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誰かの世界にいる自分。

まあ今さら記すまでもないのだけれども、人は誰しも独自の視点を持っている。たとえ複数の人が同じ事象を見たとしても、見方や感じ方、あるいは伝え方はさまざまである。感性や表現を含めたら、十人いたら十通りの「世界」があるだろう。

基本的にその世界は、“どうにもならないもの”だと思っている。視点の持ち主の性格や経験に依拠するものであり、自他ともにどうすることもできない。少なくとも僕はそう思っていて、誰かの視点は簡単には変わらないものだと捉えている。また僕自身も世界を持つ1人の人間として、自分の視点への、よくいえば誇りがある。わるくいえば、諦めている。

当然ながら僕は、誰かの世界に映ることもある。ときに自分自身が思いもよらないかたちで、表現されることもしばしばである。よくもわるくも自分との感覚には差があって然るべきで、繰り返すが僕にはどうにもならない部分だ。たとえば「その見方やめてよ」「僕はそうじゃないよ」と伝えたところで、彼にはそう見えているのだから仕方ない。彼の世界を侵食することは、失礼にあたる気がする。何より僕自身が、誰かに自分の世界を侵食されたくない。

とはいえ、どうしようもないと思いながらも、少しばかりどうにかしたいとも思っているのかもしれない。誰かの世界にいる自分が、受け入れられないときもある。ほんとうはそうじゃない、本質がちがう。でも結局それもそれとして、ある意味この世界は勘違いで溢れているのかもしれない。かくいう僕も結局誰かのことはよく分からなくて、勘違いをしているのだと思う。基本的にどうにもならないと思って生きることで、じょうずに自分自身を守っていたい。

いつもいつもありがとうございます〜。