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ヒトとの対話に必要なもの。

たとえば僕はこうして毎日noteを書くことで、毎日対話をしている。身の回りにあるモノや自分が経験したコトをおもなきっかけとして、ここでややじっくり考えているような感覚だ。最近ではヒトの言動を受けて、自らの心境と対話をする機会も増えているのではないかと思う。

比較的、簡単にできることである。毎日書いていることに驚かれはするし、それなりのアイデンティティなんだろうなあとも勘づいてきたけれども、自分がやろうと思えばできてしまう。むしろ僕にとっては、日頃からついつい問うてしまうし、もう書かないと気持ちのわるいカラダになってしまったし、すっかり生活の一部だと言い切れる。とてもよい意味で、簡単だというそもそもの意識すら乏しい。

ただ、ヒトとヒトが対話をする際、途端にハードルが上がる印象である。自分だけの意志でできるわけではなく、相手にも対話をしようとする姿勢が求められるからだ。当然、逆も然りである。思えばこれは、会話にも同じことが言えるのかもしれない。お互いに向かい合わないと、そして息を揃えないと、そもそも対話は生まれない。

最近では地域でワークショップやトークイベントを開いたり、街中で焚き火を行ってみたり、対話をベースにした活動に少しずつ人を呼べている。そこに集まってくれるヒト同士で、それこそよい対話ができている感覚もある。しかしながら、とても恵まれた関係あるいは環境であることに、ふと気づかされている。決して自分だけではできないこと。誰かの理解や協力、共感などがあるからこそ、そこにヒトとヒトの対話が生まれるのだ。

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