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549.【ある夜の出来事】クリスマスの奇跡の贈り物~

クリスマスイブの夜

昨日はね、coucouさんの会、300回記念日(つき1回の25年目)開催となった~
なんと超忙しいイブだったんだろう…

毎年、クリスマスイブには何かが起こる…。
昨年は、coucouさんは入院中、父は12月入院、母も12月入院、そしてお別れの月~coucouさんがすべての人生を失ったときも12月、だから本当はね、12月やクリスマス、年末なんて大嫌いなんだ…。

だって、みんな幸せそうで、楽しそうなんだもの~
だから、嫌いなんだ…。


©NPО japan copyright association Hiroaki

今日は何が何だかわからないクリスマスイブとなった~

まず、coucouさんのもう一人の父の退院祝いをしたんだ~
会を移動してもう一人の父の家で開催することになったんだ。
もう父は歩けない…。肺に穴をあける手術をして水を抜き、とりあえず退院…。
肺がんを患い、肝臓にも転移。酸素呼吸器付きで自宅で最期を迎える、余命1か月から2か月と医師からの宣告を受けた…。

coucouさんは駄目ならば、もう、生きれないのなら、最後は退院させて自宅でやすらかに終わりにしてほしい、と家族にお願いした。

それはね、coucouさんの父や母は病院で息を引き取ったからね…。
その後悔が、もう一人の父にはしたくなかったからなんだ~

だって、もう駄目なら治療なんて必要ないし、全身管だらけで苦しんで終わりを迎えるならば、せめて家でお別れしたい、したかった、と家族にcoucouさんの無念の思いを伝えたんだ~
最初は躊躇したみたいだけど、受け入れてくれて家族は退院させてくれた。

だから、会のメンバー全員で退院祝い(最後のお別れ会)としてみんなでクリスマスイブを迎えた…coucouさんはケーキ、女性陣はそれぞれ花束を差し上げた。

そして、もう一つの記念、もう一人の父の本が完成したので、出版記念祝いとした。本人はあとわずかな余命と言うことは知らないし、誰も知らせる必要がない。

もう一人の父は、みんなの前で突然泣き出してしまった…

本の発行も嬉しかっただろうけれど、みんなと逢えたことが最高のプレゼントだったような気がした。

もうひとりの父の傍には長男さん、と認知症の奥様も交えて質素なクリスマス・イブ&退院祝い&出版記念&300回・25年目記念というわけがわからない混成の会となった。

coucouさんはね、涙を我慢し続けた、限界が来るとトイレに駆け込んで顔を洗う~
そう今日は、最高の佳き日なんだからね、涙なんておかしいもの~

みんなも我慢した~
背えいっぱいの笑顔、だってね、最後のお別れなんだもの…。

でも全員が笑顔の光に包まれて、喜びと幸せと感謝しかない~

もう一人の父は、coucouさんの父の最後の友だち、20年近く休まずにcoucouさんの会を支え続けた最高齢者(91歳、もうすぐ92歳)。

この20年間、彼はいつも笑顔が似合っていた…。

今日はね、泣かせてしまったけれど、それはうれし泣きだもんね~
人と人のお別れって、こんな優しいお別れだといいのにね~

そして頂いた時間は約2時間~
みんなが父と握手して、名残惜しむ…。

もっと、もっと一緒にいたいなあ…

とうさん~

coucouさんたちは帰り支度して玄関を出たら、もう一人の父が立ち上がり手を振り続けていた~
みんなが見えなくなるまでね…。

なんというお別れなんだろう…

そして、私たちはサイゼリアで食事会、望年会&クリスマス会。
みんな話が尽きない~わずかなメンバーだけど、coucouさんはね、もう一人の父がこの会に来れなくなったら解散する予定だった…。

彼は、みんなの励ましで、みんなの癒しで、長老で、とても優しく、笑顔のみんなの父さんだったんだもの…。

これから、どうしょうかな~

©NPО japan copyright association Hiroaki


そして、あっという間に暗くなり、終了時間が迫った。
メンバーは東大和、埼玉県大宮、花小金井と遠方の人たちがいるため、なるべく早く家で本当のクリスマスイブがそれぞれ迎えることができるものね。

そして、遠方の人をcoucouさんは車で駅まで送ることにした。
お二人は、85歳と81歳。街はクリスマス一色の賑やかな騒ぎとイルミネーションの光に包まれていた…。車の窓から、みんなが幸せそうに見える…。ああ、クリスマスってこれでいいんだなあ…。

そしてお二人に力強い握手をいただいてその場を離れた。車が多すぎるんだ。そしてユータンしようとした時、歩道で転倒した人がいた。
あ、メンバーのĪtomoさんが倒れてた~

