大村 昇@宮城県美里町

地域おこし協力隊(2022.04〜)/約5年の東京生活からUターン/副業コピーライタ…

大村 昇@宮城県美里町

地域おこし協力隊(2022.04〜)/約5年の東京生活からUターン/副業コピーライター・ライター/Mr.Childrenとスヌーピーが好き/リトルトゥース/のぼ・ぼーの https://lit.link/nobo0630

マガジン

  • 「対話」との対話。

    「この世界に自分の言葉を増やす」をビジョンとする今後の活動に向けて、そのキーワードのひとつとなる「対話」を考えます。

  • 地域おこし協力隊としてのコラム。

    2022年4月から着任している地域おこし協力隊での活動を通じて、感じたこと・考えたことを綴っています。

  • 就職活動に関する気づき。

    就活に苦しんだ大学時代を振り返り、今だからこそ分かってきたことを書いています。

最近の記事

対話とは、信じること。

対話の可能性を探る日々である。大きく分けて自分以外の誰かとの対話、また自分との対話というふたつの種類があると思っていて、前者はより解像度の高いコミュニケーションを、後者はアート思考的な自分らしい生き方を後押ししてくれるだろう。いずれも個人的に大切にしたいあり方である。 誰かにしろ自分にしろ、対話ができるのはその対象を信じているから、ではないかと思った。たとえば誰かと対話をするとき、その誰かが聞いてくれたり、感じたことを伝えてくれたり、そしてその先で変わってくれたりすることを

    • いち素人、だからこそ。

      地域おこし協力隊として、教育の分野に携わる機会が増えている。おもに総合的な探究の学習にて講師を務めたり、学生たちの学習を参観したり。僕は親でも先生でもない、なるべく“ふしぎなオトナ”として、中学校や高校で振る舞うことを意識している。 振り返れば、この活動の背景にはこれまでの自分の人生が大きく影響している。他人が思う自分ではなく自分が思う自分がすべてだと、そんな自分自身に対するあきらめと自信を、すなわちある意味での多様性を得た高校時代。「生き方」という概念に気づかず、もうよく

      • 信頼を問うて。

        信頼ってべつに、その取得を目的にするものでもないだろう。なんかこう、うまく表現できないけれど、「信頼のため」とはっきり活動指針に掲げられると、見てるこちらは身構えてしまう。あくまで個人的な感覚だけれども、ちょっとした“胡散臭さ”を感じる。 おそらく、人としてまっとうに生きることの先に、副産物のようなイメージで得られるのではないか。自分から取りに行くものというよりかは、誰かが与えてくれるもの、である気がしてならない。清々しいコミュニケーション、細かな気配り、粛々と行動に移す姿

        • 興味、関心、好奇心。

          近ごろ、対話やファシリテーションを考える。地域での実体験、またそれをもとにしながら本を読むこと、あるいは日常的に行う自分自身との対話。もっと良いコミュニケーションを促進できたのではないか、なるほどそのためにはああすればよかったのかと、反省を繰り返す日々である。 最近読み出した本には、問いかけの技術が詰まっていた。ファシリテーターとしてその場にいる当事者たちに問いを投げかけることで、より良い作用を生み出していく。そんなイメージへと導く、直接的なテクニックやマインドセットが書か

        対話とは、信じること。

        マガジン

        • 「対話」との対話。
          27本
        • 地域おこし協力隊としてのコラム。
          55本
        • 就職活動に関する気づき。
          10本

        記事

          伝統とオリジナリティ。

          地域おこし協力隊の3年目のシーズンを迎えている今、ふと自分が退任した未来のことを考える。町の1期生の隊員として着任し、町民や行政職員との理解ある関係性をイチから築いてきた。もちろん今なお任期中であり、その道すがらではあるものの、自分なりに下地をつくってきたそれなりの自負はなくもない。 徐々に隊員の数も増えてさまざまなコミュニケーションが生まれているけれども、これまで僕たち1期生が出会ってきた人々との関係性はどうなるのだろうと、なんだか気になる自分がいる。つまり、僕と出会い地

          伝統とオリジナリティ。

          枠があるから、自由がある。

          地域の学生の話し合いで、ファシリテーターを担ってきた。町内の中学生や高校生が集う青少年ボランティア活動の一環「ジュニアリーダー」が、秋のイベントでブース出店をするとのこと。そこで、その出店内容を決める「対話」のための講師として、僕ともうひとりの地域おこし協力隊員が派遣依頼を受けたのだ。 意識したことは、まずお互いが対話の姿勢を保てるような雰囲気づくり。僕は打ち解けた話し方を心がけ、また学生が話す際には笑いやツッコミを含めた相槌を欠かさぬようにした。そして、全体の目的を定める

          枠があるから、自由がある。

          誰かの世界にいる自分。

          まあ今さら記すまでもないのだけれども、人は誰しも独自の視点を持っている。たとえ複数の人が同じ事象を見たとしても、見方や感じ方、あるいは伝え方はさまざまである。感性や表現を含めたら、十人いたら十通りの「世界」があるだろう。 基本的にその世界は、“どうにもならないもの”だと思っている。視点の持ち主の性格や経験に依拠するものであり、自他ともにどうすることもできない。少なくとも僕はそう思っていて、誰かの視点は簡単には変わらないものだと捉えている。また僕自身も世界を持つ1人の人間とし

