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「幸福」について

「賢くもない、才能もない、私へ。」

こんにちは、Nollです。昔から多くの学者が考えている幸福についてのをいろんな本や古典の解説動画の力を借りてまとめてみようと思います。
古典は最後まで進んでも読み終えた感じが全然ないのです。

個人的にアバタローさんの動画が大変助かりました。皆さんも手ぶらでも全然OKだそうなので、ぜひご覧になってみてください。
https://www.youtube.com/channel/UCduDJ6s3mMchYMy2HvqalxQ


「」内の言葉はマルクス・アウレリウスの自省録に出てくる一言です。「哲人皇帝」とまで呼ばれた偉人でさえ、自分を賢いや才があると思わなかったのです。


これほど偉大な皇帝と比べられる訳でもないが、自分も賢いとか、才能があると思わないです。だからと言って、「自分馬鹿だから、何にもできないんですわー。さーせん、できる人に頼んでくださーい。」みたいに放棄したいわけでもないです。それでも、賢くあろうとできることはやろうと思っています。読書も運動もそのサイクルの一環です。だから、自分はまだまだ未熟だなと持っている文学を読み返すだけでも思うのです。心にとめる文章を本として書き綴るのがいかに大変か、センスが問われるかを顔面にたたきつけられる感じです。


そして、いろんな古典を見ていて気付いたのですが、どれも今のところ、幸福=享楽、快楽とは言っていないのです。
アリストテレスはむしろこう言っているそうです。「賢者は快楽を求めず、苦痛なきを求める。」言われてみればなことをバチーンと当てはめるところがすごいですね。
つまり、「苦痛」に感じることを軽減できれば人生って幸せであると。
じゃあ、快楽の状態はというと言い換えたら「いい酔いに浸っている状態」と言えるのかもしれないと思う。痛くないんだったら、快楽も「幸せ」じゃんという風にも聞こえてきたけど、直感でそうじゃないと頭の中にストップがかかりました。
なぜか。苦痛がないという状態はうっとりとすることはないでしょう。もっと噛み砕くと反応していない「フラットな状態」大昔の賢い人たちの幸せはこの状態をどんな状況でも続けていることだったのではと思います。

感じるということは、センスや神経によりけりということなのかなと思います。実生活におけることと精神におけることに分けて書いておこうと思います。
実生活において、幸福とは
・時間がある
・健康である
時間についてはセネカが誰でもできるようなことをして時間を浪費してはいけないですよという手紙にもあったように、行動の大本になることだから大切にすべきと言い切ったことであること。健康はいろいろ読んでみてお金にも勝る財産と言われていました。どの時代もやっぱり自分を苦しめる元になる病気は怖いものとされていました。今でもそうだと思います。国から追い出されて、新しい場所でわずかな時間を過ごしていた間、持ち物は非常に少なかったとされています。

精神面において、幸福とは
・欲が少ない、執着がない
・神経が強い

欲にも自然なものもあれば、作られたものもありますよね。あれこれが欲しい、ああしたい、こうしたい、○○に行きたいなどなどと思うのは誰にでもあるものです。ただ、それが必要なのかどうかはまた違う話になります。希望がでたとき、それに使われる自分の時間、費用、労力などが見合っているのか。それは自分への実になっているのか。いくら外からの刺激に対しても軸がブレブレのままでは危険です。プラトンだったか、自分の目の前に積み立てられた財宝の山を目にして「なんて自分には無駄なものが多いんだろうか」と嘆き悲しんだそうです。精神を安定させるのは結局は薬ではなく運動なのが皮肉なお話だと思わされます。
最近、不要になったものを手放すようにしているのですが、身軽になって掃除が結構楽になりました。

ニーチェやショーペンハウエル、フランクなどのドイツ哲学者がだいたい同じことを言っていました。それは自分が自分を認められる。
学者ではないのではっきりとは断定できませんが、これが肝のように感じます。何でも自分はOKという話ではありません。
先に挙げたマルクス・アウレリウスも自省録の中で激務の中で自分と向き合うのを続け、ニーチェは皆が超人思想のようになればいいと願い「ツァラトゥストラ」を出版し、芥川龍之介も以前「良心ではなく神経が詰まっている。」と言いました。当時合法だったとはいえ麻薬を摂取して、執筆活動があっても意識は保ちつつ、字もぶれなかったのはいろんな意味で衝撃です。どれだけ、屈強なマインドだったのです。夏目漱石も自分を自分で認めているから「漱石」という名前を自分にしたのではと思う。
日本文学の何人かは渡航の経験があり、そういう哲学に触れる機会があったためかもしれません。余談ですが、日本に渡ってきた洋書は今とは比べ物にならないほど高価なものだったそうです。初版だったらどれほどのものか想像もできません。それのために借金する文豪もいたとか。

まとめると、どれも一長一短では手に入らないものばかりです。だから作っていくのが大事である。こんな初歩的なことをなんで書いているかといえば、すぐに忘れてしまうからです。頭でわかっていても、ふとした瞬間に怠けたくなってしまいます。たまに筋肉痛になったりすると、痛いしやりたくないって自分で駄々を捏ねてしまいます。自暴自棄になってジャンキーなのを食べたくなることもあります。それで、やってしまったーと凹むことも多々あります。(お酒とたばこは無論一切致してません)その度にこれじゃいかんとやり直しをし始めるのです。でも、書いておいたら少しは自分でも整理ができるんじゃないだろうかと思い立って書き留めています。

何年かは忘れましたが、お金と幸せとは比例しないそうです。なら、ゼロでいいのかといえばそうではありません。自分にとっての「生活ができるほどほど」を知る、ことだそうです。これだけあれば生活できる、で自分のタスクを知ることができればその分の時間が作れるというのです。そして、幸せが落ち着いたらエネルギーを使う活動をするのだそうです。

今、できることとして続けるとしたら定番中の定番で、運動と食事と休養の質の向上なんだと思います。ショウペンハウエルが幸福論の書籍を出版した時、3つに内容をカテゴリー分けしました。そしてその中で最も大切なのは「自分は何者であるか」を確立することとしました。それは自分が健康かどうかどういう性質か、どういう道徳観や倫理観や生死観をもとに行動して生きるかなどなど、自分のQOLや性格の把握を重視することでした。ちなみにこの著者は「人間は幸せになるために生きている」を真っ向から「いやそりゃないわ」と蹴り飛ばして世間より大ブーイングを受けました。それでも、今なお翻訳されて残って実践者、解説者が多くいらっしゃるので当時NOと揶揄されたのが本当だったと証明されるのは面白い事です。

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