慌てて車から降りて抱き起した…。
周りはジングルベルと人だかり。横断歩道の縁石につまづいて左顔面から直撃し出血していた。coucouさんの転倒の時と同じ。
とりあえず、横断歩道から座れる場所まで移動。すぐさま救急車に連絡。しかし、まったくつながらない…。今日は救急車が走りっぱなしのイブの夜。

coucouさんは驚いた~こんなに素敵な一日に…。

そして、驚いたことに奇跡が次々と起こるんだ~

まず、クリスマスに遊びに来ていた女性が横に寝かせて、傷口の止血を始めた。もう一人の女性はスマホのライトで目の中を見る。
Ītomoさんの顔の前で指を立てながら上下、左右の目の動きを観察。
突然、見知らぬ男性が車から降りてきてくれて毛布を提供してくれた~
脈を計り、手の力を確かめる女性二人は、お互いが見知らぬ同士だったけれど、二人とも看護師さんたちだった…。

なんと、凄いタイミングと奇跡なんだろう~
そして、気が動転しているĪtomoさんに声をかける。
「大丈夫よ~心配はいらないわ~」と安心させる。
「大丈夫、大丈夫、でもね、救急車に頼んで病院で検査だけしましょうね、その方が安心よ~頭を打った場合はね、24時間様子を見ないとわからないし、とりあえず検査だけしておけば、後が安心なのよ~」

家に帰ろうとしたĪtomoさんを説得する。Ītomoさんにしてみれば、これ以上みなさんにご迷惑をかけたくないと思っていたんだろうね…。
coucouさんも転倒した瞬間、周りの人たちに「大丈夫ですか?」となんども言われ続けていると、不安に陥った。
そう、動転している人には安心が優先なんだね。
この二人の看護師さんたちは安心を与え続けてくれたんだね~

もう、感謝しかない…。

©NPО japan copyright association Hiroaki

周りは人だかり。
でも野次馬じゃあない、みんな心配そうな顔をしてくれている若者たち。「何かできることは」、と次々に声をかけてくれた。
しかし、救急車となかなか連絡が取れない。
すると、近くにいたお巡りさんが無線機を使い本署からの手配を頼む。そして、Ītomoさんを交番まで連れて行きそこで待機することになった。そう、あまりにも寒い夜だった。

そして、このお巡りさんはĪtomoさんにあたたかいお茶を自動販売機から買ってきてくれて手に持たせた。冷え切った身体を温めるためにね~
coucouさんはあえて、聞いた…
「お巡りさんが自腹を切ってわざわざ自動販売機まで出向いてどうしてお茶買ってくれたんですか?」

すると、照れ笑いしながら、「私の父と同じ年なんですよね…」
coucouさんは、ここでもぐっと堪えた…。

そして救急車に乗せる手伝いをして、そのまま脳神経外科に向った。

そして、2時間後、検査は無事に終了し、結果は異状なし。
胸を撫でおろすcoucouさん。

ああ~この病院は父が転倒するたびに連れて来た病院だった。脳梗塞、脳内出血とそのたびにこの病院の緊急治療室でお世話になったところだった。
なんだか、待っている間、無性に父を想い出す…。

そして、明るいうちに終わる予定だったけれど、いつの間にか、夜の6時を過ぎてしまった。

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そう、素敵な、クリスマスイブのドライブだ~

これから2時間先がĪtomoさんの家。
coucouさんは帰り際、
「Ītomoさんに素晴らしい一日だったね~」
「無事で良かったね~」
「みんなと逢えたね~」
「みんなĪtomoさんに優しかったね~」
「Ītomoさん、日本っていいね!」
「Ītomoさん、素敵なプレゼントだったね~」

すると、Ītomoさんも「そう思う…」といってまた握手を交わした…。

ああ、メリークリスマス~
coucouさんは、少しばかりクリスマスが気に入ったみたい…。

帰りの車中は我慢していた一日の涙が止まらない…

そして、coucouさんの家に戻れたのは10時頃~


世の中はね、とっても酷い世の中~
腐ってしまった日本~
壊れてしまった日本~

だけどね、こんなクリスマスイブに若い人たちは楽しみ、あたたかく、素敵な、優しい人たちがいた。

日本って素晴らしいんだね~

ねえ、みんな~
coucouさんの「ある夜の出来事」をプレゼントするね~

これってね、全部奇跡なんだもの~

Ītomoさん、きっと読んでいるね~

ありがとう、Ītomoさ~ん~

©NPО japan copyright association Hiroaki


©NPО japan copyright association 

coucouさんです~
みなさん、ごきげんよう~
久しぶりの2作品投稿~

coucouさんの二人のかけがえのない先輩たち~
医師が余命1か月って宣告したようだけれど、そんなもん、信じないよcoucouさんはね~だって、それって医師の主観じゃあないか~
そんなことよりも、人生ってね、すべて終わりよければそれで良しなんだからね。
どんなに素晴らしい人生であっても、充実した人生であっても、最後が病院でこの世を去るなんてとっても悲しいことのように思えるんだ。
だって、人生の最後を苦しませるんだよ…

