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僕の王道、誰かの邪道。

予想外のところから、パンチを喰らうことがある。

社会に生きる中で、それなりに他人に配慮しながら自分自身を生きているつもりである。たとえば今の僕の仕事というか役割は、比較的アーティスティックに、いやもしくはクリエイティブに、現実の世界に表現していくことが求められているけれども、そりゃあ独りよがりではいられない。誰かとの関係性の中で、持ちつ持たれつ協力しあいながら、企画を進める必要があるだろう。

それでも、自分の言動に対して何かしらの“注意”を受けることがある。もっとこうしてほしい、ときにこれではダメだと、結果として配慮が足りない状況になるのだ。まあ人間誰しも「正義」は違うもので、個人的にそのギャップが生じるのは当然と考える。僕は僕なりの正義の中で真っ当に生きていても、どこかの誰かにとっては「不義」になってしまう。

いわば僕の王道が誰かの邪道になるわけで、すなわち僕が“予想外のパンチ”を誰かに喰らわせてる可能性がある。いや、きっと喰らわせているだろう。正義と不義の関係性は、表裏一体のこの世界ではもうどうしようもない。

問題は、その違いが生じる中で、どう生きるのか。嫌われたらどうしよう、否定するようで失礼かななどと、遠慮と配慮を一緒くたにする大人が多く感じられる。何なら「言わないこと」が良しとされる風潮も感じざるを得ない。しかし、少なくとも僕は、対話の力を信じたいと思う。たとえパンチを“喰らわせる”可能性があると分かっていても、自分の思っていることを伝える。そして相手の思いも聞いて、お互いに歩み寄る。口を結んで我慢して、どんどん距離が離れていくというよりかは、ときに衝突しようともしっかり向き合って、それぞれの違いを認め合う世界を生きたいと思う。

いつもいつもありがとうございます〜。