見出し画像

母の隣りは

五月の連休、帰省した実家の庭先でビールを飲んでいたら、母が家から出てきた。育てている花や野菜の様子を見て、水をやって、それから私のいるベンチに腰掛けた。少し横にずれて、並んで座る。

あの花はお隣の○○さんが株分けしてくれたものだとか、来月に入ったらオクラの苗を植えるのだとか、楽しそうに話している。移住したら家庭菜園をやりたいって言ってたもんね、夢が叶ってよかったねえ、なんて思いながら、私はふと気がついた。あれ、私いま、緊張していない。母と二人で居るのに。

そういえば前回遊びに来たときも、いや、しばらく前からそうだったかも。
母の隣でも緊張しない。
そんな自分に私は静かに驚き、密かに動揺していた。


ずっと家族の話を書いていながらなんだが、私と両親は特別に仲が良いというわけではない。たぶん、普通。
大好きだし大切なのはもちろんだが、好意や敬意と同時に、どこか畏怖の念のようなものがあり、子どもの頃から一定の距離感を感じていた。特に母親に対しての畏怖が、私は強めだった。

なぜなら、性格やキャラクターがまるで正反対だったから。
テキパキしていて手先が器用な母と、のんびりマイペースでなにかと不器用な私。
働き者でいつも動き回っている母と、ぼーっとしているのが好きな怠け者の私。
思ったことはなんでもハッキリ言うタイプの母と、自分の感情をあまり強く出さないタイプの私。
見事に反対だった。

母にとっては当たり前なことを、娘は全然しようとしない。
脱いだ服の片付けも、翌日の持ち物の準備も、質問にハキハキ答えることも、意地悪されたら言い返すことも。
母が上手にできることを、娘はことごとく不得意でちっとも上達しない。
折り紙も、塗り絵も、逆上がりも、工作も、裁縫も、ピアノも。

母は私を「できる子」にしようと奮闘し、厳しく接した。当然小言は増え、咎める回数も多くなる。すべては娘のため。それでも私たちの「違い」は、私の成長とともにどんどん明確になっていく。
期待する母と、応えられない娘。
思い通りにいかない子育ては、母にとってストレスの連続だっただろう。実際、私は小学校に入る頃にはすでに、母が私に対して抱く苛立ちや歯がゆさを感じ取れるようになっていた。

あれは小学校3年生の授業参観日のこと。クラスメイトたちがはりきって挙手する中、私は黙って座っていた。前日に母と予習した内容なので答えはわかっていたが、自分以外の子がたくさん挙げているし、うっかり当てられて目立つのも嫌だし。
ふと教室の後ろを振り返ってみると、刃物のように鋭い母の視線とぶつかった。親たちがニコニコと参観している中で、母だけが「わかっているのになぜ手を挙げないの」と責めるような目で私を見ていたのだ。
あの時の母の表情と、それを見て「ひっ」となった気持ちを、今もはっきりと覚えている。そして、あの時の母の気持ちが、今ならわかるような気がするのだ。元気に手を挙げる我が子を見たかったはずなのに、ごめんねお母さん。

もちろん、面と向かって罵られたり人格を否定されたりしたことは一度もない。私の個性を尊重しながら、辛抱強く、愛情深く育ててもらったことは疑いのない事実だ。毎日おいしい食事をつくり、きちんとした格好をさせ、たくさん話を聞いてくれた。運動会には豪華なお弁当を用意して大声で応援してくれたし、教師の心ない言葉に傷つけられた時には、すぐに学校に電話して抗議してくれた。
母はいつもちゃんとしていて、強くて、私を育てるためにあらゆることをしてくれていた。

しかし、母の「ちゃんとしている正しさ」は、私をいつも身構えさせた。
母に比べて何かと劣っているという自覚はあったし、自分が母の理想をかなえていないことにも薄々気づいていたので、彼女をがっかりさせていないか、また叱られないか、いつも気にしていたように思う。母が嫌がりそうなことはしないように、なるべく喜んでもらえる行動をとるように、そう考えるクセがいつのまにか身についた。服や靴を買ってもらう時も、本当は色や飾りがかわいいものが欲しいのに、母が好むシンプルめなデザインを選ぶようにしていた記憶がある。

