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対話とは、信じること。

対話の可能性を探る日々である。大きく分けて自分以外の誰かとの対話、また自分との対話というふたつの種類があると思っていて、前者はより解像度の高いコミュニケーションを、後者はアート思考的な自分らしい生き方を後押ししてくれるだろう。いずれも個人的に大切にしたいあり方である。

誰かにしろ自分にしろ、対話ができるのはその対象を信じているから、ではないかと思った。たとえば誰かと対話をするとき、その誰かが聞いてくれたり、感じたことを伝えてくれたり、そしてその先で変わってくれたりすることを、僕は心のどこかで相手を信じている。その相手にも対話をしようとする姿勢がないと成り立たないというのは、最近の個人的な研究で得た結果であり、僕は無意識レベルで対象を判別しているような感覚もある。

自分との対話ができるのも、僕自身を信じているからだろう。少なくとも僕は自分らしさを受け入れて、ある意味での“あきらめ”の先に、日々の対話がある。感じたこと、考えたこと、そしてそれらを熟成させることでオリジナルの意見となってくれている。地域の人から「自分の言葉を持っている」と評してもらったこともあったけれども、それは対話が成し得てくれているのだろう。

匙を投げるのは簡単で、信じることには裏切られるリスクも孕む。だからこそ信じられるものには価値があるのだと思うし、対話を捧げられる存在にも大切に思えるのだろう。対話とは信じることなのだと、その可能性も感じながら、今後も僕は対話を繰り返していくのだと思う。

いつもいつもありがとうございます〜。