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僕の理想の一日にお父さんは要らない

 「もし時間やお金の制約は何もなくて自由に過ごせる一日を与えられたらどんな一日を過ごしたいですか」と知り合いのお子さんの少年に聞きました。
 「朝からカップラーメンを食べて、お母さんとショッピングモールで買い物をして寿司を食べた後、家で静かに絵を描きたい。それから晩御飯は天ぷらと辛ラーメンを食べたいし、その後ゲームしたり漫画を読んだりして、友達ともチャットしてからお風呂入って寝るって感じかな」と少年が笑顔を浮かばせながら妄想していました。
 少年っぽい答えだなとかわいく思いながらも、おかしなことに気づきました。
 「いいな〜、だけど、その一日はお父さんと何もしたくないの?お母さんだけ?」
 「そうだよ、理想の一日だからお父さんは要らないよ、外国で仕事してお金だけを稼いでくれたらいい」とあっさりと父親を自分の生活から排除しました。
 少年の父親は外国で仕事している一方母親は退職し子供の学校教育に専念しているそうです。数ヶ月に一回会いに来る父親がもしこの答えを聞いたらどんな思いをするのでしょうか。きっと辛いかと思います。
 「お父さんは金稼ぎする人、お母さんは世話する人」と、つまり「男は仕事、女は家庭」という性別役割分業意識は社会に入ってから職場などで強く意識させられるかと思いましたが、子供がこんなに早くも植え付けられているのかと驚きました。
    
このまま少年が大人になると、自分の妻にも「家庭を守る」存在でいてほしいと期待するでしょう。そしてもし彼に娘ができたら、娘にも「仕事する男」と結婚し「家庭の女」になるように育てるでしょう。連鎖が続いていく、想像するだけでゾッとします。
 私は子供時代から共に働く両親の背中を見て育ちました。自営業していて、幾度か業界を変えましたがずっと二人で協力して生計を営んでいた両親でした。たまに仕事場にも連れて行かれて忙しく動き回る二人の後ろでおもちゃで遊んだり昼寝したりしていた記憶もあります。
     ただ三食の用意や病気の時の世話、おもちゃの手作りをしてくれたのは確かほとんど母でしたので、子供の時から「仕事は男女ともに、家事も女」(これもよいとは思えない)とぼんやり思っていました。
 「母親が家事育児専業の子供は性別役割分業観を肯定する傾向があり、逆もそうである」との分析もありますが、まさに少年と私のケースに当てはまります。
      このような「少年の母親」は日本に今だに少なくないし、過去に「婦人が世の中の半分を支える」(妇女能顶半边天:共働き当然)と唱えていた中国でも、最近は増えてきている気がします。
     では、彼女たちはなぜ甘んじて「家事育児専業」を選んだのでしょうか。「仕事は男女ともに、家事も女」の窮状から脱出しようとするから、意図せず「男は仕事、女は家庭」という意識形態の復活を助長させてしまったのではないでしょうか。

愛」と「母性」が、それに象徴的な価値を与えて祭り上げることを通じて、女性の労働を搾取してきたイデオロギーである 

「家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平」上野,1990

   そのような意識形態の復活は一見「少年の母親」たちが自ら選択した道に見えますが、実際は「愛」と「母性」という旧来からの固定概念に「脅迫」された結果ではないでしょうか。  
 一方、男にとっても、「子供の理想の生活には要らない存在」になることは幸せと言えるのでしょうか。いわゆる有償の仕事の世界で出世すれば家族からの愛情なんてなくていいとの価値観を持っている父親はいるかもしれませんが、大半の人はそれを望んでいないと思いますが。
 「仕事も男女、家庭も男女」の日が早く来るといいですね。


Podcast:Nana在日本
個人HP:https://nana-zai-jp.com/

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