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感情をさておくトレーニング。

いま地域で教育に関する事業に携わり、その界隈の本や動画を見ている影響で、人のあり方やコミュニケーションを考える時間が増えている。この日本において、たとえば子どもたちはどのような大人に囲まれながらどのような教育を受け、そして人間として成長していくのか。その経緯での問題や課題は何なのか。実際に中学校や高校に関わらせてもらっている経験も踏まえながら、自分の答えを問うている。

決してこれからの子どもだけでなく、僕自身の学びになることも少なくない。最近では「感情の対立」と「利害の対立」の考え方が、なんだかしっくり来ている。これまでの僕はついつい言い方や伝え方など、誰かに対して感情の部分でコミュニケーションの“苦手だなあセンサー”が反応し、そのときは敬遠することがほとんどだった。解決のために必要なのは「思いやり」や「優しい心」だと思えた。

ただ、ある動画で耳にした「お互いの利害」をモノサシにしてみると、感情や感覚といった心の部分はさほど重要ではなくなる。本質は「同じ目的や目標を見出せるか」であり、その当事者たちが同じ方向を向けているのならそれでOK。むしろ頻繁にコミュニケーションを取るほど苦手な人とは、対話をすることで感情の壁を壊せるだろう。

とはいえ、頭ではそう分かっていてもすっかり癖づいてしまっているのか、いまは感情のセンサーをオフにすることが難しい。感覚的および瞬間的にムッとしてしまう自分がいて、次の瞬間「いかんいかん」「利害利害」と矯正している。それでも、僕はきっと利害の対立を重んじる生き方に納得できているから、このある種の“トレーニング”へ前向きに取り組めているのだろう。決して感覚や感情に触れるコミュニケーションを軽視するというわけではなく、もちろんその重要性も認めながら、個人的には新たな扉をノックしているような期待感に満ちている。

いつもいつもありがとうございます〜。