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【短編】『もの言う左目』

もの言う左目


「どっち向きですか?」

「右です」

「じゃあこれは?」

「下です」

「はい、じゃあ今度は左目に切り替えて。これどっち向きですか?」

ゴツゴツとした機械に顎を乗せ、レンズ越しに左目で見る中の景色はぼやけていた。

「わかりません」

「これは?」

「わかりません」

「はい、終了です」

僕は白内障を患い次第に左目の視力が低下していった。医師からは手術を受けることを強く勧められたが僕は手術には抵抗があった。なぜなら頭の奥底で手術を受けてはならないと懇願する自分がいたのだ。それは恐怖や不安といった感情などではなく、何かまた別の運命に対する感覚というようなもので、それが僕に対して訴えかけているように思えるのだ。声が聞こえるというわけでもなく、ただ受けることがよくないと直感的に思えるのだ。医師からはこのまま放置すると完全に失明すると忠告を受けた。僕は失明と言われても実際になったことのないものだから実感が湧かなかった。親もひどく心配し毎晩のように手術を受けるか受けないかで言い争いになった。その間にも僕の視力は段々と落ちていき、正常な右目から見える視界と比べるとほとんど見えないに等しかった。

 病院での検査はこれで5回目だった。今度は視力検査でよく使われるCの字ではなく、風景画をいくつも見せられた。

「何が見えますか?」

「ひまわり畑」

「他には?」

「子供が五人テーブルを囲んで笑い合っている」

「他には?」

「飛行機雲ができていてその下には鳥が何羽か飛んでいる。あとは手前には、水路か川みたいなものが流れていてひまわりの葉っぱがその上に散っている」

「はい、ありがとう。今度は左目をお願いね」

およそこの検査は記号のような抽象的で認知しやすいものの代わりに現実の景色を利用してより具体的で規則性のないものを見せることでより明確に視力がわかるのだろうと思った。

「はい、今度は何が見える?」

僕はぼやける風景から必死に色や形を認識してそこに何が描かれているのかを想像した。

「海がある」

「海はないです」

「人が歩いてる」

「人は歩いてません」

「太陽が昇っている」

「太陽でもないです。はい、これで終了です」

医師は検査用紙を持って奥の部屋にいる親のもとへと向かっていった。僕はすぐ近くにいた看護婦に先ほどの絵を見たいと尋ねると快く見せてくれた。

「これかい?」

「いえ、もう一つの絵です」

「これ?」

「いいえ」

「じゃあ、これ?」

「それかもしれません」

絵の中には大きな湖の畔に一軒の小屋があり、手前には空を指差す銅像が建てられていた。その指の先には何やら丸い物体があった。それは太陽でもなければ、月でもなく黒くて謎めいたものだった。

「この丸いのって何?」

「丸いの?そんなのないわよ?」

「じゃあ、お姉さんもここから見てよ」

僕は看護婦に手招きをして、椅子から立った。看護婦は持っていた書類を床に置いて機械を少し調整してからレンズの中を覗いた。

「あら、ほんとだわ。何かしらねこれ」

看護婦が機械の反対側へ行き、機械の中から何かを慎重に取り出した。それは指でつまめるぐらいの小さな紙だった。よく見ると紙の下の角がほんの少し焦げて黒く滲んでいた。

「これが原因だわ。君よく気づいたわね」

「ううん、検査中になんか気になっちゃって」

医師と親は未だに奥の部屋からは出てこなかった。すると、中から母親が泣いているような声が聞こえてきたのだ。僕はなぜ母親が泣いているのかわからなかった。

 左目のぼやけた視界はより一層ぼやけていきある朝起きると、もう何も見えなくなっていた。見えないというのは文字通り視覚機能を失ったということで、左目の視界はただ霧がかっているだけだった。左目の視力を失ったからと言って特に生活が大胆に変わるわけでもなかった。強いて言うならば、左側から不意に現れる人々に驚かされるくらいだった。もちろん日常的に視野が狭くなるため、周りをよく見ることは心がけた。

 僕は次第に右目だけの生活に慣れていった。左目には眼帯をつけるよう親に言われたが、僕は家を出た途端それをいつも外した。周りの見る目は気にならなかった。恐怖する者もいたが、むしろ同情しているふうにこちらを眺める人の方が多かった。時に僕は左目でものを見ることもあった。それは夢の中でのみ可能だった。昔の記憶から仮想現実が脳内で再現され、あたかも両目でものを見ているように思えた。懐かしい感覚を覚えたものの、物語には必ず終わりがあるように僕の懐かしき左目の旅にも毎度のように終わりがやってきた。しかし今回ばかりはそうではなかった。目を開けると目の前には普段の生活の光景が見えるのだった。僕はまだ夢の中にいるのかと思ったが、ものを触る感覚や、聞こえる感覚全てが現実だった。つまりは見ているものも現実であった。一体どう言うことかとベッドに腰掛け動揺していると、母親の声が聞こえた。

「朝ごはんよー、降りてらっしゃい」

僕は恐る恐る自分の部屋の扉を開け、ゆっくりと階段を降りていった。下の階からは卵の焼けたいい匂いがして僕の気持ちも和らいだ。母親にはこのことを言わないでおこうといつものように手すりを伝いながらリビングへと向かった。

「おはよう」

「おはよう」

母親は心優しく僕に挨拶を返した。しかし左目にはその姿はなかった。


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