          誰かの世界にいる自分。

          病は気から、というけれど。

          人生初めての、人間ドックを受けてきた。ここ2年は町の職員として健康診断を受けていたけれども、今年はドックのチャンスが回ってきた。職員さんから受診の権利があることを教えてもらい、二つ返事で希望を出したのだ。理由の内訳は興味本位が半分、また近ごろ少しばかり不調の日あったものだから、もしもの結果があった場合に判明は早い方がいいと思ったのが半分である。 会場に選んだ仙台の診療所に着き受付を済ませると、着替えを促された。お笑いのコントでしか見たことのない、まるでパジャマのようなラフな

          病は気から、というけれど。

          僕の王道、誰かの邪道。

          予想外のところから、パンチを喰らうことがある。 社会に生きる中で、それなりに他人に配慮しながら自分自身を生きているつもりである。たとえば今の僕の仕事というか役割は、比較的アーティスティックに、いやもしくはクリエイティブに、現実の世界に表現していくことが求められているけれども、そりゃあ独りよがりではいられない。誰かとの関係性の中で、持ちつ持たれつ協力しあいながら、企画を進める必要があるだろう。 それでも、自分の言動に対して何かしらの“注意”を受けることがある。もっとこうして

          僕の王道、誰かの邪道。

          「わからない」の話。

          たとえば「こんなふうに思ってたんだけど、実際はちがってこうだったんだよねえ」と、自分が何かを「わからなかった」という話をしたとき。そんな雑談レベルの話ができるほど、相手とはそれなりの関係性があるとする。 ときに「いやあ、さすがにわかるでしょ(笑)」みたいな言葉を返す人がいる。いじっているのか誇示しているのか真意はわからないけれども、「わかること」へと話を持っていきたい人である。 ただ、僕はその「わからない」に面白みを感じているのだ。たしかにわかることは素晴らしいことという

          「わからない」の話。

          対話と焚き火の関係性。

          個人的に「価値観や解釈と向き合うこと」を「対話」と定義している。自分以外の誰かと、また自分自身と対話をすることがほとんどだと思う。たとえば、僕はこうして毎日noteで文章を書くことで、自分との対話を日課にしている。 しばしば「焚き火」に喩えられる。薪に火を焚べていくように、その場に言葉や感情を“置く”こと。自分以外の複数人が口頭や身体で表現しあったり、あるいは自分ひとりで思考や進めてみたりする。すると、そのひとつひとつの表現に作用して、価値観や解釈が進展していく。まるで焚べ

          対話と焚き火の関係性。

          あえて、たたずむ。

          さあ今日も書くぞと、いつものようにnoteを開き1日を振り返る。するとなんだか最近は、世の中への疑問や苦言を呈する自分がほとんどであることに気がついた。ふだんの業務の中で教育やコミュニケーションに興味関心が向いており、そこに自分なりの答えを携えているからこそ、現実とのギャップに悶えるのだろう。ある意味で、希望を抱いている証とも言えそうだ。 疑問や苦言は、別にわるいものではない。独自の視点を持っていると、胸を張ってしまってもいいのかもしれない。ただ、決して気持ちがいいものでも

          あえて、たたずむ。

          自分で自分を変えるには。

          今の自分に嫌気が差す。誰かの特性やスキルが羨ましくて、その誰かのようになりたいと願い、自分を変化させたいと思う。隣の芝生が青いだけなのかもしれないけれども、ここではないどこかへ、自らを連れて行ってあげたい。 なんてことを誰しも一度は考えたことがあるとして、しかしそれは決して、簡単な話ではない気もする。誰かを羨み、変わりたいと願ったところで、現実には当然ながら何も起きやしない。変化のためにはそれ相応の行動が必要で、これまで少なくとも僕は、すんなり自分を変えられてきたわけではな

          自分で自分を変えるには。

          探究学習に欠かせないもの。

          高校や中学校の探究学習に、興味がある。学生がそれぞれ自分で定めたテーマに沿って、仮設を立て、調査や検証を重ね、プレゼン発表で探究した結果を共有する。この一連こそが最近の巷で重視される「課題解決能力」の一端であり、たとえば学校を卒業した先の人生においても、大切なマインドになってくれると僕は思う。 ただ、ここ2年ほど学生や学校の取り組みを見て感じるのは、遂行が決して簡単でないということである。学生たちは、それこそ世間やSNSで話題となっている社会課題を取り上げて、iPadで検索

          探究学習に欠かせないもの。

          感情をさておくトレーニング。

          いま地域で教育に関する事業に携わり、その界隈の本や動画を見ている影響で、人のあり方やコミュニケーションを考える時間が増えている。この日本において、たとえば子どもたちはどのような大人に囲まれながらどのような教育を受け、そして人間として成長していくのか。その経緯での問題や課題は何なのか。実際に中学校や高校に関わらせてもらっている経験も踏まえながら、自分の答えを問うている。 決してこれからの子どもだけでなく、僕自身の学びになることも少なくない。最近では「感情の対立」と「利害の対立

          感情をさておくトレーニング。

          僕がオタクを好きな理由。

          好きな人のタイプを訊かれた際、「オタクな人」と答えている。独自の人生を生きる、とはやや大げさかもしれないが、何かしらにのめり込み、自分の世界観を持つ人に惹かれるからだ。たとえ僕自身が興味のあるジャンルでなくとも、いやおそらく興味のないジャンルほど、その好きなことを信じて行動する姿に感心してしまう。 気づけば「推し活」という言葉も生まれている。きっとLikeともLoveとも微妙に異なる「推す」というあり方で、僕はオタクと近しい場所にあると思う。 そんななか最近またひとつ、オ

          僕がオタクを好きな理由。