そんな子どもだったので、母と二人きりになるとちょっと緊張した。家族みんなで出かけた先では、できるだけ二人きりにならないよう父やきょうだいの動きに目を配った。母親とは親友みたいになんでも話せるとか、母娘で旅行するとか、そんな話を耳にするたびに驚愕した。私にはありえなさ過ぎて、とても信じられないことだったから。

そんな私でも、成長するにつれて母に対する感情は変わってくる。思春期には母の正しさ、完璧さを煩わしく感じることが増えたし、成人する頃には一人の女性として気にくわない気分の時もあった。「どうせ私はお母さんみたいにちゃんとしていないから」と開き直って反抗的になったりもした。
就職したての頃、社会に出ただけで急に大人になったような気がして、専業主婦の母を見下すような態度をとってしまったことがある。今思い出しても本当に恥ずかしくて申し訳ないし、さすがの母もあの時は辛かったと思う。お互いを労りあったり優しくしたりできない、一番相性の悪い時期だった。

その後、私は一人暮らしをするために家を出る。そこからは一転、母との関係はとてもラクになった。言い方は悪いが、母と会う時だけ娘の役割を果たせばいいわけで、その距離感が私にはとても快適だった。離れたことで母への感謝や尊敬も改めて感じられたし、その気持ちを素直に伝えるられるようにもなった。

そして決定的だったのが、両親の移住をサポートしたこと。初めてのパソコンを教える、情報収集スキルを身につけさせる、物件がなかなか見つからず諦めそうになるのを叱咤激励する、などなど、私にもできること、私にしかできないことが次々と出てきた。母よりも私が「できる」立場になる、前代未聞の事態が起こったのだ。
このまさかの逆転現象を経験したあたりから、私の中にあった母への緊張感や劣等感は少しずつ小さくなっていったのかもしれない。コンプレックスからの解放。新たな関係の獲得。同じゴールに向かって一緒にがんばった二年間が、私を変えていた。そして、両親が移住してからおよそ六年たった今、私は、自分に起こっていた変化にはっきりと気づいたのだった。

今、私と母の関係はちょうどいい。先述の授業参観の"事件”も、笑って話せるようになった。
「子育て中はいつも必死で余裕がなかった。私もしんどかったけど、あなたにも悪いことをした」
そう言われたのは、もうだいぶ大人になってからだ。母なりに、当時を振り返って思うことはいろいろあるのだろう。
余裕がなくなるほど必死に、どれだけ大切に育ててもらったことか。今ならわかるよ、ありがとうお母さん。

あれから時間が経って、私は四十路を越えた。相変わらず不器用で雑でどんくさいけれど、仕事があって、好きなビールが飲めて、今のところ後ろ指をさされるようなこともなく、けっこう楽しく生活できている。
これは間違いなく、母のおかげだ。ちゃんとした母に、ちゃんと育ててもらったから、今の自分がいる。心からそう思えることに、改めて感謝したくなる。



五月の心地よい風が、並んで座る私と母の間を通りぬけていく。
こんなおだやかな時間がまた過ごせるよう、これからもたくさん会いに来よう。
母の隣でいつも緊張していた昔の自分に、私は心の中でそっと手を振り、別れを告げた。

あくまでも娘側から見た親子の話です。
母の子育てに大きな欠陥があったとか、精神的な虐待を受けたとかは、まったく思っていません。
かなり個人的な感情なので、どこまで書いていいのか、そもそも書いていいのかすごく迷いましたが、
どこかで一度、自分の中で整理をつけておきたいと思っていました。
これでまた、家族のことを書いていけそうです。




この記事が参加している募集

#振り返りnote

84,139件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?