本人たちは何もできないし、答えることもできないんだからね…だから、家族の決断しかないんだよ~

終わりよければ、すべて良しにしたい~

残念ながら、coucouさんの父と母は病院でこの世を去った…。

本当はね、すべての治療をやめさせて、身体中のすべての管を取り外し、静かに、苦しまず、安らかに見送りたかったんだ。

もし、このまま治療を続けても無理ならば、何もしないでほしい、薬の投与なんてものもやめてほしい~


ねえ、みんな~
みんなも真剣に考えてほしい~

coucouさんは父や母を失った後に入退院を繰り返し、身体中管だらけで拷問のような日々を送った。もちろん、痛み止めなんて効かないから、さらに強い薬を投与され、薬漬けとなる。

そんな辛い、苦しみを与え続けるなんておかしいよ~

だから、医師が無理だというのなら、すべての治療をやめて家に帰そうよ~
もう一人の父の家族はそのcoucouさんの言葉を信じてくれた~
だからね、余命なんてたかが医師の見解なんだからね、みんなで優しく愛を込めれば少しでも楽しみながら最期の人生を終えられると思うんだ。

ねえ、みんな~

みんなにも、お父さん、お母さんがいるんだったらね、そうして欲しいと願うんだ~

ここまで長い文を読んでいただいて、ありがとう~

そう、人生はね、素晴らしいもんなんだよ~


※もう一人の父「残照」のはじめにと、おわりのあいさつ文~お時間がありましたら、読んでくださいね~coucouさんが2年かけてまとめたもの。


はじめに「残照」


私は、昭和六年(一九三一年)二月五日に生まれ、令和三年(二〇二一年)二月五日で九〇歳になりました。戦前、戦中、戦後を生き抜きましたが、いつの間にか私の周りから父や母、兄弟、先輩や友人たちがこの世からいなくなってしまいました。
人はみな、九〇歳まで病や大きな怪我もなく、元気に生きている姿を見て羨ましく思っていただいているようですが、寂しいながら九〇年という歳月は私の薄れゆく記憶までも奪い去ろうとしているような気がしています。
私は友人のすすめによって苦手な分野ですが記録(記憶)を何かしらの形に残そうと思うようになりました。
人は誰でも父や母がいて現在の自分があるわけですから、当たり前ながら感謝することしかありませんが、さらに祖父母、曾祖父母と私の生きてきた時代を考えると
四人、八人と代々とその血が受け継がられていることを感じます。そうやって、六
〇〇年前まで遡ると、自分がこの世に生を受けるまでに約一〇〇万人のご先祖様の存在の事実とその血脈を甘受しているのだと今更ながら驚きとともに、私の代で何かしらの記録(記憶)を残す義務を感じはじめたのです。
自分の人生は振り返れば、すべてが幸せだったのだと改めて感じるようになりました。若い頃は大変なときもありましたが、苦しい日々や戦争という体験も、今振り返ればすべてが素晴らしく思えてくるのです。(争いや戦争は二度と起きてはなりませんが)
人間の幸せのすべてが人間関係の中にあり、人間関係はお金で得られるものではありません。家族が平和である、家族が支え合うという以外に何の幸せがあるというのでしょう。幸いにも私はよき伴侶に出会い、長男文明、長女三枝子という子宝に恵まれ、つばさという孫とその子ども貴紗子、百花子の二人が誕生し、四代に渡る家族構成によって新しい人間関係が生まれたこと、またその姿を見続けられる喜びに浸りながら九〇歳を迎えられたことは、私の人生最大の歓びであり、幸せであります。
 
この愛する人たちに何かを残したい、伝えたい、知らせたいという感情がこみ上げてきました。もしかするとこの仕事は私の人生の集大成でもあり、私がこの世を去った後も数百年と続くであろう子どもたちにとって何かしらの指針になるかも知れないという思いに駆られているのです。
 
私の人生はとても幸せでした。
幸せはお金ではなく、家族が支え合い、助け合い、思い合う姿を俯瞰して眺めることでそれを感じることができます。まさにこれが私の人生観でもあります。
九〇歳となった私の人生には感謝しかありません。(もちろんご先祖さまのおかげです)
まだ見ぬ未来の子どもたちへのメッセージとして、ここに拙文を記します。
 
本書のタイトル「残照」は私の友人が考えてくれたものです。私の好きな言葉で、日が沈んでからも空に照り映え残る夕の光、残光のことです。
 
私はこの美しく、いつまでも忘れられない残照を、今感じています。
 
 
 
