喩えるならば、ダイビング。
以前、僕は「対話」ということばを「本質さがし」と表してみた。いつかのこのnoteにも、そう書いた記憶がある。ふだん何気なく暮らしているだけでは顕在化していないような、ヒトやモノ、コトの内側に、ひいては本質に迫ること。極めて個人的な感覚であるが、対話にはそんなイメージを抱いていたわけである。
しかし、今はまたちがった考えが僕の中にある。すなわち、何かの潜在的な部分に迫ることをベースとしながらも、必ずしも本質に迫ることだけが対話ではない気がしているのだ。たとえばヒトの気持ちなら