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太陽と雲。

学生時代から「自分の世界を持っているよね」と言われてきた。褒められていたのか貶されていたのか、今となってはその真意を知る由もないけれど、そう評されたのは一度ではなかった。ただ、たとえば高校のクラスで言えば、そこまで“浮いていた”自覚はない。厳密には浮くほどの勇気もなかったわけで、何なら比較的おとなしく過ごしていたと思う。

勉強にはついていけなかった。進研ゼミを味方に高校受験を戦い抜き、公立の進学校(自称)に入ることはできた。しかし、その燃え尽き症候群もあったのか日々の授業で遅れを取り、気づけば毎回のテストでは追試を免れるラインの40点を目標にしていた。

各中学校から、いわゆる優等生が集まるような校風。みんな人当たりは柔らかかったが、テストの点数から見ゆる“学力のヒエラルキー”は確かに感じられた。その中で僕は早々にリタイアを決めて、結局「誰かの評価より自分の信念が大切ではないか」と、のちに社会現象にもなるアドラー心理学のような感覚を掴むことになる。今の僕の人間性をかたちづくる、大切な経験だった。


「アート思考」に関する本を読んでいる。そのプロセスは「自分の内側にある興味をもとに自分のものの見方で世界をとらえ、自分なりの探究を続ける」と定義されており、著書のとある美術科の教師が、現代における美術(アート)の大切さを実際の講義形式で伝えてくれる。その中で「正解を見つける力」から「答えをつくる力」へ、学校教育あるいは現代社会で重要視される能力が、時代と共に変容していることが書かれていた。

喩えるならば、太陽と雲だという。

たとえば本の中で美術と正反対とされた数学は、答えがひとつしかない。絶対に揺るがぬ正解があって、そこへ辿り着く方法を養うもの。翻って美術は、決して変化を厭わない「自分なりの答え」をつくるためのもの。人によって、タイミングや場所によって、その答えは無数に存在するだろう。


美術は、対話なのだと気がついた。絵のスキルや画家の歴史を学ぶことを、決して打ち消し切れはしない。しかしやはり重要なのは、どこを見て何を感じて、どう表現するのか。じょうずやヘタなんかよりずっと大切なものが、美術の授業には隠されていたわけである。

そして自然と、高校時代の自分を思い返した。「正解」を競い合うような戦場には出られなかったと、少しばかりネガティブな記憶もあったけれども、僕は当時から自分の「答え」を探求していた。みんながたったひとつの太陽をめざす中で、僕は、無数にあってフワフワとかたちを変える雲を見つめていた。だからこそ、今があるのだ。

あの頃の自分の背中を、ポンと叩けたような気がした。そのままでいいぞ、ありがとう、と。

いつもいつもありがとうございます〜。