令和四年(二〇二一年)二月五日
九〇歳最終記  石井竹雄



石井竹雄自伝「残照」のあとがき


 
令和三年二月五日、石井竹雄さんが九〇歳となった日からこの石井竹雄自伝「残照」をまとめはじめたものです。石井さんは私のもう一人の父で、父の最後の友人です。もう一人という意味は、私の名前の考弘(こうこう)という名付け親でもあるからです。
そのような縁あって、この「残照」をまとめさせていただくことになりました。私の父も九〇歳の時の記念として「望郷」という題号で自伝を製作しました。
ただ、石井さんほどの元気はなく入退院を繰り返しながら四年の歳月をかけて完成したのですが完成品「望郷」を手にすることなく、残念ながらこの世を去ってしまいました。
私は八年前に亡くなった父とまた会えたかのように、あの時と同じように記録をまとめました。外出することすらままならぬおかしな時代に、毎月お会いして二人だけで話を聞きます。最初に一歳から一〇歳の一〇年間。一〇歳から二〇歳、二〇歳から三〇歳、三〇歳から四〇歳、四〇歳から五〇歳。そして九〇歳。令和四年二月五日までの一二か月間あまり、石井さんの人生を聞き続けました。
石井さん本人は性格が明るくて、いつも前向きな方なので暗い話はほとんどありません。しかし、少年時代から青年時代まで、戦前、戦中、戦後の焼け野原にかけて大変な時代に生きてきたことは事実です。
本文のいのはなトンネル機銃掃射事件によって石井さんの人生に大きく影響を与えたことは紛れもない事実だと思います。あまりにも残酷、残虐な戦争体験を一一歳の石井さんはそれでも物事を明るく捉えながら前向きに進みます。
 
私が驚いたことは石井さんが高尾駅での機銃掃射を受けている同じ時間帯に奥様の節子さんが線路の反対側に幼い弟たちを背負いながら身を隠していたことでした。
なんと不思議な運命なのでしょう。まさか、このときに二人が結ばれるなどと誰も想像ができないことです。
やがて、待望の長男文明さんが生まれ、長女の三枝子さんが誕生します。
そして、初孫のつばささん、さらに、ひ孫の長女貴紗子さん、次女の百花子さんが生まれました。まさに四代揃って今世での出会いとなりました。これだけでも凄いことです。
もし、あのとき、大勢の人が命を落とした「いのはなトンネル機銃掃射」によって石井さんが一命を失っていたら現在の四代家族とは対面することができなかったわけですから、時代の運命を奔走しながらも、石井さんの生きてきた証ともいえるのかもしれません。
 
私が石井さんのお話を聞いていてさらに驚いたことは一切の苦労話がなかったことです。おそらく、戦前、戦中、戦後の中には苦しかったことや辛かったこと、人に話せないほどの哀しかったこともあったはずです。
しかし、石井さんはそのことのすべてを忘れ去ったかのように、逆に楽しそうに懐かしむのです。
 
九一歳になった石井さんに改めて質問しました。  
 
石井さんの一番悲しいことはなんですか?
 
すると、みんなと会えないことだといいます。
 
その、みんなとは誰のことを指すのかと聞いたら。
娘や孫、ひ孫たちに会えない日だといいます。

次に、もう一つだけ質問をしました。
 
石井さんの一番楽しいことは何ですか?

すると、娘や孫、ひ孫たちと会えることだといいました。
 
石井さんはある意味、家族から見れば我儘と捉えるかもしれませんが、奥様がいて、文明さんがいてくれて、三枝子さん、つばささん、貴紗子さん、百花子さんと会えることが最高の喜びなのかもしれません。
 
そして、みんなが幸せになってほしい、という祈りにも感じます。
私の父も戦前、戦中、戦後を駆け抜けてきた一人ですが、石井さんと同じように「兄弟姉妹、親子は近くで暮らすものだ…」という考え方の人でした。
 
 
さて、石井さんの人生は91歳からは毎日がカウント・アップです。
昭和6年(1931年)2月5日に石井さんは誕生し、平成4年2月5日で3万3238日目。4千748週目、1千92ケ月目。91年目となりました。
 
明日からの石井さんはさらにカウント・アップを続きます。
 
明日で3万3239日と更新となります。
来年の令和5年(2023)2月5日で、3万3903日目。
10年後の2033年で3万7256日目の生誕101歳となります。
 
人生は100年、120年時代となりました。石井さんにはこのまま病気や怪我をせずに、家族のみんなを見守り続けてほしいと願いながら、石井竹雄自伝「残照」あとがきとさせていただきました。
 
 
令和4年(2022年)10月吉日 文 coucou(考弘)
 
 

coucouさんのホームページだよ~みてね~

 
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Character design©NPО japan copyright association Hikaru

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 







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