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小野谷敦『宗教に関心がなければいけないのか』 : 同年生まれで、同じようにアニメ好きだった、小谷野敦について

書評:小野谷敦『宗教に関心がなければいけないのか』(ちくま新書)

小谷野の著書は初めて読んだが、なぜこれまで読まなかったのかがよくわかった。要は、氏の著書のタイトルが、おおむねその内容の透けて見えすぎる、薄っぺらなもの多かったからだ。

意見あるいは評価が分かれる物事について考えたり意見表明したりする場合は、双方の「良質な意見」を参照すべきだと、私は当たり前に考えている。しかし、小谷野の著書のタイトルを見ていると「こういう 本を読む人は、お手軽に自分の不満を慰撫してくれる、お手軽な本音語りが読みたいだけなのだろう」と感じ、どうせ自分とは反対の立場の意見を読むのなら、もっと骨太で迫力のあるものを読みたいと思うから、私はこれまで、小谷野の本には手を出さなかったのだと思う。

今回、初めて小谷野の本を手に取ったのは、本書が宗教の問題を扱いつつ、それを突き放すというユニークな立場を採っていたからである。
私は数年前からキリスト教に興味を持って、素人研究を重ねている。もともと私は宗教的なもの、というよりも超越的なものに興味があったのだが、根が真面目で堅実な性格のせいか、論理的整合性があり、かつ客観的証拠が提示されないかぎり、本来、人生を賭してかかるべき信仰というものを、安易には受け入れられはしないし、受け入れるべきではない、と考える。私は、そのような、ある意味では、完璧主義的宗教原理主義者なのだ。だから、たいがいの宗教家、信仰者には厳しい。
つまり、小谷野が興味が持てないがゆえに「興味が持てなくて何が悪い」と被害者意識的に、安易と思える宗教礼賛者を批判するのに対し、私は宗教に重大な価値の可能性を認め求めるがゆえに、現実の宗教宗派には、今のところ、いずれも不満であり、ゆえに批判的な非信仰者に止まっている、という、小谷野とは真逆に近い立場なのである。

そんな私が近年、キリスト教に興味を持ったのも、比喩的哲学体系と理解されかねない(つまり、宗教ではなく哲学の一種と理解されかねない曖昧さを残す)仏教とはちがい、明確に「神の実在」を認める(がゆえに、誤魔化しの効かない)キリスト教において、それでも多くの優れた知識人がこの宗教に帰依したのには、それなりに合理的な根拠があったからではないかと期待したからだ。
…しかし、そんな期待は今のところ満足させられてはおらず、この調子では私は不本意にも、非信仰者のまま死ぬことになりそうである。

で、そんな私からすれば、小谷野の議論は所詮、薄っぺらで何が悪いという、自己正当化の議論でしかない。
わからないのだから否定はしないと言いながら、わからない自分の感性への懐疑を欠いているがゆえに、宗教を認めようが認めまいが、いずれにしろ小谷野の議論は、批評的に薄っぺらなのだ。評価すべきは、世の優等生的な宗教論に「優等生はうさんくさい」と注文をつけた点だけだと言ってよいだろう。

初出:2016年2月18日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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