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対話と焚き火の関係性。

個人的に「価値観や解釈と向き合うこと」を「対話」と定義している。自分以外の誰かと、また自分自身と対話をすることがほとんどだと思う。たとえば、僕はこうして毎日noteで文章を書くことで、自分との対話を日課にしている。

しばしば「焚き火」に喩えられる。薪に火を焚べていくように、その場に言葉や感情を“置く”こと。自分以外の複数人が口頭や身体で表現しあったり、あるいは自分ひとりで思考や進めてみたりする。すると、そのひとつひとつの表現に作用して、価値観や解釈が進展していく。まるで焚べた薪に次々と火が移るように、対話をするからこそ、“燃え上がる”展開がある。

誰が言い出したのかはわからないけれど、秀逸な喩えだと思う。日常で対話と向き合う中で、だんだんと実感が増してきた。対話の場のツールとして焚き火が使われることも、なんだか愛らしく感じられる。対話と焚き火は、良い関係性にあるのではないかと思う。

ちなみにコミュニケーションにおいて喩えられがちな「キャッチボール」は、個人的に「会話」のイメージだ。同じ話題というルールのもと、ボールという言葉で情報交換をする。会話をツールとして対話が成されることもあるだろうが、その場に帯びた価値観や解釈による“作用”、言い換えれば“広がり”などを考えれば、対話を喩えるにはやはり焚き火がふさわしいと思える。改めて、なんて素晴らしい表現なのだろうか。

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