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少女A伝

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短編小説集です。
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#短編小説

方舟を見送る

旧約聖書のノアは、大洪水に襲われ方舟に逃げ込んだ際、自らの貧しい生き方を儚むことはしなかったのでしょうか。血の結束に囚われ種の存続ばかりを憂うだけで、心を許せる友人を得られなかった己を恥じたりしたのでしょうか。
洪水のあとに共に生きたいと思える友人と出会えなかった、己の哀れさを。

「僕は君のことがとても好きだ」
電話の向こう側は静まり返っていて、それが一層あなたの今いる空間を雄弁に物語っているよ

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ロールケーキを横に切る

電車にて
手話を使って会話をしているご夫婦(だと思われる)に出会った。
思いを乗せて指先は細やかに言葉を紡いでいく。
自分の気持ちが相手に伝わったか確かめる表情
相手の気持ちが自分に伝わったことを示す表情
それらはどれも相手への思いやりに縁取られきらきらしていて、
あまりにも綺麗で清潔で、思わず見とれてしまった。

メールでのやりとり
テンポのいい会話
ノリつっこみによる他愛もない遊び。
それらと

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石板掘れない私の哀しさ

11年前にもらったメールを何度も読み返し、携帯端末を買い換える度に新たに保存しクラウドにも保存していると言ったら、あなたは笑ったけれど、私にとっては非常に大切な宝物なので笑わないでください。
それでも私が死んでしまったら、あなたから貰った言葉は全て銀色の端末に閉じ込められたまま誰の心も震わせること無く永遠に沈黙の湖に沈むのだと思うと、私は苦しくなってしまう。
ああ、石板を掘る技術があったなら!

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個人的メェルストロム

自身の内面に、宇宙よりも広い内的世界が広がることに気がついたのは、十四歳の冬のことでした。
理科の授業で気圧について学んだ日の帰り道に、その考えはふと私の心に降り立ったのです。
空は高く、手の届かないところに刷毛ではいたような白い雲がたなびいていました。しかし、その雲の冷たく指先にちりちりと寄ってくる感触を、私は確かに知っているのです。

気圧に負けずに大気の底で生きるためには、それと同じだけの力

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巡り会う風

好意は持ち重りがするといっても、誰も信じてくれません。
その見えない重りは私の手足の先端に付けられるから、私は泣きそうになってあたりを見回し途方に暮れるのが常でした。
スカートとハイソックスの間に覗く膝の裏っ側に撫でるような感触を感じ振り向く度に、母親に結ってもらったポニーテールとアイロンを当てたブラウスの襟元の間に滑り込む生暖かい視線を感じる度に、付け始めたばかりのブラジャーの縫い目が、真っ白い

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ハレルヤジャンクション

ねぇ、17歳の夏の明け方の空気が澄んでいて冷たかったこと、覚えている?
レースのカーテン越しに届く静かな日差しは、誰も目覚めさせないように密やかに差し込んできていて、土鳩だけが低いところで喉を鳴らしていた。
顔を窓の方へ向けると、私の脇のシーツはあなたの形に窪んでいて少し湿った温もりを残していたから、私はそこに顔を押し付けあなたのシャンプーの香りを嗅いで、夕べのことが本当に起こった出来事なんだとゆ

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蛤吐いた蜃気楼

恋い焦がれていた御仁との念願叶った逢瀬の晩、食後に辿り着いた公園で躊躇いがちに私の手に彼の手が重なり、引き寄せられるように口づけをいたしました。
薄眼を開けると港には船、空には飛行機。きっと遠くの土地へ向かう途中でしょう。空気を震わせながら私達の周りを通り過ぎてゆきます。
そこにはなにも契約を裏打ちするような言葉も書面もありませんでしたが、
私はそれでも構いませんでした。
だって、彼が口移しで渡し

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こんな女の子になってしまった

女性は誰でも一度はお姫様ごっこをしたことがあるのではないだろうか。
面白いことに、そこで選ぶお姫様の傾向は、大人になった時にどんな人生を歩んでいるかに直結していることが多い。

オーロラ姫を好んだあの子は、注目を浴びるのが好きで恋人を絶やさなかった。
シンデレラをよく選んでいた友人は、健気な素振りを見せつつも恋愛には計算高い女性へ変貌した。

それでは私はどうだったか。
私の憧れのお姫様。
それは

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初恋の呪縛

冬空のしたでフォーレのヴァイオリンソナタ2番2楽章を聴いていると、中学2年生の冬のことを思い出す。
とてもとても大好きな人がいて、でもその人にはもう半年も会っていなくて、連絡先も知らなければ、彼は私が自分を好いているということさえも知らなかった。
何一つとして伝達手段を持たなかった私ができたことは、夜空を見上げ、彼への気持ちを星に託すことだけだった。

彼と私はセックスなんてしなかった。
身体を使

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失恋は石鹸の香り

私の学校にやってきたその教育実習生が、学年中の男子の好意をひっ攫うまでに要したのは、ほんの数日のことだった。

「音楽の教育実習生、可愛いよな」
「あんな姉ちゃん欲しい」
「いや、彼女になって欲しいよ俺は」
「授業は下手だけどな」
野球部の賑やかな奴らはそう言って、いつもの如く意味もなく大声で笑う。その度に、彼らから湿った砂埃の臭いが漂ってくる。
彼らの発する野卑た空気が私は苦手だ。休み時間に

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私の背骨は控えめに言っても強靭

大学図書館に1,000円分のコピーカードを置いてきてしまったことに、研究室に戻ってから気がついた。
レストランのパトロンが良いワインをあけて、残りをソムリエに「飲んでいいよ」とお裾分けするみたいに、私も使いさしのコピーカードを置いてきたのだと思うことにする。多分違うけど。

「レストランの一番上座にどんな職種の人を案内するかで、そのレストランの方向性が決まるんだよ」
4年ほど前に私の恩師は、その日

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財は手放すに限る

幼い頃から物に対する執着心が強かったため、セール会場で散財をした経験が無い。
物に対する執着心が強いと、お買い物の時にどうなるかというと
「このお洋服素敵!一生着よう!」と一目惚れして値札も見ずにそのまま購入し、季節が巡るたびに、またそのお洋服を着られる幸福感に酔いしれることになる。
問題は、そんな一生もののお洋服を私はそれはもう大量に持っているということ。このままだと大好きなお洋服に埋もれて窒息

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美しい彼女

朝、教室の扉を開けると、髪をばっさりと短くした麻子が教壇の前の席に座っているのが目に入った。
思いつめやすい彼女のことだ。
大方、能天気な恋人の何気ない言動に傷つき、その突破口を求めて断髪という結論に至ったのだろう。
彼女の角ばった背中を眺めていると、世界のどんな汚れに対しても交わらないというような覚悟が透けてみえる。襟足の下に続く制服の襟は、彼女の母親の手によって綺麗に糊付けされていた。

麻子

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泉の下から贈り物

私の宝石箱の中には、青いガラスのペンダントトップの首飾りが仕舞われている。
会う人会う人に褒められるその首飾りは、祖母が存命中にヴェネチアで買ってくれたものだ。
知人友人にその首飾りを褒められるたび、12年前に泉下に名を連ねた祖母のことを思い出す。

祖母はうつくしい人だった。
大学ではマドンナと呼ばれていたらしい。それは、祖母がいなくなってから祖父母の家にかかってきた電話で知った。「僕は彼女

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