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探究学習に欠かせないもの。

高校や中学校の探究学習に、興味がある。学生がそれぞれ自分で定めたテーマに沿って、仮設を立て、調査や検証を重ね、プレゼン発表で探究した結果を共有する。この一連こそが最近の巷で重視される「課題解決能力」の一端であり、たとえば学校を卒業した先の人生においても、大切なマインドになってくれると僕は思う。

ただ、ここ2年ほど学生や学校の取り組みを見て感じるのは、遂行が決して簡単でないということである。学生たちは、それこそ世間やSNSで話題となっている社会課題を取り上げて、iPadで検索してその情報をまとめる“調べ学習”に終始する。僕はもっともっと身近な事象や問題から着想していいのになあと思いつつ、しかし指導する先生方は、自身の学生時代に探究学習の経験がないという問題もある。彼らは当然、学生たちへのアプローチもさまざまである。

探究学習を充実させるポイントのひとつは、「改めて定義づけること」だと考える。学生が、自分で取り上げたテーマを自分なりに解釈してみること。たとえば先日授業の見学に行った際に「高校が地域の核になるには」と定めたチームがあったが、ではその「核になる」とは何だろうと、改めて考えることである。親子世代が物理的に集うのか、イベントを企画して人を集めるのか、はたまた情報発信の中心地になるのか。その答えは辞書を引いても、Web検索をしても、決してどこにも載っていない。結局自分の中にしかなく、というかその自分の定義で深められるのが探究学習なのだ。

となれば、学生自身にも自己理解が必要なことに気がついた。学校や家庭での時間で、自分はいったい何をよろこび、何を気になり、あるいは何が許せない人間なのか。その独自のストーリーがあるからこそ絶対的な視点が生まれ、オリジナルの探究へ強烈な追い風が吹くはずだ。今の僕は、学生の頃から自己理解を深める機会はあったのか、人はいつから自分を客観視しながら見つめる生きものなのか、記憶や経験もたどりながらその実態を探ろうとしている。

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