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会田誠『げいさい』 : 言葉にできない、あの〈切なさ〉を

書評:会田誠『げいさい』(文藝春秋)

きわめて優れた「正統派青春小説」である。
著名かつ人気のある美術家の著者が、自身の芸大受験浪人時代の体験をもとに描いた、一種の「芸大小説」で、そのため、読者の方も「芸術」に関心のある人や、自身が芸術家になったり、なれなかった人などが多いのかもしれないし、そうした特異な立場から、特異な興味を持って、本作を読んだ人も少なくないようだ。
たしかに本作は、そうした「業界内幕小説」的な興味を満たしてくれる側面も十二分にあるのだけれど、しかし私としては、やはりこの小説が、普遍性をもった「正統派青春小説」であり、「青春の光と影」を描いて、曰く言い難い、その「切なさ」を描き切った傑作である点を強調したい。

私は、もう二十年も前に、著者の『青春と変態』を読んで、その「暑苦しいまでの、過剰な切なさ」に圧倒された読者の一人だ。本書では、著者の年齢相応に、そのあたりも多少抑制されているとは言え、やはり、青春の「切なさ」が、圧倒的な生々しさを持って描き出されている点では、大きな違いはない。

評論家の三浦雅士が『青春の終焉』を刊行したのが、ちょうど二十年ほど前であり、今どきの若者の「青春」が、私の時代とはそれなりに様変わりしているというのは、容易に推測しうる。今どきの子供たちからは「反抗期」が失われて、母子密着型が標準化している、などという話もしばしば耳にする。そうしたことは、事実としてあるのだろう。けれども、では今の若者から、本当に「青春」が失われてしまったのか、その時期特有の「切なさ」が失われてしまったのかというと、私はそうは思わない。表面的なかたちや、感情の表現形式に違いはあれ、やはり、後で思い返せば「あれは青春期特有の切なさだったのだな」と、ある種の痛みをともないながらも、懐かしい追憶の対象となるような感情は、今の若者たちにも、それと気づかないまま体験されているはずだ。
だから、青春期を通過した人なら誰でも、つまり老いも若きも、この小説によって、「切なさ」というかけがえのない感情が強く喚起されるはずだと、私はそう思う。

したがって、「青春小説」と言っても、本作は「若者たちの姿を面白おかしく描いたエンタメ」というわけではない。
自分が、人とは違った「特別な存在としての何者」かになれるのかなれないのか、その「夢と現実のはざま」で逡巡し葛藤する「未完成」な時代を、その「未完成」の故の純粋さを、愛おしむ小説だとも言えるだろう。

だが、決してそれは「後ろ向きな懐古趣味」ではない。なぜなら、著者自身が今もなおこのような「切なさ」を描きうるのは、そうした「熱い純粋さ」を捨てきれずに、今も抱えて続けているからなのではないだろうか。大人になって、自分の能力の限界やこの先の人生が見通せてしまい、少なからず醒めてしまった部分があるとしても、やはり捨てきれない「あの頃」が作者のなかに生きているからこそ、これほど生々しく「あの頃」が描けるのではないだろうか。

この作品が描いた時代とは違い、今の時代は、若者たちに対し、妙に物わかりがよくなったように見える。そうだ。「芸術は自由なものだ。何も君たちを縛りはしない。自由に描きたまえ」と言ってくれるかもしれない。しかし、そうして開花した才能を、促成栽培の青田買いで、情け容赦なく消費し、食い尽くしていくのも、この時代ではないだろうか。
著者特有の、捨てきれない「暑苦しさ」は、そうした「今風の消費主義的ものわかりの良さ」にも抵抗している。そうした意味でも、本書は、反時代的なまでの「正統派青春小説」なのではないだろうか。

初出:2020年9月16日「Amazonレビュー」

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