に出てまたスペイン船を襲撃します。そして太平洋ルートでイギリスに戻って多額の収益?を献上します。
おとがめなし、いや、誉められた。
最終的に彼はアルマダの海戦で活躍し、軍人としても栄誉を極めることとなります。

以降、17世紀に入って退潮になったスペインに代わりフランスもカリブ海にやって来ます。そして元からいるスペイン船やスペイン領の地域を襲撃するようになりました。この収奪者を『バッカニア』と呼びます。これら一連の行為は広く私掠として公的に認識され『私掠状』というのが発行されるようになり、対象が民間船にも及ぶようになりました。認可制って、理解の範囲を超えています。
うーん☹️
17世紀か、あるいはもっと前には、当初航海者のパトロン国が求めていた中南米の金銀財宝というのは枯渇していました。そこで今度は砂糖や、のちには綿花を作らせろということで、プランテーション経営が始まりました。賃金などほとんどありません、
加えてアフリカなどから人を集めて奴隷として売り買いをして労働に従事させるようにもなりました。アシエントです。
人権って?

一方で海賊の跋扈にも歯止めがかけられます。18世紀初めのスペイン継承戦争(1701~14)を受けて、私掠行為は禁止されることとなりました。貿易(とは書きたくないですが)の内容が変わったことで、国にとって私掠のメリットはなくなったからです。ただ、海賊は非合法の存在として残っていました。この時代に海賊王……ではなく伝説的な海賊が登場し、今度はイギリス海軍と交戦するようになります。黒ひげティーチ、女海賊アン&メアリ、バーソロミュー・ロバーツなどを先生は挙げられましたが、うん、ちょっと興味あります。

以上がお話の内容でしたが、認識が変わりました。そもそも、誰がどうして海賊になるのかということにまったく思いいたってませんでした。
『オデュッセイア』でオスマン・トルコの海賊赤ひげでしたっけ、多分そうだと思うのですけれど、彼のことをプレヴェザの海戦のときに書いた記憶があります。ああ、バルバロス・ハイレッディンですね。
ドレークはそれと似ているのかなとちょっとだけ思ったりしますが、彼がカリブ海賊の走りだとは知りませんでした。

それも世界の流れと濃い関係があるのだと思いました。

紫陽花が道すがらのそこらかしこに見られます

◆ふたつめの講座

さて、
次は『残留日本兵の歴史』(二松学舎大学文学部・林英一准教授)です。
こちらはさらに初めての世界でした。
太平洋戦争が終了した後、配属されていたインドネシアから帰ることを選ばなかった日本兵の皆さんの歴史、ライフヒストリーについてです。この戦争についてはいろいろな視点があると認識していますが、お話の柱は「帰らなかった背景」と「インドネシアでの日々」、そして「身分の保証」についてでした。先生はこのテーマを知って、7名の対象者への聞き取りに始まり、フィールドワークと研究を重ねられています。

メモしかないので不正確な部分があると思います。ご容赦ください。

日本に帰らなかった、帰れなかった軍属の方のお話はしばしば耳にします。グアムにいた横井さん、フィリピンにいた小野田さん、『ビルマの竪琴』(竹山道雄さんの小説)、他に日本人残留孤児のニュースも見ましたし、シベリア抑留の話も……それは私があらかじめニュースなどで見聞きして持っていた知識で、それぞれの状況は異なります。

今回はインドネシアについての話です。

まず現在、残留日本兵がすでに当該国にはいらっしゃらずご遺族だけであることと、またその言葉の定義について説明された後、1946年からの流れについて述べられました。
帰還を呼び掛けるチラシ(伝単)の内容がスライドで出てきました。脱走は厳罰というのがあって、1546年6月15日を越えたら連合軍に引き渡すという文言もあるのですが、実際は極刑に処されるようなことはなかったようです。それで帰国した人もいました。
そうでない人もいました。

