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「つまらない」にも花束を。

昨年の秋頃から、町内の駅前や公園で焚き火をおこなっている。テーマは「アウトドア」というより「対話」や「コミュニケーション」で、回を重ねるたびに新たな出会いや会話が生まれている。それなりにやりがいを感じる中で、何より主催の僕自身が毎回楽しく火を灯している。

つい先日の焚き火では、これまで何度か来てくれている親子が訪れた。その日の子どもは退屈そうで、実際に「火を見てるだけじゃつまらない」と愚痴をこぼして椅子から立つ。すると、すかさずその母親は「つまらないことないでしょ、ほら座って」と諭していた。

まるでつまらないことが、よくないことのように感じられた。僕はべつに、たとえ焚き火がつまらなく思われても構わない。もちろん楽しんでもらえたら嬉しいと思うけれども、そもそも誰もが楽しめるものなどないと思っているからだ。僕が面白みと感じるぶん、面白く感じない人もいるだろう。それが表裏一体の、この世のことわりである。

あの母親の仕草は、決して昨日今日のものではなかった。すなわち諭すことが当たり前であり、むしろ「なんとかしなければ」という責任感もあったのだろう。ただ、個人的には、その「つまらない」も愛せる世界で生きていたいと思う。それはネガティブというより形容で、自分の中に芽生えた貴重な価値観であり、そもそもの“個性の種”とも言える気がする。そこから自分の「おもしろい」はどこにあるのか、ひいては自分は何者なのか、それらを理解するヒントが詰まっている気がしてならないのだ。

いつもいつもありがとうございます〜。