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表現あっての対話なのだと。

今年の3月、SOKOAGE CAMPという対話型プログラムに参加した。おもに若手社会人や大学生が合宿を通して対話を行い、自分自身を見つめるリトリートプログラム。宮城県気仙沼市を拠点とするNPO法人底上げが主体となり、現在は宮城や山形の各地で行われている。しかし参加者は周辺地域の東北に限らず、関東や北陸、関西からも訪れていた。その評判は、参加者による口コミで広まっているようだ。

僕はそんな地域の外から人を巻き込みうる仕組みや、自分と向き合う対話自体に興味があり、2泊3日のプログラムに参加した。そのときは国が運営する"自然の家”に、それこそ大学生や20代の社会人たちが集結。プログラムの期間中には「どう過ごしてもいい」という自由の前提がありながら、20名ほどで寝食を共にしてそれぞれが対話を進めた。

これから対話する企画を主催したい人間として思い返すと、「いかに表現する機会をつくるか」に溢れていたと想う。たとえば、最初に1人1冊スケッチブックが配られ、そこに自分の思いを書き込んでいくジャーナリング。それまでの自分を折れ線グラフで表し、グループでシェアする人生グラフ。1日の始まりのチェックインおよび最後のチェックアウトもそうだろう。自分と対話するだけでなく、その思いや考えをしっかり自分の外へとアウトプットする設計がされていた。

で、最近思うのだ。やはり対話は、表現あってのものなのではないか、と。ただ自分と向き合うだけでは不十分で、たとえばこうして文章などのかたちにして、場合によっては誰かの目に留まるなどして、意味を成すものではないかと。今後そこまで設計することを心がけながら、対話のプログラムを地域で実践してみたいと思った。そして、自分自身を表現できる社会を少しずつ、いま自分がいる場所から示していきたいと思っているのだ。

いつもいつもありがとうございます〜。