帰国しなかった人の理由を先生は下記のように挙げました。
【自発的に帰国しなかった】
・インドネシアを独立させるため
・一旗あげて逃亡兵の汚名を晴らす
・妻子がいる
・日本にいるよりいい
・死に場所を求めて
【消極的理由】
・インドネシアで一軒家と女性を与えられるといわれた
・軍隊がイヤになった
・流言飛語(引き揚げ船が爆破される、強制労働させられる)を信じた
・戦犯となるのを恐れたーーなど

また陸軍病院に置き去りにされたという人もいたそうです。

そうしてインドネシアに残った人はそれぞれの道を進んでいきます。

インドネシアとイギリスの間で武力衝突が起こります。のちにオランダとも交戦しますが、1949年までインドネシア独立戦争が続くこととなります。この時期にインドネシアに協力した残留日本兵がグループで参戦しました(全員ではありません)。ただ、その立場は微妙でした。国際関係上、日本人としての参戦はできないので遊撃隊というような位置付けでした。映画『七人の侍』のように前面で縦横無尽に暴れ回ったということではなかったようです。それでも訓練中に銃の暴発で亡くなったり、腕を失くした方もいてたいへん重いつとめでした。

そしてインドネシアの独立が成った後ですが兵としての仕事はなくなり、本国へ強制送還される例も出てきました。インドネシアの国籍・市民権を得たいという希望もなかなか叶いません。この時期日本とインドネシアの間に国交がなかったことも影響しています。
それが氷解したのはスカルノ大統領の時代、1960年代のことでした。1963年12月18日、インドネシア国籍の取得が一気に認められ、彼らの地位が保証されるようになったのです。1982年以降は日本でも里帰りの呼び掛けや恩給の支給など彼らの立場を保証し、名誉を授与するに至りました。

その最たるものがニ代の天皇ご夫妻がそれぞれ違う年にインドネシアを訪問され、遺族に面会したことです。
今回のテーマの副題でしたがそれはこの話のひとつの到達点です。
そこに至るまでの道筋があり、人生がある。それをきちんと残しておくことはとても大切だと思いました。

◆聴講しての雑感です

歴史という以外に共通点がなさそうなテーマだと思われるかもしれませんが、大いにあると思いました。

歴史に人は翻弄されるというのがひとつ、
その時代や国、人なりの先入観や固定観念があるというのがふたつ、
一時的な評価は絶対ではないのというのがみっつ、
多視点の近距離と俯瞰が必要だと感じたのがよっつ、ちょっと似た点もありますね。

林先生は「○○の視点」と講座の節だてを変えていらっしゃいました。当事者の目線、連合軍の目線、インドネシアの目線、そして日本の目線というように。また桃井先生も歴史の見方を変えるお話をされていました。テーマをどう捉えるか、別の角度からはどうかと展開してその精度、次元を上げていくーーことかなというように私は感じました。

前回の講座と合わせて、たいへん勉強になりました。紹介いただいた先生のご著書や参考図書にも目を通してみたいと思います。
教わる機会をいただいて、ありがとうございます。

展示作品
展示作品

あと、清泉女子大学ではウクライナの子どもたちの絵画展を6月5日までやっています。外部の人でも観覧可能ですので、ぜひ。
今日もハルキウのショッピングセンターが爆撃を受けたとニュースで見ました。

平和が一刻も早く戻ってきますように。

講座や講演を拝聴してつくづく思うのですが、レジュメを眺めながら聴いているだけでは(個人的には)学習にならないです。そもそも、それで終わらせてはもったい無さすぎです。また、ノートに書き取るだけでも不十分で、自分でレポートしてみるのが大切なのだなと思いました。そうですね🤔取材して記事を書く感覚でしょうか。そこまでして初めて、「講座を聞いた」と感じられるように思います。

今日は『オデュッセイア』で神聖ローマ皇帝の痛風について書いていたのに始まり、1日じゅう洗濯か書くかどちらかで過ごしました。神聖ローマ皇帝の痛風の様子について書かれているものはあまりないと思いますので、よろしければ。

鰻とビールの組み合わせはよくないようです。そもそも16世紀にもビールってあったんですね🍺

湾岸より五反田の方が飛行機近いな✈️

私にしては長文になりました。
それでは、お読み下さってありがとうございます。

尾方佐羽

追伸 これからスペイン語講座です✨

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