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この世に対話が少ない理由。

「対話」というワードが気になっている。類似の言葉として「会話」があるけれども、それは口頭で“コミュニケーション”を取るイメージ。一方で対話は、表面的には見えないところへ、その真意や本質に迫る“思考”を司るイメージである。対象は必ずしも自分以外の誰かというわけでもなく、自分自身かもしれないし、モノやコトに対しても可能だと考える。いずれも、僕個人の言葉である。

たとえば僕は、毎日こうしてnoteを更新することで、自分自身の感覚や価値観と向き合っている。すなわちこれも対話のひとつだと思っていて、誰かとの飲み会の席でもついつい、言葉の真意やそれぞれの個人的な感覚を問うてしまう。最近気がついたのだが、どうやら僕にはずっと前から“対話癖”があったようである。

そんな自分に対しては少しばかりのアイデンティティも感じていて、それはつまり対話が少ない社会を自然と裏づけていることだろう。たしかにこうして毎日書いていることや、飲み会で問いを生み出すことは、少なくとも僕の周りでは少数派となっている。日頃から対話をする人や対話をする機会は、そう多くないのだ。

ではなぜ少ないのか、それこそ今日自分との対話の中で気がついた。面倒だから、である。対話は、面倒くさい。わざわざ見えないところにまで、頭や心を配ること。そんな時間はなく、だからこそそもそものテクニックやメリットも生じることがなく、どんどん軽視されているのだろう。

検索すれば誰でも簡単に、誰かの「答え」が手に入る時代。あるいはそれ以前からの、怒鳴りつけて押さえつけて、言いなりのロボットをつくるような教育。それらは(その瞬間には)リスクもコストも小さくできて、とても簡単だ。しかしながらその先の未来で、対話の欠如によって失うものは小さくないだろう。自分なりの問いを生み出し、答えを導き出す、いわゆる課題解決能力。そもそものアイデンティティ。対話の面倒くささを認めながら僕は、楽しさや大切さを体現していたいと思う。

いつもいつもありがとうございます〜。